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第76話

井戸がレオンに依って浄化され使用可能になったお陰で、ブラッドらは思いがけず、風呂に入れる事となった。蒸し風呂が通常なのだが、 砦は地下水が豊富という事で、珍しい浴槽の風呂だった。 ローザリンデの好意で、アルベルトを介助しつつ、ブラッドとユリウスの三人で風呂に入る事になった。 レオンが井戸を浄化したのだから、レオンも一緒に入ったらどうかと言ったら、彼は微妙な顔をして「後から頂くよ」と断った。 中は三人で使用するには勿体ない程の広さだった。浴室では薬草が蒸され、心地良い香りが充満していた。 レオンとジークムントは三人が風呂に入っている間、入口で並んで立っていた。不埒な者が(万が一)出たら排除する為である。 最初、心配し過ぎではないかとジークムントは思ったが、中から漏れ聴こえてくる会話に納得した。 「アルベルト、思ってより早く治ってきてますね。それにしても、騎士の方なのに、あまり傷痕が無いんですねぇ」 「ブラッドの肌、凄いすべすべで綺麗だね。体毛も薄いし、真っ白で、真珠みたいだ」 「先生の髪って、さらさらで柔らかいんですね。ぼくのくせっ毛で、毎朝起きると絡まってるんです」 「あ、分かるよ。俺もなんだ」 「ブラッドは着痩せするんですね。筋肉がしっかりついてます。健康的で良いですね」 ジークムントが、ちらりとレオンを横目で見た。 「先生、アルさんの背中のかさぶた、取ってもいいですか?」 「良い具合に柔らかくなってますね、取りましょう。…ほら、大分新しい皮膚が出来てきてます。赤ちゃんの肌みたいですね」 今度はレオンがジークムントを横目で見た。 「背中の方、ぼくが流しますね」 「ありがとう。自分でも拭いてるんだけど、まだ痛くて手が届かないんだ。ブラッドはこういうの慣れてる?」 「はい。神殿の治療院で、患者さんのお世話をさせて頂きました」 その後は「そこ、気持ちいい」だの「擽ったいです」や「今度、髪に良い石鹸をあげますね」など、会話だけ聴いていたら、女子会である。 二人は眼を逸らし、そっと溜め息を吐いた。 部屋の窓を開けると、風呂上がりの火照った頬を気持ち良い風が撫でた。室内は燭台のみの落とした灯りの為、夜空の星が良く見えた。 ブラッドは寝台に座り、昇りかけの欠けた月を見上げて短い嘆息を吐いた。 ずっと自分に自信が無かった。不安定な気持ちが常にあり、何かに追い立てられているような気がしていた。その一因が、生まれた時に投げつけられた言葉にあったと分かった。 分かったからといって、すぐにその不安感が取り除かれる訳ではないが……。 孤児院を自立して働き始めて慣れた頃、奴隷商人に拐われ、侯爵に救い出された。それから少ししてレオンが竜の卵を売りに訪れた。 その後に様々な事がブラッドの身に降りかかり、今は、何故か砦にいる。よくよく考えると、そんなに日にちが経っていないのだ。 (ユリウス先生に助けて欲しいってお願いされて来たけど、ぼくなんかに出来る事なんて微々たるもので、失敗ばかりで……逆に迷惑かけちゃったし……) 消えて無くなりたいと思った。役に立たない人間だと思った。それなのに、日頃の誠実さをちゃんと見ていてくれる人がいた。怪我をすると悲しいと言ってくれる人がいた。間違っていないと抱き締めてくれる人がいた……。 そして、何より、自分を好きだと言ってくれる人がいる。 物心ついた頃から目を逸らしてきた胸の奥にあった凍った塊が、少しずつ溶けて軽くなってきたような気がする。まだ、完全ではないけれど。まだ、少し、わだかまりがあるけど……。 伯爵に勇気を貰えた今、心に刺さっている小さな棘を取り除きたい。 (ちょっと、手が震えるけど…) 震える両手を握り込んだ時、扉を開けて茶器を一式持ったレオンが部屋に入って来た。 肩越しに振り向いたブラッドが真っ直ぐに自分を見つめてる。 珍しい事もあるとレオンは思った。 いつも、少し恥じらいながら、少し遠慮がちに伏せ目で見ていたのに。可愛いな、と思った。同時に美しいとも感じた。 僅かに染まった上気した頬の輪郭が、欠けた月の明かりを受け、淡く輝いていた。 「夜風は躰に良くないぞ」 「あ、うん。もう、閉めるね」 ブラッドが寝台から降りて窓を閉めている間に、レオンは淹れて来た茶を茶器に注いだ。 ブラッドはレオンに促されて寝台に並んで座り、茶器を受け取った。温めの茶は、風呂上がりの渇いた喉を程よく潤してくれた。 窓を閉めても外の虫の音が聴こえてくる。 会話は無いが、穏やかな時間がゆっくり流れた。 飲み干して空になった茶器を両手で玩びながら、ブラッドはレオンに話しかける切っ掛けを待っていた。レオンはレオンで、ブラッドが自分を何か言いたげに、ちらちら見ているのに気づいていた。 どうかしたのかと訊こうとした時、ブラッドが寝台を降りて茶器を箪笥の上に置いた。再び寝台に座ると、一呼吸置いて、思い切ったようにレオンを見上げた。 「あ、あのね、ぼく、レオンに訊きたい事があってね……」 「うん?」 いつもは伏せ目がちの瞳を僅かに潤ませ、レオンの眼を真っ直ぐ見上げてブラッドは続けた。 「あのね、その…、レオン、ぼくの事、す、好きって……」 「ああ。好きだし、凄く大事だ」 ブラッドは真っ赤になった。 「それでね、ぼくなんかの、どこが好きなのかなぁって思ってるんだけど…」 同じく飲み干した茶器を箪笥に置き、レオンはブラッドに向き直った。見つめてくるブラッドを見つめ返し、両手で頬を挟んだ。 「自分に『なんか』なんてつけるなよ」 「だって、その、ほくは伯爵様や侯爵様みたいに綺麗じゃないし、背も低いし、剣も弓も使えないし……」 (待て待て待て、寄りによって、何で妖怪どもと比べるんだ……) 「それに……、レオンが欲しがってた卵って、本当にぼくなの?」 「ブラッド?」 「もしかしたら、勘違いしてるのかもしれないよ?」 これを言ったら全部終るかもしれない。そう思うと声が震える。怖いけれど……。 「だって、元々、どっちでも良かった卵なんでしょ? 長い間探していたから、それで、やっと見つかったから、好きだなんて勘違い、してるのかもしれない……よ…?」 「ブラッド、それは……」 「だって…、だって、もしかしたら、レオンが欲しかった卵は、ぼくじゃなかったかもしれないんでしょ? そしたら、ぼくを好きにはなってくれなかったんだよね?」 いつの間にか全身が震えていた。見上げる瞳に不安の色を感じ、ブラッドが何を言いたいのかレオンは察した。 自分がブラッドを不安にさせているのだ。どこか不安定で、自信が無くて自分を卑下するのは、卵の時に投げつけられた公爵の言葉だけのせいではない。 自分は何と言った? ああ、そうだ、自分は『どちらか』と言ったんだ。 「済まなかった」 「どうして謝るの? やっぱり……」 「そうじゃない。俺の言い方が悪かったんだ。ここではっきりさせよう。…本当は、お前に嫌われたくなくて、気持ち悪いとか思われたくなくて、敢えて言わなかったんだが…、その…、聞いても引くなよ?」 「嫌う? 気持ち悪い?」 「そうだよ。だってさ、お前が従姉の腹の中にいた頃から、後から生まれるお前を必ず貰うと決めていたんだからな」 ブラッドを瞼を瞬いた。 (珍しい、レオンが、照れてる…?) 「引くだろ? 腹の中にいる時から俺のものだって決めてたんだぞ?」 「レオンは、その人が好きだったの? だから、その人の卵が欲しかったの?」 「従姉としては好きだが、異性として意識した事は無い」 「ぼくは、もう一つの卵の代わりでもなく、その人の代わりでもない……?」 「ずっとブラッドだけを探していたんだよ。……執念深くて引くか?」 「ううん」 ブラッドは自分の頬を挟むレオンの手に自分の手を重ねた。まだ、少し震えていたが。 「……見つけてくれて、ありがとう」 頑張っても頑張っても全然努力が足りないと思っていた。世の中の役に立たない人間だと思っていた。 何故なら、身内にも見捨てられた無価値な人間なのだから。 けれど、レオンが捜し出してくれた。 長い時間をかけて、諦めずに。 眼の奥が熱くなり、鼻の奥がつんとしたかと思うと涙が溢れて二人の手を濡らした。 「礼を言うのは俺の方だ」 「レオン?」 「よく、生きていてくれた。ありがとう」 レオンは細い躰を抱き寄せ、ブラッドの温もりが現実である事を改めて実感した。 ただ、母親を『その人』と称したブラッドの自覚の無い闇の深さも同時に思い知った。

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