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第82話

ブラッドが目を醒ますとレオンの姿は無かった。 陽は既に昇っており、ブラッドは大慌てで寝台から降りた。力が抜けるような眠気は感じられず、井戸で顔を洗ってさっぱりすると、朝露の残る空気を肺いっぱい吸った。 何となく、夕べから空気がざわついているように感じられた。まるで祭りの前日のような浮わついた街の空気に似ていた。 「おはようございます、ブラッド」 声を掛けられ振り向くと、大荷物を抱えたユリウスが立っていた。 「おはようございます、先生。その荷物は?」 「襲撃のあった集落で怪我人が大勢出たと言うので、これから治療に向かうところです」 「怪我人ですか?!」 「ええ、騎士団の方はいらっしゃらないのですが、住民の方が避難の途中で怪我をしたらしいのです。詳しい事は分からないので、取り敢えず多目に準備しているんです」 「あの、ぼく、お手伝いに行ってもいいですか?」 「それは…大変助かりますが、伯爵様にお伺いをしないと……」 「お願い事してきますっ」 ジークムント隊が向かった国境沿いの集落は結界外に点在しており、山賊や北方軍が侵攻して来た場合用に避難場所があらかじめ決められていた。数代前の辺境伯によって設置され、食糧などの備蓄があり、騎士団が管理している。 周辺の集落は河での漁業と林業が主で、関所が設けられている村では、ささやかな旅装を整える小さな雑貨店と宿屋が一軒ずつある程度の規模だ。 避難場所はその村から半日程度の距離にあった。結界内の森を円状に切り出された広場に簡易的な宿泊施設が数棟あり、中心には井戸が掘られており、周囲は高い柵に囲まれ、北と南に物見櫓があった。 ブラッドは、必ずレオンか護衛の騎士と行動を共にする事を約束し、ユリウスの治療の手伝いを許可された。 護衛の騎士は二人だった。 「グレアムです」 「マキシムです」 黒髪に青みがかった灰色の瞳の、背格好がそっくりな二人の青年だった。鏡に映したような容貌で、互いに左右に眼の下に黒子があった。 「グレアムさんと、マキシムさん…? 宜しく、お願いします」 「「はいっ」」 「えと……」 「俺達、双子なんです。右に黒子がある方が兄のグレアムで」 「左に黒子がある方が弟のマキシムです」 互いに指差して紹介するものだから頭が混乱してしまう。 「レオン殿がおられるので我らの出番は無いと思いますが、荷物持ちでも雑用でも何でも致しますので、気軽に申しつけて下さい、御子様」 「み、みこさまっ?!」 右に黒子のあるグレアムがにっこり笑った。 「団長に愛し子様と呼んではならないと言われたので、失礼の無いよう兄と御子様と呼ぶ事にしたんです」 そう答えて、左に黒子のあるマキシムもにっこり笑った。 「そ、そんな風に呼ばないで下さい。ぼく、そんな、偉い人じゃないです。普通に名前を呼んで下さい」 「けれど、愛し子様なのは事実です。俺達は竜騎士ではありませんが、我ら騎士団にとって大事な竜の愛し子様です」 「でも、本当にそんな敬称をつけて頂けるような者ではないので、困ります……」 自分が呼ばれているとは思えないし、何より畏れ多すぎる。 「けど、俺達、貴族じゃやないし」 「そうそう、ただの粉屋の次男と三男だし」 二人は顔を見合わせて同じ方に首を傾け、同時に手を打った。 「じゃあ、ブラッド様で」 「様もいらないですっ」 結局、目立つ言動は危険度が増すからとレオンが間に入り、普通に名前を呼ぶ事で落ち着いた。二人は渋々頷いたものの、接し方は慇懃なものだった。どうやら、それで二人なりに妥協したようだ。 何も持たずに避難して来た人々の表情は暗く憔悴していた。避難所に着いた途端、気が緩んだのか座り込む者も少なくなかった。 家財一切持てずに避難して来た者も多かったが、騎士団の誘導が早かったのと日頃から避難訓練していた為、目立った混乱は起きていなかった。 ブラッド達が到着したの頃には避難は終わっており、各々の集落の中心人物が集まっての話し合いも一段落ついていた。 ユリウスは宿舎の一番広い部屋を治療室に決め、早速治療を始めた。ブラッドとレオンは診察台をいくつか整え、双子は水汲みに井戸へと走った。 重傷者はユリウスが、軽傷者はレオンが担当する事にした。ブラッドは二人の助手として目まぐるしく動いた。神殿の治療院での経験で二人の指示がなくても先を読んで準備する事が出来る。しかも、手が欲しい時には必ず側にいる、優秀な助手だった。 甕にたっぷり水を汲み終えた双子は、今度は受付をする事にした。集落ごとの名簿を作り、代表者との確認に走り回った。 擦り傷や打ち身は避難する際のもので、火傷は村を焼かれた時のものだった。負傷者の数は多いが重篤な者がいなかったのは幸いだった。 手当ては昼前に、ほぼ終わった。 それでも室内は治療を求める者でひしめいていた。 女性が多いな、と気がついたのは腕に矢傷を負った青年に包帯を巻き終えた時だった。青年が礼を言って部屋から出るのを見送り、盥で手を洗う。 ユリウスの指示で、一人終えると手洗いを必ずする。その水は、双子のどちらかが直ぐに新しいものと取り換えた。 治療院でも手を常に清潔に保つ事を神官に教えられていた。傷口からの感染を防ぐのと、治療にあたる者の安全の為だ。 顔を上げると、レオンの手当てを受けている若い女性が、うっとりと見つめていた。包帯を巻くまでの傷ではないので、手の甲に膏薬を塗ってもらいながら頬を染めていた。 際どい所の打ち身を訴えている妙齢の女性もいた。数人でひそひそとレオンを見ては「素敵」とか「決まった人いるのかしら」「騎士団の人じゃないわ」「名前は? 誰か聞いた?」等の会話が聞こえてきた。 足を捻挫したのか、立ち上がった途端よろめいて胸に倒れかかった女性を支え、レオンは近くの寝台に座らせた。 「逞しいのね」「わざとらしい、私もやれば良かった」「私も支えられたいわ」 若い娘達がさざめいた。 (……何か、嫌だな……) 彼女らの言葉に眉を顰めたブラッドは、ハッとして頭を横に振った。 (ぼく、今、何を……) 黙々と手当てを作業的にこなすレオンに他意は無い。よろめいた女性を助けただけだし、愛想笑いなど欠片もしていない。 それなのに、さっきまで何にも感じず二人を手伝っていたのに、女性らのレオンに対する態度に気づいて不快感を覚えてしまった。 ブラッドは初めての感覚に、指先が冷えて震えた。 「疲れましたか、ブラッド?」 ユリウスがブラッドの様子に気づいて声を掛けた。 「だ、大丈夫です。その、お腹空きましたね。一段落つきそうなので、何か食べ物を頂いてきます」 部屋を出たブラッドを追おうと立ち上がったレオンを数人の女性が囲んだ。 「あたし、脚が痛いの」 「私、背中っ」 「あたしは腕よ」 服を引っ張っている手を邪険に振り払おうとした時、グレアムが声を上げた。 「俺が行きますっ。レオン殿はそのまま手当てをお続け下さい」 出来れば手当ての方を交代して欲しかったのだが、グレアムは既に部屋を出てしまった。仕方なくレオンは嘆息を吐き、少しでも早く作業を終えるべく無心で手を動かした。 「お一人では持ちきれませんよ?」 炊出しの列に並んだブラッドに追いついたグレアムが声を掛けた。その後ろにマキシムが続いた。 「文字の書ける方がいたので、お願いして来ちゃいました」 必ず誰かと一緒に行動するように言われていたのを思い出し、ブラッドは二人に頭を下げて謝った。二人は笑って首を横に振った。 「お気遣い無用です」 「我々の事はそこら辺の犬とでも思ってください」 「い、犬?!」 「そうです。御子…じゃなくてブラッドが凄く好きで勝手について回る犬です」 「そうそう。時々ブラッドを護る為に狼になるくらいの、しっぽを振って勝手についてくる犬です」 騎士団員はそれぞれ役目があって忙しい身である。それなのに、自覚の無い"竜の愛し子"の為に部隊を外されてしまったのだ。戦に出れば手柄を立てて出世する機会も出来る。不満をぶつけても良いのに、二人は屈託のない笑顔をブラッドに向けてくれる。 本当に申し訳なく、顔が上げられない。 「本当に気にしなくて良いんですよ」 今までにない、優しい口調だった。 思わず顔を上げると、そっくりな笑顔が二つ並んでいた。 「俺達、御子様の笑顔が大好きです」 二人が声を合わせて言った。 「…御子様はやめて下さい……」 「つい、呼んでしまって。申し訳ないございません」 「大丈夫です。誰も聞いてませんよ」 避難して来た人々は自分と家族以外に目を向けられる程余裕のある者は多くなかった。憔悴して座り込む者、幼い子供を抱えてあやしている母親、比較的元気に動いているのは騎士団員と一部の若者だ。 子供だけで固まっている所から少し離れた柵の側に、一人、ポツンと座り込んでいる少年らしい影があった。外套を頭からすっぽり被り、膝を抱えている。 声を掛けようか迷っていると、食事を受け取る番になった。 野菜と干し肉の煮込みが入った器を受け取って振り返ると少年の姿は無かった。 (ちゃんと食べられたのかな……) 「さすがにレオン殿は女性に人気がありましたね」 マキシムが呟いた。 「同性から見ても格好良いしな」 グレアムが同意しながらブラッドの顔を覗き込んだ。 「気にする事ありませんよ?」 「えっ?!」 「閉ざされた集落では、外から客人が訪れるのは稀なので、皆、はしゃいでるだけです」 「そうです。一時の発熱みたいなもので、ブラッドが気になさる程の事ではありません」 「そっ、そんなの……ぼく、気になんて、してないですっ」 ブラッドは慌てて否定した。 否定した事で肯定したのと同意なのだが、気がついていなかった。双子は、可愛いなぁと思いながらブラッドを挟んで歩き出した。 ブラッドは真っ赤になって俯いた。 レオンに触れられてる女性らに焼きもちを焼いたなんて、我儘で自己中心的たと思われたかもしれない。 「あ、あの……」 「はい、何でしょう?」 「その、レオンには、今の事、黙ってて貰えませんか?」 「今の事?」 「レオンは手当てをしていただけなのに、その、ぼく、が…、お…女の人に触れたのを気にしてるとか、そんな事ないのでっ」 「はい」 「嫌だとか、そんな自分勝手な事、考えたりしてない、ので……っ。そのっ……」 自分でも何を言っているのか分からなくなってきたが、軌道修正が出来ない。 「だから、その、内緒にして……」 下さい、と消え入りそうな声でブラッドは訴えた。我儘な奴と思われたくない。 ((か、可愛い過ぎるっ!!)) 二人はそう叫びたかったが、どうにか堪えた。

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