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第79話
早朝、陽が昇る寸前、早馬が砦に入った。
最小限の軽装の鎧で着いた使者は、無防備な部分のあちこちを剣で斬られ、肩には数本の矢が刺さっていた。国境沿いの複数の村が同時に襲われたと告げると執務室で倒れ込んだ。
使者の手当てをユリウスに任せ、ラファエルは従者を宿舎に走らせた。
「動いたな」
ローザリンデの呟きにラファエルが頷いた。
「敵軍は少なくとも、合わせて千。対してこちらが出せるのは五百がせいぜいです」
「ふむ……」
「関所方面と村にはジークムントの隊を向かわせましょう。以前より各村には避難の指示を出しておりますが、全くの無傷とはいかないでしょう。先ずは村から奴らを追い出しましょう」
「では、予てよりの作戦を開始する」
「はっ」
ラファエルが大きく頷いた。
「…して、呪詛は返して頂けたのであろうか、レオン殿?」
執務室の隅で腕を組んで立っていたレオンにローザリンデが視線を向けた。
「問題無く返した。手応えはあった。砦内に呪詛の気配は微塵も無い」
ローザリンデに頼まれたからではない。ブラッドの周囲に闇の気配がある事が、レオンには我慢がならなかっただけだ。それでもローザリンデは構わなかったし、レオンも自分が返した呪詛の行方には興味が無かった。
例え術者でなく、罪の無い身代わりの人間に返ろうとも二人は全く気にしない。心の優しいブラッドは知ったら悲しむだろうが、黙っていれば済む事だ。
「しかし、この時期を狙って侵攻するとは、やはり間諜が入り込んでいたのでしょうが、一体、どうやって探り当てたのか…」
ラファエルが眉間の皺を深くした。
「全くの機密事項という訳でもない」
ローザリンデの言葉にラファエルは苦笑した。
「一枚岩でない中央政府の貴族院の何処からか洩れたのであろうよ。その辺は腹黒侯爵殿に任せてある」
(腹黒ねぇ……)
「何か言いたそうだな、レオン殿」
「いいえ。全く」
うそぶくレオンを軽く睨んだが、ローザリンデはそれ以上追及しなかった。
「寧ろ私は感心しているのだよ。国内の貴族供が、よう覚えておらぬ盟約の内容を調べあげ、それを利用しようと考えつく人物がおるのだ。是非、その尊顔を拜さねば気が済まぬわ」
物騒な笑みを浮かべ、ローザリンデは指をバキバキ鳴らした。
朝靄の中、胸当てと籠手、そして脛当という黒光りする簡素な甲冑姿のジークムントがブラッドに笑いかけた。隣には、同じ仕様の甲冑を身に付けたアルベルトがいた。
修錬場にはジークムントが率いる小隊が集合していた。騎竜と騎馬による混合部隊だ。どちらも頭部、胸を分厚い革の鎧で覆っており、竜には更に両脇に大きな篭が下げられ、槍、弓、戦斧が指してある。
(まだ、完治していないのに……)
大丈夫なのかと声をかけたいが、騎士に対して絶対に口に出してはいけない事なのではないか……。
ブラッドの心配げな視線を感じたアルベルトが振り返った。安心させるように微笑みながら近づいて来た。
「おはよう、ブラッド。朝早く賑やかで悪かったね」
「アルさん……」
出陣前だというのに穏やかな微笑で、アルベルトはブラッドの寝癖のついた頭を撫でた。そのままブ不安げな表情の頬を撫でる。
「ブラッドの手当てのお陰で、存分に働ける。ありがとう」
ブラッドはその手をぎゅっと握り、何か言おうとしたが言葉にならない。その様子を慌ただしく出立の準備をしていた騎士らが静かに見守っていた。
ふっと真剣な様子になったアルベルトが、ブラッドの手を持ったまま片膝をついた。
「ア、アルベルトさん?!」
その手の甲に口接けし、恭しく掲げた。
「ア……」
「御子、我らに鼓舞の言葉を下さい」
思ってもいない成り行きにブラッドは戸惑い、助けを求めて周囲を見回した。ジークムントと目が合うと、彼はアルベルトの横に並んで同じように片膝をついて頭を垂れた。
背後の騎士らも彼らに倣い、片膝をついて頭を垂れると、騎竜と騎馬も嘶き一つあげずにブラッドに視線を向けた。
ブラッドには彼らが何処へ何の目的で出陣するのか知らされていない。秘密というより、ブラッドから血生臭さを遠ざけたかっただけなのだが。その思い遣りに対しての言葉が美味く浮かばない。
(何を言えばいいの……? ぼくなんかが、烏滸がましくないかな……)
背後からローザリンデがブラッドの両肩に、そっと手を置いた。
「伯爵様……」
「そなたの思うがままに」
(気をつけて、とか、怪我をしないで、とかは違うよね……)
彼らからは、命を賭して戦いにいく者の強い覚悟と騎士の矜持が感じられた。
ブラッドはアルベルトに掲げられている手をそっと外し、自分の胸の前で両手を祈るように組んだ。
「皆様、ご武運を」
ジークムントとアルベルトを先頭に騎士らは更に深く頭を垂れた後、一子乱れず立ち上がり敬礼をした。彼らの気迫に押され、思わず下がりそうになったブラッドはローザリンデに支えられ、ぎこちなくも笑みを返した。
その様子を離れた所から見ていたレオンの眼には、ブラッドから放たれた黄金の光りが拡がり、騎士らを包み込む様が映っていた。光りは大きく波打ち、美しい弧を描いて竜騎士だけでなく、騎馬隊や竜、馬を包んだ。
竜の愛し子の強力な加護だ。
ブラッドの慈悲の深さが窺えるのと同時に、歴代の愛し子とは違う力と大きさを感じる。
(やはり、竜仙境に戻らない選択は正解だな)
各々が自分の騎竜、騎馬に向かった時、アルベルトの様子を見に来ていたユリウスがブラッドに声を掛けた。
「ブラッド、どこか具合が悪いのですか?」
騎士らの足が止まった。
「何だか、歩き方がぎこちないような…。どこか怪我をしたのですか?」
一拍置いて、ブラッドの顔が髪の色と同化した。
「おや、顔が赤いです。熱でもあるのですか」
俯いて固まってしまったブラッドの顔を覗き込もうとしたユリウスの頭を、がっと掴んだ手があった。
「お前には説教が足らなかったようだな」
「えっ、ラファエル?!」
ラファエルにずるずる引っ張られて行くユリウスよりも、騎士らは首筋まで真っ赤になって立ち尽くすブラッドに釘付けになった。
「大人の階段を上ったのだな、おめでとう、ブラッド」
ローザリンデがブラッドの肩を叩いた途端、ブラッドは更に赤くなった顔を覆った。
騎士らは声にならない嘆きの悲鳴を上げた。
少し離れた所で涼しげな表情で立っているレオンをブラッドは恨めしげに睨んだ。
実は、前の一部分が下着に擦れると、少しヒリヒリするのだ。そうすると、どうしても昨夜の行為を思い出してしまい、大声を出して駆け出してしまいたくなる。居たたまれなくなる。
だから、意識しないように歩こうとすればする程、歩き方が変になってしまうのだ。
末っ子のアルベルトは、何故か弟に兄離れされたような気持ちになり、ブラッドの頭をぽんぽんした。
ジークムント隊を見送ったローザリンデはラファエルを従えて修錬場を後にした。ブラッドの前の甘い微笑とは違う、厳しい表情だった。
「計算は終了したようだな」
ローザリンデの横に並んだラファエルもまた厳しい表情で頷いた。
「明日の正午過ぎです。ユリウスの計算ですから間違いはありません。皆にはその事を知らせても?」
「どうせ起こる事だ、構わん」
二人は同時に空を見上げ、足早に各々の持ち場へと向かった。
空になった講堂をブラッドとレオン、ユリウスの三人は残った騎士らと供に片付けていた。敷布と毛布を畳んで纏め、寝台を宿舎に戻す為に外へ出した。
寝台を太陽に当てて湿気を払う間、休憩を取る事にした。並べてある寝台に座り、皆でブラッドの淹れた香草茶を飲んだ。
呪詛の消えた砦の空は澄みきって、心地好い空気で充たされていた。
「あ、そう言えば、明日日蝕があるんですよ、知ってましたか? しかも、珍しい皆既日蝕です」
香草茶を飲み干したユリウスが声を上げた。
「皆既日蝕ですか? 珍しいですね」
「ええ。ブラッドは日蝕の仕組みを知っているのですね?」
「はい。神官様から教えて頂きました」
神殿では天候と運命を司る太陽神を信仰している。月の女神は死と再生を司り、星は神々から零れた光りだ。
神話では、皆既日蝕は太陽が月の女神に飲み込まれ、新たに再生し、生まれ変わるとされている。
神殿に関わる者でも日蝕の原理を正しく理解している者は多くない。
突如、太陽が欠けてゆき夜が訪れるのだ。すぐに太陽が現れるとはいえ、予備知識が無かった頃の人々は恐慌に陥り、流言飛語が飛び交い、犯罪が増え、暴動から戦争に発展した事もあった。
それらを防ぐ為、神殿では幼い子供でも理解出来るように物語として広めた。それでも暴動が起きたり、それを悪用した詐欺が横行したりしたと記録されている。
「太陽が月に完全に隠されてしまう、とても珍しい現象ですよね。近いところでは百年程前の南の王国で起きたと神殿の記録にありました」
「さすが賢者殿の神殿です。高度な教育を施しているのですね」
「でも、いつ、何処で起きるかなど知りませんでした。先生は、どうして知っているのですか?」
「過去の暦や天体の動きを計算したんですよ。昨夜、一晩かかりました。ラファエルが突然計算しろと言ってきて、歳時記と文献と神殿の暦で何とか計算出来たんですけどね」
「凄いです……」
ただ、ただ、感心した。
神殿でも暦の作製や月齢の計算は専門の複数の神官が担当している。それを一人で、しかも、一晩で計算してしまうとは。
「部分日蝕は大陸でも珍しくないんですが、皆既日蝕となると数百年単位になるので、文献にもあまり残ってなくて、計算より探す方が大変でした」
「南の王国の時は、神殿に人々が殺到したと記されてました」
一般の目に触れる事のない文献の膨大な記録を覚えているブラッドの記憶力と、ユリウスの人間離れした計算力に、騎士らは無言で香草茶を飲み干した。
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