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第80話
風が出てきたのは午後になってすぐだった。
ブラッドは洗い終わった敷布を木と木の間に張った縄に干した。心地好い風を頬に受け、この分なら直ぐに乾きそうだと笑顔になった。
その横を騎士が二人がかりで運んでいる寝台をレオンが両肩に一台ずつ、二台を乗せて軽やかに歩いている。目立っているのだが、本人は気にせず黙々と運んでいた。
(同じ竜人族なのに、何で、ぼくはこんなに非力なんだろう?)
ブラッドが持っているのは室内用の箒と桶だ。持つ手は細く、胸板は……薄い。
ブラッドの視線を感じたのか、レオンが寝台ごと振り向いて微笑んだ。
「疲れたのか、それも持とう」
「えっ?! だ、大丈夫だよ!」
慌てて首を横に振った。
「そうか? 躰が辛かったら遠慮無く言ってくれ。…俺が原因でもあるからな」
ニヤリと笑ったレオンの言葉の意味を理解した途端、ブラッドの顔が首まで真っ赤になった。
「うー…、レオン、酒場の助平親父みたいっ」
ブラッドは頬を膨らませ、その場から駆け去った。まさか、ブラッドから『助平親父』という言葉が出るとは思わず、レオンは呆気に取られて駆け去る後ろ姿を見送った。
その夜、ジークムントの部隊は砦に帰還しなかった。
ラファエルの説明では、国境沿いの集落は複数あり、戦闘が終わっても周囲への警戒や損害の確認の為、早くても十日前後は留まるとの事だった。
夕食後の片付けの手伝いを終え、ブラッドは一人で宿舎に行こうと外へ出た。ふと空を見上げると、針のように細い月が昇って淡い光を放っていた。
「明日は新月か……」
そう呟くと、ユリウスの言葉を思い出した。
『明日は皆既日蝕なんですよ』
日中の太陽に新月の月が重なり、数分間、昼と夜が逆転する珍しい日蝕だ。予備知識が無いと大騒動となり、内乱になったり隣国との戦争に発展したという記録もある。
細く、心許ない月明かりを見ていたせいか、肌が粟立ち、背中が大きく震えた。
ジークムントの部隊が戻らないからなのか、胸の奥が不安でざわついていた。
「みんな、怪我をしていないといいんだけど……」
動物達も明日の日蝕を感じていたのか、砦で飼っている家畜や馬、竜達もどこか落ち着きがなかったように思う。一緒に世話をしていた厩舎の者達も、動物を落ち着かせるのを苦労していた。
昼過ぎに吹き始めた風は陽が落ちてからも止まず、ブラッドのくせっ毛をどんなに手で押さえても絡ませた。直すのを諦め、ブラッドは宿舎の与えられた部屋へ向かった。
部屋に入ると、箪笥の上の燭台には誰かが灯りを点けてくれていた。短く感謝の言葉を口にし、ブラッドは少しだけ窓を開けて寝台に座った。
窓からは月が見えた。
月明かりが淡いからか、星が沢山瞬いているのがよく分かる。見慣れた夜空なのに、いつもと違うように見えるのは気のせいだろうか。
明日、皆既日蝕だから、そう感じるのかもしれない。
考えすぎかな、と思った時、小さな欠伸が出た。そんなに疲れたとは思わないけれど、強い眠気が襲う。
「ちょっとだけ横になろう」
レオンを待っているつもりだったのだが、横になった途端、ブラッドは瞼を開けている事が出来ずに眠ってしまった。
ここ数日、夜に団長の執務室に主のローザリンデ、ラファエル、レオンの三人が集まるのが習慣化していた。
「日蝕の影響は竜や竜人それぞれ異なるが、一番厄介なのが魔力の制御だな」
「魔力か……」
レオンの言葉に、ローザリンデとラファエルは同時に唸った。
「制御が出来なくなったり、暴走したり、最悪なのが魔力の涸渇だろう」
月に隠された太陽が現れるまでの数分間、日蝕の影響の及ぼす範囲では、どのような作用が起こるか想像がつかない。
「仙境から魔力が流れ込めば魔力量が膨大になり、竜の制御が難しくなるかもしれない。逆に魔力が仙境へと流れれば魔力量が極端に少なくなる」
人界と接する仙境は竜人族の仙境だけではない。精霊界や魔界が人界を複雑に取り囲んでいる。仙境と人界との境界は曖昧で、時々、稀に人間が入り込んでしまう事がある程度だが、日蝕の時は更に拮抗が崩れてしまう。
長命な竜人族のレオンだが、まだ百年に満たず皆既日蝕自体初めての為、伝聞での知識しかない。
一番の懸念は日蝕に依って闇の気配が強くなる事だ。
北方軍で強力な呪詛を行える呪術師がいる事が分かっている。魔力の不安定な日蝕をどのように利用してくるのか予想が出来ない。
「何はともあれ、明日の日蝕が始まらん事には影響が分からん、という事か…」
短い嘆息を吐いてローザリンデは椅子の背凭れに躰を預けた。
「全て後手にならざるを得ないのが、何とももどかしいですね」
「致し方無い。先制なんぞしたら、中央政府の思う壺だ。領地の配置換えどころか、領地没収たろうな」
「…何でそんなに中央に嫌われてるんだ?」
レオンは疑問に思った。
辺境の難しい地を治めているのだ。北方国との折衝を一手に引き受け、小競り合い以上に発展させず、国の弱味とならないよう政治的取引の差配も見事だ。
「森の精霊王との盟約で張られた結界により、北方からの侵攻は無く、政府からの補助金を受け取るだけの旨味のある地だと思うておるのだよ」
「どんな強固な壁も、大きければ大きい程、鼠の穴程度で崩れたりするものだ。そういえば、ここ数十年は大きな戦闘が無いな」
「そのせいか年々補助金が削られ、来年度は削除されかねませんね」
小姓に用意させた茶を淹れながら、ラファエルは大きな溜め息を吐いた。
中央政府の貴族院の貴族の殆どが、補助金を辺境伯の懐に入れて潤っている甘い地だと思っている。実際、補助金は結界の外にある国境沿いの集落の警備や、襲撃による損害の保障に使われており、不足分は辺境伯が出しているのが実情だ。
「何はともあれ、明日の日蝕を乗り越えてからだ」
茶を一口含み、ローザリンデは爽やかな風味に思わず微笑んだ。
この茶葉を処方したのはブラッドだと確信したからだ。ブラッドの優しさを感じられる、疲労を緩和し、気分を穏やかにしてくれる作用の薬草茶だ。
ジークムントとは同い年とは思えない程愛らしく保護欲をそそる少年だ。か細く、直ぐに折れてしまいそうに見えるのに芯は強く、しなやかで懐が深い。
砦から逃すべきだとは思うが、日蝕の影響を考えると保護する方が良いと判断した。
だが……。
「明日の皆既日蝕を以て『血の盟約』は解消される」
その昔、辺境伯に嫁いで来た竜人族の公女の一滴の血から作られた薬で、森の精霊王の愛娘の重い病が治った。貴重とされる竜人族の血の対価として、精霊王は辺境領の森に守護の結界を張った。
その時、公女はこの地に皆既日蝕に覆われるまでと期限を決めたとされている。未来を見通せる訳でもなかった公女は、子孫が永遠に守護されるようにと考えたのだろう。だが、まさか本当に辺境で皆既日蝕が起こるとは針の先程も思わなかっただろう。
これは夢の中だ、とブラッドは思った。
どんなに目を凝らしても鼻の先も見えない闇の中、ブラッドはゆっくりと降りていた。底の知れない闇の中で、まるで水のように濃密な空気が躰を包み込んでいる。
不思議と恐怖は無かった。
柔らかく包み込む空気から暖かさを感じるからだろうか。その内、淡い光の粒の群れがブラッドの周りを飛び始めた。
光の粒の群はブラッドの頬を掠めたり、手足に纏わりついたりしながら足元に集まり始めた。いつの間にか下降を止めたブラッドは、吹雪のように増えた光の粒が大きな塊を作る様を眺めていた。
淡く輝く光の塊が見覚えのある形を取りつつあった。その塊に爪先がつこうとしていた…。
「ブラッド、眠っているのか」
低い声が頭上で聞こえ、ブラッドの意識は光より上へと向いた。
寝台で仔猫のように丸くなって眠っていたブラッドに、レオンはそっと毛布を掛けた。
暖かな季節とはいえ、夜は空気が冷える。開けたままの窓からは湿気を含んだ風が入ってきていた。
窓を閉めた事でレオンの気配に気がついたブラッドの瞼がぴくりと動いた。
起こしてしまったかな、と、レオンはブラッドの頬に手を当てた。その手にブラッドの手が重ねられた。
「レオン……?」
「起こしたな、悪かった」
「ううん…。起きて待ってるつもりだったのに……、寝ちゃった……」
小さな欠伸をし、ブラッドがうっすらと瞼を開いた。
「どこか、辛いところは無いか?」
「う…ん……。何だか、頭がふわふわする……」
また小さな欠伸が出た。なかなか開かない瞼を擦る。
「明日の日蝕の影響が出てきたのだろう。無理しないで眠るといい」
「ん……、でも……」
レオンともっと話したかった。
焦点の合わない眼を必死にレオンに向けようとしていた。
頬に当てられたレオンの手に頬を擦りつけ、小さく鼻を鳴らした。寝惚けているのか、仕草がいつもより幼く感じられた。
愛しさが込み上げ、レオンはブラッドを自分の腕に抱え込んで寝台に横になった。
「ん……」
ブラッドはレオンの胸に顔を擦りつけ、両腕を回してしがみついた。正気であれば絶対にしないであろうという行為に、レオンの頬が緩んだ。
逞しい胸に抱かれたブラッドは、起きようと眠気に抗うのを止めた。
だって、温もりと安心感が心地好すぎる…。
ブラッドは素直に眠気に身を委ねた。
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