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第88話
「うるせぇっ!!」
怒声とともに左頬に激しい衝撃を受け、ブラッドの小柄な躰が吹っ飛んだ。壁に背中を強かに打ち付け、その場に崩れ落ちた。
息が詰まり、呻き声すら上げられない。何とか空気を吸い込もうと口を開いたが噎せてしまう。目眩がして意識が飛びそうになったが、打たれた頬の熱さが引き止めた。
額で爆発しかけていた熱は、急速に霧散していた。
ブラッドは肩で息をしながら男達を見た。狭い小屋で彼らを避けて出るのは難しかった。
(どうしよう……。でも、絶対、諦めない)
足は自由になったが、手は縛られたままだ。立ち上がろうにも、囲んでいる男達の威圧感に足が震えてしまう。
男達は追い詰めた獲物の悪足掻きを楽しんでいた。
呪詛を返されてから、彼らは伴侶や家族、恋人から距離を置かれていた。村の為にした事とはいえ、国境を護ってくれている砦に呪詛を仕込んだのだ。
夫や恋人の顔を見ると罪悪感に苛まれる。自然と距離を置いてしまうのも無理はない。
理解してもらえない鬱屈した感情のぶつけ所が無かった。そして今、呪詛を破った男の大事な相手が目の前にいる。
滅茶苦茶にしてやる……。
その仄暗い感情は呪詛を返された事で増幅していたが、男達には自覚がなかった。目の前の、震えている兎をどう料理してやろうとしか考えられなかった。
息を荒くし、壁際でどうにか立ち上がったブラッドの肌は、ほんのり赤く上気し、本人の意図とは反対に、えもいわれぬ色気を放っていた。
異様に沸き上がる嗜虐の暗い悦びに興奮した男達の手がブラッドに伸びた。それを奇跡的に避け、戸に体当たりをしようと床を蹴った。
だが、届く寸前、躰が勢い良く後ろに引かれた。腕を縛っている縄を掴まれたのだ。
踏ん張る間も無くブラッドは引き倒され、躰を床に叩きつけられた。左肩に全ての体重が集中した。躰の内側から耳の奥に、ごきり、と不吉な音が激痛とともに響いた。
悲鳴も上げられなかった。
それでもブラッドは激痛を堪えて立ち上がった。左肩が右肩よりも大きく下がっていた。
脱臼したらしい。
(……骨折より、マシ、だ……)
頭を横に振って、飛びそうになる意識を保った。
(負ける、ものか……)
いつまでも護られてばかりでは駄目だと思った。護衛をつけて貰ったり、レオンや竜、色んな人に助けらてばかりだ。
(待ってるばかりじゃ、駄目だ……。ぼくに出来る事、しないと……)
何も出来ない、弱いままの自分じゃ、レオンの横に立てない。
「…生意気な餓鬼だな」
「這いつくばって、泣いて赦しを請えば可愛げがあるものを」
「別に、人質だからって、生きていなくてもいいんじゃないか?」
「ヤリ殺してやればいい」
下卑た笑い声を上げる男らは気がついていなかった。返された呪詛の黒い痣が、徐々に広がっていた。
ブラッドは眼を見開いて彼らを凝視した。
黒い痣が意思を持ち、地を這う無数の蟲のように蠢いて広がっていた。
顔色を失ったブラッドを、男達は自分らを恐れての事とだと思った。
嫌悪なのだったが……。
ブラッドは奥歯を食い縛り、包囲の隙を探した。それを嘲笑いながら優位を確信して間を詰める男達の、僅かな隙をブラッドは見逃さなかった。
小屋の隅に転がっていた丸太を切っただけの椅子を避けた、ほんの僅かな間にブラッドは向かった。躰を斜めにし、男らの間をするりと、抜けた。
脱臼し、躰を震わせていた少年の、思ってもいなかった素早さに、彼らは咄嗟に動けなかった。
躰ごと戸を押し開け、ブラッドは外に転がり出た。
外には、驚いて振り返った者が幾人もいた。
(まだ、いた……)
背後の小屋で怒号が響いた。
ブラッドは立ち上がり、駆け出した。
狭いが整備された道があった。それだと、直ぐに追いつかれてしまう。
迷わずブラッドは藪の中に飛び込んだ。熱を持ち、激痛を訴えてくる左肩を無視し、肌を切る熊笹に構わず駆け出した。
飛べなくとも戦いに向かった竜と竜騎士。部隊の何倍もの敵軍に向かって行った騎馬隊。
皆、最善の事をし、しなくてはならない責から逃げなかった。
(ぼくだって、出来る事、するんだ)
背後から怒声とともに追ってくる音がした。
熊笹を掻き分け、男らは横に広がってブラッドを包囲する事にした。
躰も歩幅も彼らの方が大きい。追いつかれるのも時間の問題だ。隠れられる場所を探しながら、懸命に走った。
酸欠と痛みで頭が殴られているように痛い。足もふらついて、止まりそうだ。木の根に足を取られて何度も転んだ。
すぐ後ろで熊笹を掻き分け、気配が迫る。
ブラッドは諦めずに立ち上がり、再び走り出した。
ブラッドの切り取られた髪の毛を包んだ布を握り、調教師見習いの少年…ドミニクは、数人の男らと一緒に避難所に向かって歩いていた。外套をすっぽり被り、足早に進む。
早く呪詛を解かないと、全身が黒い鱗に覆われて死んでしまう。
ほんの少し楽をしたい、と、ばやいただけなのに。早く、一人前の調教師になりたいと愚痴を溢しただけなのに。
あいつの、口車に乗ったが故に……。
ドミニクは頭を振った。
今は、竜の卵売りを連れて来る事の方が先決だ。
早く竜の卵に呪詛を移さなければ死んでしまうのだ。あいつは一人に対し、卵が一個必要だと言っていた。自分と村人の分を考えると、最低三十個程は必要だ。
調教師見習いになってから、卵売りが竜の卵を売りに来たのを見たのは数える程度だ。竜の巣谷に、そんなに沢山、卵があるのだろうか……。
考え事をしながら歩いていたからか、前を歩いていた男らが止まった事に、ぶつかる寸前まで気がつかなかった。
「な、何……?」
顔を上げると、狭い道を塞ぐように長身の男が立っていた。
日が傾き始めると、森は急速に空気が冷える。
上半身に被う物の無いブラッドは、肩の熱さと相反する肌寒さに体力を奪われた。その上、何も口にしていない。空腹と喉の渇きで目眩がした。
自分では懸命に走っているつもりだったが、実際は歩くより遅かった。男らが追いつけなかったのは、幸運にも背が高い熊笹が、小柄なブラッドを隠していたからだ。
しかし、彼らは葉擦れの音を頼りに追っていた。
何度目かの転倒で脱臼していた肩をぶつけ、ブラッドはとうとう立ち上がれなくなった。それでも、ブラッドは這って大木の陰に身を縮めて隠した。
呼吸をする度に、喉から空気が漏れるような細い音がした。それを何とか押さえようとするが、肩の激痛が邪魔をする。
背後の熊笹が大きく音を立てて揺れた。
「見つけたぞ」
ブラッドの髪を切った男だった。
その脇から次々と男らが現れた。獲物を追い詰めた獣の眼でブラッドを見下ろしている。
(逃げなきゃ……)
だが、疲労した躰は、指一本動かせない。迫る手をブラッドは見つめるしか出来なかった。
ブラッドの頭を掴もうと伸ばした男の手に、激痛が走った。咄嗟に引いた手の甲に、小刀が刺さっていた。
「なっ、何だっ?!」
小刀を抜いて周囲を見た。
黒い影が動いたかと思うと、目の前で二人が声も無く崩れ落ちた。男が手から抜いた小刀を構えている間に、仲間は次々と倒されていった。
闇雲に小刀を振り回したが、全く影には届かない。
背中合わせに立っていた最後の仲間が倒された。一体、どうやって倒されたのか分からないのが、男の恐怖を煽った。
「くっ、くそっ!」
男は木に力無く凭れていたブラッドを盾にする事にした。ブラッドの腕を掴んで立ち上がらせようとした男は、腹に衝撃を受け、背中を木に強か打った。
息が詰まり、生理的に滲んだ涙で霞んだ視界に、ブラッドに近づく影があった。
影はブラッドの腕を縛っていた縄を切り、大事そうに、そっと抱き上げた。
ブラッドは自分を抱き上げた人物の顔を見上げ、驚愕の表情で名を呟いた。
「…ウォーレンさん……?」
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