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第89話

自分を抱えて見下ろすウォーレンを見上げ、ブラッドは違和感を覚えた。 ブラッドが知っているウォーレンは、常に眉間に皺を寄せ、口許を引き締めた厳めしい職人気質の人物だった。それが、今は柔和に微笑んで自分を見ている。 (…本当に、ウォーレン、さん……?) 「ここから少し移動する。左腕を自分で掴めるか?」 「え? あ、はいっ」 だらりと下がっている左の手首を右手で掴み、胸で抱えた。動かすと痛みが増したが、ブラッドは歯を食い縛って声を殺した。 その様子を痛ましげに見守り、ウォーレンは小屋の方に駆け出した。なるべく振動を与えないように気をつけて走ったが、ブラッドの顔色は悪く、冷や汗をかいていた。 藪を出る少し前でウォーレンは足を止めて、ブラッドをそっと地面に座らせた。 「肩の関節を入れる。少し痛むかもしれんが」 ウォーレンはブラッドの左腕を持ってゆっくり回した。軽い衝撃の後、熱を持った激痛が和らいだ。 「どうだ? 動かしてみてくれ」 まだ若干の痛みはあるものの、重かった左腕が自由に動かせた。 「ありがとうございます、ウォーレンさん」 「いや……。助けるのが遅くなって済まない」 「いいえ……。もう、駄目かと思ったところだったので……。ウォーレンさんは、どうして、ここに?」 城に帰ったのではなかったのか。あの調教師見習いの少年らと共に。 「…色々あってな……」 短い嘆息を吐いて、ウォーレンは苦笑した。 よく見ると、ウォーレンの顔や手には擦過傷があり、顔色も悪く呼吸が乱れていた。 「ウォーレンさん、どこか具合が悪いのですか…?」 「大丈夫だ。それより、その格好は刺激的過ぎるな」 あらためて自分の格好を思い出してブラッドは頬を染めた。夢中で逃げたが、上半身は小刀で衣服の殆どを切り裂かれて剥かれ、手首にしか布がない。おまけに、あちこちに出来た打撲の痕が痛みを訴え始めていた。 ウォーレンは自分の上着を脱いでブラッドに羽織らせた。 「これから小屋まで戻る。応援が着くまで、そんなに時間はかからん。それまでは俺が必ず護る」 「…はい」 自分はウォーレンの足手まといならないよう気をつけよう……。 「お前さんには、その後に重大な役目がある」 「重大な…役目?」 ウォーレンが大きく頷いた。 「強大な火の玉が来る。それを鎮めて欲しい」 「火の玉?」 「そうだ。怒り狂っている。それが暴れたら、この森は……いや、この国は焦土となる」 「焦土……」 ブラッドの腹の奥が冷えた。 そんな恐ろしいものを自分が鎮める? 「他の誰にも出来ん。お前さんだけにしか出来ないんだ。頼む」 ウォーレンが深く頭を下げた。ブラッドは慌てて座り直した。 「あ、頭を上げて下さいっ。ぼくなんかに、そんな事……」 「いいや」 頭を下げたままウォーレンは言葉を続けた。 「こうなったのは、俺の失態だ。俺の尻拭いを頼むのだ。命と引き換えても足りない」 「ウォーレンさん……」 「詳しい経緯は避難所に着いてから説明する。今は納得出来ないと思うが、頼む」 頭を深く下げたウォーレンから真摯な気持ちが伝わった。 ブラッドはウォーレンの肩に手を置いた。 「ぼくに、何が出来るか分かりませんが、精一杯努めます」 「……済まない…。いや、感謝する」 もう一度頭を下げ、ウォーレンはブラッドを抱き上げた。 藪から細い道に出ると、小屋を背に村人が鍬や鋤を手に持って構えていた。外套を脱いだ彼らの顔や手は、黒い部分がじわじわと広がっていた。 「その子供を渡せっ」 鍬の刃を向け、年嵩の男が叫んだ。 「竜の卵が手に入らんと、わしらは死んでしまう!」 男の後ろで男達が同じように叫んだ。 「自業自得だろう?」 低い、地鳴りのような声でウォーレンが言った。怒りが込められていたのが、ブラッドにも分かった。 「何だと?!」 「呪詛なんぞという、人の道に外れた事をしたんだ。騙されたとか、知らなかったとか無知は言い訳にならなん。お前達は呪詛を行った対価を貰っただろう?」 年嵩の男が何かを言いかけたが、開いた口を閉じた。 「対価を受け取った事で呪詛は成立したんだ」 呪詛を竜の卵に移して助かるというのは聞いた事が無い。多分、嘘だろう。 空に放った槍は自分に還る。子供でも分かる事だ。 彼らも、薄々は察していた。だが、日に日に顔や躰を覆っていく黒い石のような鱗が、死が迫っているのだと苛む。 迫る死が少しでも遠のくのであれば、それにすがるのが人情ではないか。 もしかしたら、本当に竜の卵に呪詛を移して助かるかもしれないのだ。 彼らは無言で二人に、じりじりと迫った。 「本当に、止めた方が身の為なんだがな……」 ウォーレンの呟きは唐突に起きた突風に掻き消された。 ゴォッーっという風圧で太い枝がしなり、千切れた木々の葉が吹雪のように舞った。ウォーレンの腕の中で、ブラッドは風の中に青い光を見たような気がした。 「火の玉が来た。後は頼むぞ」 ウォーレンがブラッドを下ろしたのと同時に、青い柱が天から地響きを立てて降りた。 舞い上がった土埃が収まるのを待って、ブラッドは細めていた眼を開けた。目の前には、大人が二人で手を伸ばして、漸く届く程の太い柱が二本立っていた。 茫然として柱を見上げると、筋肉が盛り上がった逞しい胸があり、背中に同じ色の翼があった。水底のように深い青に金粉をまぶしたような青金石のような鱗が、規則正しく並びながら光っていた。 「竜……?」 ブラッドが知っている竜とは、明らかに大きさが違っていた。通常の竜より遥かに大きい。五倍はあるだろうか。形状も少し異なっていた。首が太く、金色の鬣が長く背中まで伸びて靡いていた。 威厳と威圧が同居しており、ブラッドは息をするのも忘れて巨大な竜を見つめた。 青みがかった金色の瞳がブラッドを見つめ返した。竜の美しさと迫力に圧倒され、言葉が出ない。 だが、その完璧な美に相応しくないものが、竜の口許にあった。服の襟の部分を咥えられた人間が三人、力無くぶら下げられていたのだ。 しかも、嫌そうにぶら下げている。 青竜は頭をひと振りして、咥えていた三人を地面に放り投げた。その中の一人に見覚えがあった。調教師見習いの少年だ。 青竜が向きを変え、自分の前肢でブラッドを護るように挟んで立ち、村人らを見据えた。その金色の瞳には、明らかに怒りがあった。 一人一人がゆっくりと青竜に睨めつけられ、彼らは握っていた鍬や鋤を離した。 一歩でも動いたら殺す。 爛々と輝く青竜の瞳が無言で圧力をかけていた。中には、腰が抜けてへたり込んだ者もいた。 その様子をただ見ているしかないブラッドの頬に、青竜が額を寄せた。愛しむように擦りつけ、髪を切られて無惨な状態になった頭に鼻をつけた。 「レオン……?」 青竜が嬉しそうに眼を細め、ブラッドの頬をペロリと嘗めた。

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