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第83話

空が翳り始めたのは、遅い昼食を食べ終えた頃だった。 太陽が遮られ始めたからか、空気がひんやりと感じられるようになった。 日蝕の事はジークムント隊から説明を受けていたらしく、避難して来た人々は初めての自然現象に戦きながらも恐慌に陥る事もなく、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。 「一時だけ夜のように暗くなるが、直ぐに太陽が現れるから心配はいらない」 ひと塊になって震えて啜り泣いていた子供らに、騎士らが安心させるように言葉をかけて歩いていた。ブラッドもそれに倣い、幼い子供を腕に抱え込んで震えていた母親に声をかけた。 「日蝕は直ぐに終わります。心配はいりませんよ。怖いでしょうが、空を見上げて太陽を見ないで下さいね」 母親の腕の中の子供がブラッドを見上げた。 「どうして、見ちゃだめなの?」 ブラッドは膝をついて子供と目線を合わせた。 「太陽神様は直接見られる事が嫌いなのだそうです。だから、太陽を見た者の眼を光の槍で貫くのだと神官様が仰ってました」 「やりで、さされたらどうなるの?」 「眼が見えなくなってしまうのだそうです」 「やだぁ…」 子供は母親にしがみついて顔を隠した。 「日蝕が終わるまで、すぐですよ。そしたら、太陽神様はいつもの慈悲深い恵みの光を下さります。怖くはありません。お母さんとお歌を歌って明るくなるのを待ちましょう」 にっこり微笑むと、子供もつられて笑顔になった。 立ち上がって周囲を見ると、ユリウスも他の騎士らもブラッドと同じ様に太陽を見ないよう注意していた。地面に眼をやると、自分の影が二重にぶれて薄くなりかけていた。 そろそろ暗くなる筈だ。 広場の中央では薪が高く積み上げられ、火が点された。 ふわり、と風がブラッドの頬を撫でた。 顔を上げたブラッドは、空気が今までと違う事に気がついた。慌てて後ろを振り返るとレオンが無言で頷いてブラッドの肩を抱いた。 頭から血の気が引いていくのが分かった。 (レオンも気がついてる? 結界が消えた?!) 結界によって森を覆っていた守護の気配が霧散したのだ。太陽が欠けるにつれ、辺りには夕刻のように薄闇が広がり始めた。 (何だろう……。胸の奥が気持ち悪い……) ブラッドは無意識に自分の肩を抱いているレオンの手を掴んだ。指先が冷えて小刻みに震えていた。 「ブラッド、俺から離れるな…」 無表情ながらも、レオンが気を張っているのが分かった。魔力の波を広げ、周囲を警戒している。 「レオン……」 喉が渇き、肌がピリピリする。レオンの緊張が伝わってきた。 ふと、鼻の奥を刺激する臭いを感じた。 「レオン、何か焦げ臭いような……」 「ああ…」 そこへグレアムが駆け寄って来た。 「レオン殿、東の方から火の手が上がっております。土煙も見られるようなので、敵が到達するのも時間の問題でしょう」 グレアムは今までの軽装から、鈍く光る黒い鎧で身を覆っていた。 「御子様は急ぎ砦へ戻られた方がよろしいかと。あちらに馬を用意しております」 ブラッドは首を横に振った。 「ぼくだけ逃げるなんて、出来ません」 「今は御身の安全を」 「出来ません」 「…御子様、結界が消えたのは分かりますよね?」 グレアムの表情で、結界が消える事を事前に知っていたのだと分かった。 「団長の指示を覚えておいでですよね? 危険が迫ったら砦へ戻れ、と」 「お、覚えています……。けど、そうしたら、他の皆さんは……」 「この数百年、森は結界の守護により、雷が落ちても火事になった事がありませんでした。それが今は燃え上がり、他国の兵の侵入を赦してしまっている……」 グレアムは絞り出すように言葉を続けた。 「御子様、お願い致します。どうか避難を」 「でも……」 ここが戦場になれば、自分は何の役にも立たない。グレアムが心配してくれる気持ちは痛い程分かる。足手まといの自分を遠ざけようとしているのではない。傷ついて欲しくないのだ。 「ジークムント隊とここで合流する予定だった筈だが」 レオンが訊ねた。 「…それが…、予定より遅れております。ジークムント隊とは昼には合流し、隊を再編成する予定でしたが、今だ到着されておりません。何か不測の事態が起きたと思われますが、ジークムントとアルベルトがおりますので、心配はいらないかと」 表情は硬かったが、言葉からはジークムントへの信頼が感じられた。 そこへマキシムがやって来た。 グレアムより表情が硬く、顔色も悪い。 「グレアム…」 「馬はどうした?」 「その……」 マキシムはグレアムとレオンを交互に見て、戸惑ったように口を開いた。 「竜が、飛べないんだ」 太陽は半分欠けていた。 騎竜と騎馬は避難場所の柵の外で待機させていた。騎竜は20騎、騎馬は50騎それぞれ行儀よく並んでいた。 進む日蝕に、いつもより鼻息が荒かったり嘶きが多かったりはするものの、興奮して暴れたりはしなかった。 空はますます暗くなり、濃密だった空気がひんやりとした風となって頬を撫でていく。 「大気中の魔力が不安定になっている。竜は翼に魔力を集めて飛ぶ。不安定な魔力下では上手く集められずに飛べないのだろう」 騎竜の様子を一通り見て回り、レオンは竜騎士に竜の不調ではないと告げた。 実際、レオンの中でも不快なざわめきがあった。竜人族であるレオンには不快感を感じる程度で躰の不調は無い。内包している魔力量が段違いだからだが、大気の激変はブラッドには辛そうだった。 ブラッドは込み上がる焦燥感と不安感に、全身の肌がざわめいて気持ちが落ち着かなかった。 竜の鼻を撫でたり、鱗に着いた泥を指で落としたりして歩いて落ち着こうとした。それをレオンは見守りながら、グレアムとマキシムに向き直った。 「多分、砦の竜も飛べない筈だ。日蝕が終わったら解消されるかもしれないが、簡単に魔力が安定するとは限らない」 二人は堅い表情で頷いた。 「飛んで戦うだけが竜騎士ではありません。避難所の手前で敵軍を抑えます。避難所はあくまでも避難所としての機能しかありません。防衛には不向き。皆には御子様同様に砦へ向かって頂きましょう」 竜騎士の小隊長が提案してきた。 その言葉にブラッドが振り向いた。 「但し、申し訳ないのですが、護衛に兵を割く余裕がございません」 「当初の予定通りに護衛はレオン殿と我らが努めます」 太陽が完全に遮られ、辺りは闇に包まれた。 避難所からは低いどよめきが聞こえてきた。 ブラッドは空を見上げたい欲求を緒さえ、近くにいた騎竜にしがみついた。その肩に手を置いたレオンは、気配を探る魔力をいつも以上に広げた。どうにも嫌な予感が消えない。 空を見上げると、月と重なった太陽の周りに見事な金環が現れていた。 「あっ…」 側で小さな声が上がった。 ブラッドが森の方を見上げていた。その視線の先の空に、黒い塊が次々と移動していた。雲ではない。塊が広げているのは、両翼だ。 「竜…だ」 レオンの声に騎士らが上空を見上げた。 「どうして、飛べるんだ?! 我々の竜は飛べないのに!」 竜騎士が騎竜に乗り飛ぶよう促すが、必死に羽ばたく竜は僅かにも浮かない。 「無理に飛ぼうとするな! 翼を痛める!!」 レオンが止めた。 悔しそうに頭を振る騎士に、竜が申し訳なさげに頭を寄せた。 「竜の行き先を確認しろっ!」 グレアムが叫んだ。 マキシムが馬に乗って駆けようとした時、ブラッドが空を指差した。 「何か、落ちてくる…!」 一抱えもある黒い塊のような物が、上空の竜から次々と落とされた。それは森や避難所に落ち、弾けるような音がした。 ブラッドの足下にも落とされ、塊が弾けると同時に水音がした。覚えのある臭いが鼻の奥を突いた。 生臭さい。 「魚の……油?」 ブラッドの呟きに騎士らが反応した。 「火矢が来ますっ! レオン殿は御子様を安全な所へ……」 グレアムに最後まで言わせず火矢が放たれ、森から炎が上がった。辺りは一瞬で明るさを取り戻し、炎の勢いは撒かれた油によって勢いを増していった。 その森の炎に下から照らされた竜の姿に、ブラッドは喉の奥で悲鳴を上げた。 その竜の形状は、異形、の一言だった。 青銅色が一般的な竜の鱗なのだが、上空の竜は漆黒だった。しかも、頭から尾の先までゴツゴツと岩の塊のように鱗が盛り上がり、胸から腹にかけて分厚く、手足の爪は長く尖っていた。 何よりブラッドの背中を震わせたのは、全く感情の無い、空洞のような暗い眼だった。 本来の竜の眼はくるくると動いて好奇心に満ち、知的で愛情に溢れて感情豊かだ。 それが、光の無い眼から感じられない。 死体が動いているようだった。 徐々に現れ始めた太陽と炎の明かりで、上空から騎士団が集まっているのが見えたのだろう。一団が引き返して来た。 「いけないっ! 御子様、避難所の方へ!!」 マキシムが馬から降りてブラッドとレオンを促した。そこへ上空から矢の雨が降ってきた。 盾をブラッドの頭に被せ、マキシム自身は矢を剣で払った。レオンも剣を抜き、矢の雨を払いながらブラッドを抱き寄せた。 「我らといると、逆に狙われます。離れた方がよろしいかと」 矢だけでなく、槍まで降ってきた。 騎士らは愛馬と竜に乗り、まだ炎が迫っていない森へ入った。だが、辺りが明る過ぎて姿を隠しきれない。 「レオン殿っ! 御子様を!」 盾で身を守りながらグレアムが叫んだ。 道の奥に土煙が見えた。迫る殺気が、味方ではないと告げていた。

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