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第75話

残された問題の一つに呪詛があった。 昨夜遅く仕事を終え、漸く寝ようと寝台に入ったラファエルの部屋にユリウスが突撃して来た。咄嗟に枕元の愛剣を掴んだラファエルは、ユリウスの頭に拳骨を落とした。 「俺でなければ、問答無用で斬られていたぞ」 ヒリヒリする頭を押さえて、涙眼のユリウスは「だって……」と、子供のように口を尖らせた。 「それで、何の用だ」 「そうそう。桂の木ですっ!」 「…頼むから具体的に話せ」 「ブラッドが貸して欲しいと言っていた、古代からの歳時記を纏めた本を思い出したんです。その中に、桂の枝を魔除けとして戸口に飾っていたと記してあったんです。今では、その風習は殆ど見かけませんが、もしかしたら、あの壺を桂の木で覆っておけば良いのではないかと」 思うんです、と続けようとしたユリウスの頭を今度は撫で、ラファエルは上着を羽織って部屋を飛び出した。 「大正解だな」 桂の木で作ってあった井戸の水汲み用の桶に壺を詰め、蓋をそれに合わせて切って封をし、縄でぐるぐる巻きにした物を見てレオンが言った。 人払いした中庭で、ローザリンデとラファエル、そしてジークムントとアルベルトの視線が集中したレオンは頷いて桶をぽん、と叩いた。 ブラッドとユリウスは講堂で病人の世話をしており、この場にはいない。 「しかし、これをどう処理したものか……」 ラファエルが顎に手を当てて呟いた。 「これに持たせて、敵陣に返して来たらどうだ」 「これって、俺の事でしょうかぁ?」 レオンに指差され、ジークムントが頬を膨らませた。 「お前は、全く、全然、平気だろ?」 「……全く、全然、平気ですよ」 「レオン殿、確認なのだが、呪詛は完全に止まったと思って良いのだな?」 ローザリンデの問いにレオンは頷いた。 「俺も呪詛の専門家ではないから詳しくはないが、壺を見つけた時点で呪詛自体は止まったと見て間違いない。だが……」 「だが?」 「普通は見破られた瞬間に呪詛は術者へ返るのだが、核への呪いが供給され続けている」 「と、いう事は……」 「術者はぴんぴんしていて、呪詛は継続されている、という事だ」 「つまり、大元を止めねばならんのだな?」 「しかし、こちらから仕掛ける訳にもいきません」 ラファエルの無念そうな呟きに、レオンは呆気に取られた。 「呪詛を行っているのは、十中八九、国境線に展開している敵陣で間違いない。彼が大怪我を負ってまで持ってきた情報だぞ。しかも、黒い鱗という証拠もある。打って出るのに、何の支障がある」 「王都中央議会の意向だ」 ラファエルが吐き捨てた。 「国境線での戦闘は、場合に依っては相手国への侵攻と取られかねない。大国の我らが些末な事で、他国にその様に取られれば各国からの批難を受けるのは必至。故に、決してこちらから手を出してはならない、と」 「呆れたな。既に『呪詛』という攻撃を受けているじゃないか?!」 「武力ではないからな」 今度は、ローザリンデが苦笑して答えた。 「相手の意図が解らない伯爵じゃないだろう? 呪詛で辺境軍を壊滅させられるとは、そんな非効率的な手段は作戦の主軸じゃない。呪詛で弱体化させたところを攻撃して来る気だぞ 」 ローザリンデは飄々とした表情だが、他の三人は拳が白くなる程握り込んでいた。 辺境軍は、例え防御と言えど越境しての戦闘は赦されていない。結界で護られているのだから、相手が越境して来るとは王都中央議会は微塵も考えていない。 寧ろ、軍備を増強なんぞしたら逆に相手を刺激し、攻撃の口実を与える事になる。国境沿いの集落の柵造りも関所の警備も最低限で良い。 しかし、今回の件を足掛かりに、向こうは大規模な侵攻を企てている。これは夢でも妄想でもなく、紛れもない事実だ。 「……彼が敵陣で見た黒い装束の人間は、間違いなく呪術師だろう」 レオンは話を元に戻した。 まじないの類いは日常の中で身近なものだが、呪術となると一線を画す。一般の人間とは全く異なる世界の話だ。まじない師に頼むのとは桁違いの金額が必要だからだ。しかも、依頼内容は物騒極まりない。 「呪詛の流れを止めるには、呪詛そのものを返すのが一番だ。呪術師を殺しても呪術は止まない事もある」 「出来るか、レオン殿」 「呪術は専門ではないが、竜の鱗を使っているのが幸いだった。方法は口外無用で頼む」 四人は深く頷いた。 「呪詛を返された方はどうなる?」 今まで黙していたアルベルトが訊いた。 「大概は送った呪詛の倍以上になって返る。無事に済むとは思えんが、相手は専門家だ。対策はしているだろうな。ぴんぴんしている、という事は呪詛は術者に返っていない」 「対策?」 「身代わりだ。大抵は人形だったり、動物や日常的に使用している物…装飾品とか……或いは、人だったりする」 「人……」 アルベルトは眉を顰めた。 「それに関連するのか分からないが、報告がある」 ラファエルがレオンだけを見た。レオン以外の者は知っているようだ。 「調教師のウォーレンらの事だ。砦を出た後、彼らに、密かに護衛をつけたのだが」 護衛という名の監視である。 見習いの少年らをどう言い含めたのか、全く疑いもなく、彼らはウォーレンの後に続いて国境を越え、敵陣の潜む森へと入って行ったのだ。 「伯爵は、ウォーレンをいつから疑っていたんだ?」 「ウォーレンの腕を掴んだ時に違和感を覚えたのだ。あれの筋肉の付き方は、肉体労働者というより、剣を振るう者のだ。向こうも疑われた事に気がついたのであろう。気持ち悪いくらい素直に引き下がったからの」 「いつから通じていたのか。それとも、入り込んだのか、入れ替わったのか……」 そこは分からん、とラファエルは首を忌々しげに横に振った。 「今思えば、あやつブラッドが竜の愛し子だと知っていたのかもしれん。血を与えようとしたブラッドを止めた時、殺気を感じた。人目が無ければ斬っていただろう」 ローザリンデに気づかせずにブラッドに近づいたのだ。背後を通ったのに気配を感じさせず、足音も無く、だ。 「あの、愛し子って、凄く稀な存在な筈ですよね? それだったら、殺すより連れて行こうとするんじゃ……」 アルベルトの疑問にジークムントが頷いた。 「どんな竜も、愛し子にコロッと懐いてしまうんでしょ? 巧く引き込んで利用したら、調教なんて面倒な事 をしなくて済むし、竜の巣を見つけたら捕まえ放題じゃないすか」 今度は、アルベルトがジークムントの言葉に頷いた。 だが、ローザリンデとレオンの反応は微妙なものだった。 「愛し子が、必ずしも思い通りになるとは限らん」 ローザリンデの言葉に、レオンが皮肉げに口許を歪めた。 「ましてや、竜の為にならない事を愛し子がする筈がない。それこそ、あり得ない事だが、赤子の頃から見出だして育てて、洗脳でもしない限りな」 それに、とレオンがローザリンデの言葉を継いだ。 「愛し子は、生きていなくても使い道が色々とある。血は竜や竜騎士にとって万能薬に、それ以外には猛毒になる。骨は砕いて燃やせば竜を魅了出来るし、心臓は深紅の結晶となる。紅玉より紅く、金剛石より硬く高額で取引される。しかも、膨大な魔力の塊でもある」 レオンの口から出た言葉だとは思えない内容に、ジークムントとアルベルトは顔を強張らせた。 「じゃ、じゃあ、ブラッドに護衛をつけておかないと…」 顔色を無くして講堂へ向かおうとしたアルベルトを苦笑してラファエルが止めた。 「副団長?」 「講堂にいるのは、全員竜騎士だ。愛し子に害意のある者は近づけない」 それに、ブラッドが危険な状態でレオンが離れる筈がない。アルベルトは肩の力を抜いて、当面の問題を整理する事にした。 講堂では、ブラッドとユリウスを加えた動ける騎士らが昼食と薬湯を配っていた。 偶然にも、口当たりが良く、胃の調子を整える桂の木の皮の茶葉を薬湯に入れた事で、呪詛の解毒効果が進んだようだ。自分らの騎竜が回復したという事もあり、彼らの表情は明るかった。 食欲も出て、体力も戻りつつある。後は伏してした期間に落ちた筋力の鍛え直しだ。 呪詛返しを後回しにし、ローザリンデは病人を見舞い、声を掛けて回った。近日中に北方軍が攻めて来る事を騎士らも予想しているのだろう。それでも彼らは焦りと苛立ちを表に出さず、体力の回復に専念し、寝台を離れて鍛練を始めた者もいた。 ブラッドとユリウスは素直に彼らの回復ぶりを喜んでいた。 喫緊の懸念としては、ここが戦場になるかもしれないという事だ。だか、呪詛の対処法が判明した今、砦からブラッドだけでも逃がさなくてはならない。 配膳車を押して昼食を配るブラッドに、騎士らの相好は崩れっぱなしだ。愛し子というだけでなく、純粋にブラッドの人柄に惹かれたのだろう。 「元気になって下さいね」と、曇りのない笑顔で微笑まれると、渡された薬湯を飲むよりも効果がありそうだ。実際、愛し子と竜騎士の相性の効果で、彼らの回復は目覚ましい。しかも、手を握って「頑張ってね」と言われたら、頑張るしかないではないか。 その様子を壁に凭れかかってレオンは無言で眺めていた。 (眼が怖いぞ、レオン殿…) 配膳を終え、四人は 配膳車に椅子を寄せて昼食を取る事にした。 昼食は、野菜と炙った鹿肉をライ麦パンで挟んだ物と茸のスープだ。雰囲気の明るくなった講堂で取る食事は美味しい。 そう思ってライ麦パンに齧りついていると、ふと、レオンの手が口許に伸びてきた。 「ついてた」 レオンがパン屑を摘まんでいた。「あっ」と思った時には、レオンがパクリと食べてしまった。 「もぅー、レオンってば……」 真っ赤になってブラッドは自分の口許を手の甲で擦った。背後では、竜騎士らが言葉無く眼を剥いていた。 「レオン殿、卿の滞在中の部屋だが…」 ローザリンデは吹き出したいのを堪えながら口を開いた。 「昨夜と同じく、ブラッドと一緒で構わない」 何の含みもなく、ブラッドは素直に頷いた。 「ふむ。荷物は、後で届けさせよう」 荷物といっても簡素な旅道具と剣だ。 「ブラッドとレオンさんは、ご兄弟なのですか?」 ユリウスが訊ねた。 ブラッドはパンに齧りついたまま、レオンはパンに齧りつこうとして固まり、信じられない物を見る眼でユリウスを見た。 「ユ、ユリウス先生…、どうして兄弟だと思われた」 肩を震わせ、腹筋に力を入れて、どうにか吹き出さないよう努力してローザリンデは訊いた。 「え、だって、寝台は一人用ですよ? あの部屋にもう一台寝台を入れるのは無理でしょう?寝台を一緒に使うしかないですよね?」 他人と違って 兄弟だから一緒に寝るのに抵抗が無いのだろうと、ユリウスは単純に思ったのだ。でなければ、同性の、しかも野郎と寝台を分かち合うなど、ユリウスでも御免だ。 だが、同性の兄弟を持つジークムントとアルベルトがいたら、声を大にして抗議するだろう。 「いくら美形だからって、あの、兄上と寝台を共にするなんて、死んでも嫌だね! それだったら、俺は冬だろうと外で地面に直接寝る!」 「兄さん達と、一緒っ?! 冗談だろ? 鳥肌が立つっ!」 レオンはパンを持ったまま項垂れた。吹き出さない為だ。 医師であり、研究熱心(過ぎる)な割りに天然なのを知っているのは、幼馴染みのラファエルだけだった。現在、騎士団の再編成の書類作成の為、彼はここにいない。 ブラッドを竜の愛し子と知って尚、レオンを「ただの」兄と思い込んでいるところが、彼の天然さを語っていた。 「違うのですか? こんなに雰囲気が似ているのに……。あ、そうか! 恋人同士なんですねっ?!」 ニヤリと笑って、レオンはブラッドの肩を抱いた。 「そうなんですね。納得しました」 「先生は同性というのに抵抗はないのか」 「うーん……。考えた事ないですね。互いに好きなら、同性でも異性でも構わないと私は思いますし、何より、お二人ともお似合いですよ」 ブラッドは真っ赤になって俯き、竜騎士らはどよめきと悲鳴を上げ、ローザリンデは堪え切れず、とうとう盛大に吹き出して笑った。 その夜、天然にも程があると、ユリウスはラファエルに懇懇と説教された事は言うまでもない。

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