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第86話
「先生っ。こいつを診てくれ!」
蒼白な顔色でぐったりした若い騎士を大柄な騎士が抱えて来た。
若い騎士は立つ事もままならないのか、その場に崩れるように座り込んだ。荒い呼吸で、ノロノロと鎧を外し始めたが、手に力が入らないのか、なかなか金具に指が掛からない。
連れて来た騎士が見かねて手伝った。
「負傷したのですか?!」
「いや、怪我はしていないんだが……」
鎧を外しながら騎士が困惑気に答えた。
「俺の横を歩いていて、突然、倒れたんです」
「貧血でしょうか……」
倒れた騎士の顔色を診ながら、ユリウスは脈を測った。
ところが、その一人を皮切りに、次々と不調を訴える者が出始めた。
「悪寒と冷や汗、激しい倦怠感。状態を訊くだけでは風邪の症状に似ていますが、誰も発熱や関節痛が無いので違うようです……」
ユリウスは首を傾げた。
幼い頃から天才と言われ、世に出ている医学書は全て読んで覚えている。しかし、彼らの症状はどの医学書にも書かれてない。
不調を訴えてきた者達は、鎧を脱いで呼吸も荒く地面にへたり込んでいる。座る事も出来ずに寝転んでいる者もいた。
そこへグレアムを抱えたマキシムが来た。
「先生、グレアムも診てくれっ」
しかし、グレアムは頭を横に振った。
「俺は…大丈夫だ。……それより、御子様を探さないと……」
「無理はいけません。とにかく、ここに座って下さい」
白に近い顔色のグレアムをマキシムはユリウスの前に座らせた。
「何があったんだ?」
毛布を配っていたレオンがマキシムに訊いた。
「良く分からないんだが……、一緒に歩いていて、突然倒れたんだ」
「マキシムは何ともないのか?」
「俺は何ともないんだが……」
全力疾走後のような疲労感と、力が地面に吸い込まれるような脱力感に、グレアムの額には冷や汗が吹き出ていた。
「歩いていて……、急に力が抜けた……と言うか……、目眩がして、躰が重くなって……」
口を開くのも億劫そうなグレアムの言葉をマキシムが継いだ。
「そうなんだ。こう…膝が崩れたと言うか、腰砕けになったみたいに倒れたんだ」
「……疲労に効く、滋養強壮の薬湯を作ります。少し待っていて下さい」
立ち上がったユリウスと入れ違いにレオンが膝をついた。グレアムの靴の底についていた泥が気になったからだ。妙な気配が纏わりついている。
一緒に歩いていたマキシムの靴にはついていない。
「グレアム、その靴の泥はどこで……」
手を伸ばして泥に触れたら途端、レオンは弾かれたように手を引いた。
指先についた赤黒い汚れをじっと見つめるレオンの眼が険しくなった。
「レオン殿?」
マキシムがレオンの顔を見て、息を飲んだ。
蒼穹の瞳は、瞳孔が細く金色に輝き、剣呑な光を放っていた。
「これは、血だ」
「血、ですか…?」
戦場となったのだから、あちこちに血が落ちていたとしても不思議はない、とマキシムは言おうとして止めた。レオンが指先の泥を忌々しげに払ったからだ。
「これは竜の血だ。しかも、ご丁寧に呪詛がかけられている。どうやら油を撒いて火を点けたのは囮で、竜の血の方が本命だったようだ。気力が吸い取られている」
「では、それを取り除けば体調は回復するのですね?!」
「…いや、そうとも限らない。その血を踏む事で呪詛が発動する仕組みになっているようだ」
「そんな……」
砦の執務室で、ローザリンデは次々と届けられる報告書に目を通してした。昨夜から一睡もしていないが、一番欲しい報告は届かないでいた。
形の良い眉を顰め、ラファエルが淹れたお茶を含んで嘆息を吐いた。
砦に二頭の早馬が到着したのは、陽が陰り始めた頃だった。それは、国境沿いの集落の避難民が砦に向かっているという報せと、ローザリンデが待っていた人物だった。
ローザリンデは、すぐさま避難民保護の為の部隊を向かわせるよう指示を出した。
この砦は、周辺の住民を戦禍から保護する為の施設も併せ持っている。
待ちに待った書簡を携えた使者は、騎士見習いのカールだった。初めての団長執務室に緊張した面持ちで、おずおずと入って来た。
緊張で震える手で、懐から託された封筒を取り出してローザリンデに渡した。
初めての大仕事を終え、ほっとして退出しようとしたカールをラファエルが呼び止めた。自分は、何か知らずに失敗しただろうかと青くなって、カールは慌てて直立不動した。
そんなカールにラファエルは笑いかけた。
「もうすぐ避難民が到着する。カールは住民の名簿作りを頼む」
「はいっ」
またも重大な仕事を任され、カールは張り切って返事をして宿舎に向かった。その途中、ブラッドの姿を探したが見つけられず、何となくがっかりしたのを自覚していなかった。
封蝋を剥がし、ローザリンデは封筒から取り出した手紙を広げた。整った美しい文字の配列からは、書き手の教養の高さが窺えた。
渋面で読み進めていたローザリンデの眉が勢い良く跳ね上がった。
「……あの陰険腹黒、詐欺師、性悪侯爵め……」
手紙を握り潰し、ローザリンデの地を這うような呟きをラファエルは聞こえない振りをして窓の外を見た。
ブラッドが意識を取り戻すと、自分が後ろ手に縛られて床板に転がされている事に気がついた。しかも、足まで縛られていた。
顔を上げると、狭い小屋の中だと分かった。
生活用品が見当たらない。猟師小屋か、樵の休憩小屋らしい。
棒で支えて開けられている小さな窓から、赤く染まった空が見えた。
(ぼくは……どうして……)
不自由な格好で何とか上半身を起こした。
(そうだ……、ユリウス先生は大丈夫かな…)
頭を殴られて倒れたユリウスを思い出した。ぐったりして動かなくなったユリウスに駆け寄ろうとして、ブラッド自身も腹に衝撃を覚えた途端、意識を失ってしまった。
短い嘆息を吐いた時、小屋の外に大勢の人間の気配が近づいて来たのが分かった。この状況で、それが味方であるとは考えられない。
戸を開ける音がし、ブラッドは部屋の隅に躰を寄せて身構えた。
入って来たのは、外套を頭からすっぽり被った小柄な人物だった。
「君は……」
被っていた外套を外して顔を晒し、憎悪おを込めた眼で見下ろす人物に、ブラッドは見覚えがあった。
竜の調教師見習いの少年の一人だ。
だが、ブラッドは言葉を続けられなかった。
少年の顔の右半分が、黒い石に覆われたように硬化していたからだ。
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