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第77話
「ブラッド、母親に…家族に会いたいか?」
「えっ?」
思ってもいない言葉に、ブラッドは顔を上げてレオンを凝視した。本当に思ってもいなかったのだと、ブラッドの表情で分かった。
「かぞく……?」
生まれて初めて聞く言葉のような反応だった。
だって、捨てたんでしょ?
いらないって言ったんでしょ?
それなのに、かぞくって、言うの?
レオンを見つめる瞳が、言葉よりブラッドの疑問を雄弁に語っていた。
「ブラッド、その……」
「ぼくの家族は、孤児院のみんなや神官様達だよ?」
「母親に会いたくはないか……?」
「母親……お母さん……」
孤児院にいた子供らの事情は様々だった。赤子の頃に捨てられた者。離婚により養育を放棄された者。病気や戦で両親を亡くしたり、仕事で長期間預けられたり、迎えに来るからと置いて去られた者など。
迎えに来る者も稀にいた。それが親を覚えている子供らに、残酷な希望を持たせてしまっていた。
ブラッドも親に縁が無かった為、親を恋しがって泣く年少の子供らの気持ちが分からなかった。親の迎えを信じて待つ子供らは、なかなか孤児院に馴染めなず、どう慰めて良いか分からなかった。
ある日、騒動が起きた。
毎日、親の迎えを信じて門の外を見ていた数人の年少組がいた。その子供らに、親を知らない年少組が『お母さん』について訊いた。
「お母さんって、なに?」
「お母さんは、あったかくて、やさしくて、ごはんを作ってくれて、かなしいとき、ギュってだきしめてくれるの」
「お父さんは?」
「お父さんは大きくて、肩車してくれたり、いっしょに遊んでくれるの」
絶対迎えに来てくれると得意気に話す子供らに、親を知らない子供らが訊ねた。
「じゃあ、どうして、やさしくて、遊んでくれるお母さんとお父さんはみんなを捨てたの?」
決して意地悪ではなかった。純粋な疑問だったのだ。
迎えを待っている子供らも、薄々は感づいていたのだ。どんなに待っていても迎えなど来ないと。
それを認めたくなかったのだ、と……。
その後、迎えを待つ子供らが大泣きし、それが全体に及び、孤児院中が大騒ぎになってしまい、収集かつかなくなった事があった。
しゃくりあげ、泣きながら呼ぶ『お母さん』ってどんな人なんだろうと思ったが、ブラッドには全く想像出来なかった。
温かくて、優しい?
どんな顔をしているの?
手は? 声は?
会ってみたいと思った。だが…、それは、多分、思慕ではなく、訊いてみたかっただけ。
どうして、自分を捨てたのか、と。
「会いたいって思うのが、普通なのかな?」
心からの疑問なのだろう。不安げに瞳が揺れていた。
「普通、とかじゃなくて……、その…、母親に会ってみたいとか思わないのか……?」
「ぼくの…母親……」
ブラッドは眉を顰めて瞳を曇らせた。
皆が慕う『お母さん』に会ってみたいと思った事はある。想像しようにも、声も体温も知らない。
けれど、温もりを知っていた。そうだ、知っている……。それは『お母さん』ではなく……。
グリューンの歌だ。
温かく包み込んでくれ、優しく頭を撫でてくれるような感覚を思い出した。ふわふわと光の粒が舞い、乾いた大地に優しい雨が染み込むように……。
そして、レオンが教えてくれた。自分の出生と孵化が出来た訳を。孵化に大量の魔力を必要とする竜人族の自分に、たくさんの雌竜が魔力を注いでくれたのだと。
竜を魅了する魔力が備わっていたとはいえ、竜達は根気よく魔力を注ぎ続けてくれたのだ。
では、自分の『母親』とは、彼女らなのではなかろうか。否定ではなく、愛情を注ぐ対象と認めてくれたのは竜達だ。
それだけで、ブラッドは『母親に会いたい』という気持ちに満足してしまったのだ。
実は、そこに愛し子と竜人族との間に隔たりが出来る一因があった。
竜人族でありながら竜族の魔力で孵化した愛し子は、同族よりも竜に親しみを強く感じる。人で言う、初乳を与えられたようなものなのだから。
対して竜人族は『獣』である竜の魔力で孵化した愛し子を蔑み、同族と見なさない傾向がある。
遠い昔は、竜によって奇跡的に孵化した愛し子を竜仙境に戻していた時期があった。
しかし、両者の間の溝は深く、孤立した愛し子が衰弱死してしまうのが常であった。
ある時、愛し子を慕って竜が大挙して飛来した事があった。連れ去られた愛し子を取り返す為だ。
それが、当時の皇帝の怒りに触れた。
竜は純粋に愛し子を、愛し子は竜を必要としただけなのだ。だが、全ての竜を統べる皇帝は激怒し、愛し子を反逆者として処刑した。
それが、現在の愛し子に対する竜仙境の対応の基礎となり、見つけ次第『幽閉』か『処刑』となったとされている出来事だ。
「ぼくは、お母さんに会いたいって思わなきゃならなかったんだ?」
「ブラッド…」
「どうしよう…。会いたいって思わないぼくは、薄情なのかな……?」
不安げに揺れる瞳に、レオンの胸が痛んだ。だが、それと同時に仄暗い悦びがあった。
レオンには、どうしてもブラッドに言えずにいる事があった。それは、レオンの従姉でブラッドの母親と公爵家の事だ。
竜仙境の貴族は卵が複数産まれた事を徹底的に隠す。系図にも残さない。最初から無かったものとする。
昔は、懐妊時に卵が複数と確認されると、わざと流した事もあった。しかし、それは母体に多大な負担をかけ、時には死亡したり妊娠が不可能になる事もあり、今では禁止されている。
ブラッドの祖父に当たる公爵は、従姉に卵の片方は死産だと告げている。従姉は薄々気づいていたが、公爵家の一人娘として教育され育っている彼女は、卵の行方を訊ねる事は決して無かった。
娘婿は勿論の事、ブラッドの兄であり、一人息子として育てられているの嫡子もだ。
元々躰の弱かった従姉は複数の卵の出産が負担となり、更に病弱となった。それが、レオンとの約束を反故し、激怒した公爵が卵を処分する切っ掛けとなった。
それは養育の放棄であり、一切の関わり無しと宣言したに等しい。それ故、レオンは卵を…ブラッドを自分だけのものに出来ると密かに喜んだ。
だが、その事実はブラッドを深く傷つけるかもしれないと思うと言えなかった。
レオンはブラッドの膝裏を掬い上げ、自分の上に横抱きにして抱え込んだ。俯き、伏せて震わせているブラッドの睫毛に、優しく口接けを落した。そのまま唇は鼻筋を通り、ブラッドの上唇を食んだ。
驚いたように肩を震わせたが、ブラッドはレオンの唇から逃げようとはしなかった。眼を閉じ、レオンの胸にすがりついた。
「なぁ、ブラッドの中、俺だけで一杯にしてくれないか?」
軽い音を立てて唇を離したレオンが耳許で囁いた。
「えっ……?」
どういうこと?
「俺は、ずっと一人だった……。俺にも家族と呼べる者はいない。だから、卵が…ブラッドが俺だけのものになるのが待ち遠しくて、凄く嬉しかったんだ。それが行方不明になって、長い間探して、探して…見つからなくて、それでも諦め切れずにいたんだよ」
「レオン……」
「だからさ、俺だけを見て、俺だけに触れて、俺だけを想って、ずっとオレだけのものになってくれよ」
「レオンも…、ずっと一人だったの?」
「俺も特殊な生まれでな、家族というものが、どういうものか知らん。知らない者同士で家族を作るのも良いんじゃないか?」
「レオンと…家族に」
ブラッドの緑柱石の瞳の金環が一際輝いた。
「竜仙境に帰らなくて、良いの?」
「ブラッドが母親や兄弟に会いたいと思うなら、一度は戻ろうかと考えたが…」
ブラッドは首を横に振った。
「俺も、特に竜仙境に戻りたいと思わないし、どうだろう…、一緒に竜の卵売りをするか?」
「卵売り?!」
「お前を探している間、孵化せずに死んでいく卵が哀れで始めた仕事なんだがな」
もし、探している卵が同じように孵化せず、冷たい石になっていたらと思うと放っておけなかったのだ。これからも同じような卵が誕生するだろう。おこがましい事なのだが、何時しか全ての卵を救いたいと考えるようになっていた。
「レオンと一緒に……」
「竜の巣を探しての旅が殆どだから、あまり人里とは縁が無い。野宿が続いて大変な旅でもあるが、二人だったら、結構楽しいんじゃないかな?」
「二人で旅をしながら……」
余程の事が無ければ、人は産まれた場所から離れたりしないで一生を終えるのが普通だ。
竜の巣を探して旅をし、卵を見つけたら大事にしてくれる所へ売りに行く。そして、また探す旅に出るのを繰り返すのだ。
竜は定期的に巣の場所を変える。それを探して歩く大変な旅かも知れないが、レオンと一緒だと思うと魅力的で心が弾む。
「行っても、良いの、かな?」
「ああ」
「レオンと二人で?」
「俺とでは、嫌か?」
「ううん! 一緒が良いっ」
ブラッドはレオンの首に両腕を回して抱きついた。
「行きたい! 連れて行ってくれる?!」
「ずっとだぞ?」
「ずっと!」
(言質は取ったぞ)
レオンはブラッドを抱き締めながら、会心の笑みを浮かべた。この先、気が変わって自分から離れようとしても、絶対に逃がさない。
竜人族の中でも、レオンは特殊な一族の血を引いていた。血が濃ければ濃い程、愛しい者の肉一片、骨の一欠片、魂にまで執着する歪さを持つ性の一族だった。
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