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第81話

自分の腕の中で眠る愛しい存在に、レオンは胸の奥から沸き上がる熱い感覚を心地好く感じていた。それは、生まれてからブラッドに会うまで無かった感情だった。 始まりは執着だった。 レオンこと、レオンハルト・ブラーガン・リリエンタールは自分の内面が歪に歪んでいるのを自覚していた。 両親は生まれた時からいなかった。 死別ではない。両方から必要とされなかっただけだ。 父は、継子がおらず取り潰されていた家名をレオンに継がせて養育全てを人任せにした。母親と認識せないよう乳母は顔を布で覆って授乳をし、家人はすべて一歩引いて接した。 父は自分に似ているレオンを嫌い、母は息子に欠片も関心が無かった。 尊い血筋のレオンには最高の教育係を幾人も付けられ、高度な教育と武術が施された。身に付ける物、食す物全てが最高級なものが用意された。 だが、子供が当然与えられる筈の"両親からの愛情"は与えられる事は無く、レオンは感情の無い子供だった。広い屋敷は子供がいるとは思えない程、音も無く静寂に包まれていた。 美しい風景や絵画に心を動かす事も無く、音楽に感涙する事も無く、食事を美味いと感じる事も無い。笑う、怒る、泣く、という感情を知らずにレオンは育った。 レオンの存在は故意に隠されたものではなく、社交界では密かに話題になっていた。 公表はされなかったが、父母の馴れ初めは貴族の間では高い関心事であったからだ。 訪れる者のいない屋敷に光り溢れる少女が現れたのは、レオンの存在が世間から忘れ去られようとしていた頃だった。 淡い、ふわふわの金髪に翠の瞳の美しい少女はレオンの従妹だと言った。 「あなたのお母様と私のお母様が姉妹なの。宜しくね」 常冬の屋敷に春が訪れたようだった。 「教科書しか読んだ事が無いですって?! 物語や紀行文を読みなさい。社交界では面白みの無い男はモテないわよ」 「剣の稽古以外、屋敷の外に出た事が無いって?! だから、生白いのよ。男らしさは日焼けしてなんぼよ! 川遊びくらい、私が教えてあげるわっ」 「街で買い物をした事が無い?! とんだ箱入りね。世間知らずも甚だしいわ。さぁ、私が案内してあげる。街へ行くわよ!」 度々訪れる春の嵐に最初は辟易していたレオンだったが、いつしか胸の奥で何かが起きようとしていた。それは恋ではなく、行動的な姉を心配しつつも慕う弟のような、ささやかな感情だった。 だが、小さな嵐の日々は唐突に断ち切られた。二人の交流を快く思わない者がいたからだ。 従妹の祖父である筆頭公爵当主が訪れ、二人の交流を禁じたのだ。 例え血縁と言えど、結婚前の娘に悪い風評が立っては困る、と言うのが表の理由だった。実際は、上の娘を一方的に奪っていった男の子供であるレオンを嫌悪していたのだ。 レオンの心の奥で起きかけていた感情のさざ波は引いていき、屋敷は再び静寂の日々に戻った。 長く音の無かった日々が破られたのは、レオンの成人の儀の直前だった。 身重の従妹が訪れたのだ。 「あなたに家族をあげるわっ」 「唐突だね。少し落ち着こうか」 レオンから茶器を受け取り、香り立つ茶を一口含んだ。 「ご当主手ずから淹れて頂いたお茶は格別ね」 レオンは苦笑して従妹の前の椅子に座った。 自分で出来る事は極力頼まず動く。人の気配が煩わしいからだ。 「ああ、そうだ。遅くなったけど、結婚おめでとう。それから懐妊おめでとう」 「まとめてありがとう。お祝いのお花ではなく、お茶ね」 レオンは微笑した。 従妹の婚約が決まった時、結婚式の日、懐妊を知った時、レオンは祝いの品を贈っている。 その全てが従妹の手には届いていなかったようだ。 (さすが御大。徹底している) この頃にはレオンのひねくれ具合いも筋金入りになっており、従妹の前で表情を取り繕う事も巧みになっていた。 「それで? 俺に嫁の世話でもしてくれるのかな?」 「あら、あなたみたいな性格破綻者に女性を紹介しようなんて、そんな非道な事はしないわ」 酷い言い様である。 交流を禁じられるまで、社交界や一族でのレオンの噂話を面白おかしく教えてくれた従妹だ。もって回った言い方など、二人の間では縁が無い。 「私のお腹の中の卵、二つあるの」 幸せそうに微笑む従妹とは対照的にレオンの表情は強ばった。 「竜身になったら、暫く会えないわ」 身籠ると女性は竜人族の女性は竜身となって巣に籠る。母胎と胎内の卵を守る為だ。人型では卵の大きさに耐えられず、安全に産む為に竜身となるのだ。 しかし、卵を二つ産むとい事は竜身であっても通常より躰に負担がかかる。しかも、従妹は口は元気だが、生来躰が弱い。 その為、医師からは出産は一度と言われていた。 竜人族は他族の血が入る事を好まない。 皇族、上位貴族はそれが顕著だ。血の濃さを重んじる。故に、頑健さと膨大な魔力を誇る竜人族であるが、中には従妹のように生命力の弱い、腺病質な者が生まれる。 「だから、あなたを特別に私の巣に招待してあげるわ」 「…夫君以外の男を巣に入れたら、今後の社交界で笑われ者だぞ。その前に、俺が御大に殺される」 「夫と話し合った結論よ。お願い、卵を託せるのはあなただけなの」 「乳母を雇え。それとも御大は、どこかに養子に出すつもりなのか」 「いいえ」 従妹は首を横に振って、少し膨らんだ自分の腹をいとおしげに撫でた。 「お祖父様は処分するおつもりだわ」 「処分?!」 昔と違い、今では卵を処分せず養子に出す家が増えていた。しかし、貴族の間では今だに複数の卵の出産を忌避する家が多かった。 その昔、皇族と貴族の中では相続問題で幾度か内乱が起きた記憶があるからだ。 「まさか、筆頭公爵の血を引くのに?!」 「お祖父様は獣腹が赦せないの。夫のせいで二つも孕んだとお怒りになって、離縁させると息巻いてるわ」 従妹の夫は入婿だった。 溺愛している孫娘だが、いや、皇族に連なる筆頭公爵としては卵を二つ孕んだと聞かされた時、裏切られたように感じて激怒したのだ。 「卵をレオンに譲る事はお祖父様にも言ってあるわ。あなたは堂々と受け取りに来て」 自分が家族を持つ? レオンは、自分の一生は両親や一族から忘れられ、世捨人のように独りで終えるものと思っていた。 帰り際、従妹はレオンを抱き締めた。 「レオン、人を愛する事に臆病にならないで」 従妹を見送ったレオンは深い嘆息を吐いた。 レオンは竜人族特有の執着する愛し方を嫌悪していた。 それは、両親を知れば知る程だ。 父は母に恋人がいるのを承知で強引に手に入れた。夜会で一目で惹かれ、どうしても諦めきれなかったからだ。 筆頭公爵と言えど、父…皇帝には逆らえず、溺愛していた愛娘を差し出すしかなかった。皇帝には既に正妃がおり、母は四番目の側妃となった。 恋人と別れさせられた母は、皇帝と、諾々と自分を差し出した公爵を憎んだ。 物心ついた頃、一度だけ両親と対面した事があった。周りがレオンの扱いについて進言したからだ。 『後宮に引き取り、皇族として正式に教育を受けさせるか否か』 皇帝にはレオン以外に七人の皇子皇女がいた。レオンは皇子として公に発表されてない。 皇帝が欲しかったのは母であり、子ではない。母は父そっくりなレオンの養育を拒絶した。 レオンを見る二人の瞳には感情の揺らぎは全く無く、足元の小石程度にしか認識していないように思えた。 幼いながらも、自分が特殊な環境で育てられている事は理解していた。心の底では、針の先程であるが、僅かな期待もしていた。 温かく迎え入れてくれるのではないか、と。 知識の中では、親とは無条件で子供を慈しみ育てる存在だとあった。 しかし、無機物でも見るような両親の瞳を見たレオンは、胸の奥で冷ややかに吹く風を感じた。 結局、成人までは城の外で養育する事を確認しただけで会見は終了した。一言も親子で会話を交わさず。 あのような瞳で子供を見るのであれば、自分は一生誰も愛さず、人と関わらずにいようと思った。 心に空洞を抱えたまま成長したレオンは、表向きは従順に貴族のお手本のような生活をし、夜は屋敷を脱け出して歓楽街で遊び歩いた。 立場上、レオンは好き勝手に結婚は出来ない。寧ろ、禁じられていた。夜遊びは黙認するが、子供は作るなと皇帝の遣いと称する役人に釘を刺されていた。 (その俺に子育てをしろと? 卵から?) 孵化には膨大な魔力を必要とする。通常は母親の役目だが、二つ卵を同時に孵化させる程の魔力を注ぐのは死を意味する。 ましてや躰の弱い従妹には尚更無理だ。 その為、従妹は乳母ではなく夫の協力で孵化させるようだ。 皇帝の血を濃く受け継いだレオンに取っては孵化の魔力を注ぐ行為はさほど負担にならない。 「俺の……、俺だけの…卵……」 今までに持った事の無い感情が沸き上がった。 自分の為だけに存在する卵。 「俺の……、俺の為だけの卵か」 ぞわり、と腹の底が震えた。 「んっ……」 腕の中でブラッドが身動いだ。 知らずに力が入っていたらしい 。力を緩めながらも腕はほどかない。 ブラッドを……卵を探し始めたのは、自分のものを勝手に捨てられたという怒りと執着からだった。 従妹の出産と同時に成人したレオンは、正式に皇族と縁を切り、卵を探す旅に出た。 その時は独りだったが、明日の皆既日蝕を終えたら今度はブラッドと二人で旅に出るのだ。 レオンはブラッドのふわふわの赤毛を掻き上げ、額に唇を押し当てた。

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