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第91話

気がついたら躰が動いていた。 村人を背後に庇い、両手を広げ、ブラッドはレオンの前に立っていた。レオンの眼が驚愕に見開かれた。 迫りくる剣。 ブラッドは斬られる覚悟を決めて、眼をきつく閉じた。 ガキィンッ!! 鼓膜を貫く程の、金属が激しくぶつかる音が響いた。 覚悟していた痛みが訪れず、ブラッドは恐る恐る眼を開けた。 くせのある艶やかな黒髪を後ろで三つ編みに束ね、白い鎧で身を包んだローザリンデがレオンの剣を大剣で受け止めていた。 「伯爵様……!」 「間に合って幸いだ。無防備に刃の前に出るのは悪手だぞ、ブラッド」 レオンの剣を受け止めたまま、 ローザリンデが厳しい表情で振り向いた。 「其方の慈悲は罪人に与えるべきではない」 ブラッドの背後の村人をローザリンデは罪人と言い切った。抑揚の無い口調であったが、怒りが感じられる。 その怒りはレオンにも向けられた。 「見損なったぞ、レオン殿。愛しい者に刃を向けるとは」 「……俺の剣はブラッドを傷つけない」 「そのような事は百も承知しておる。鱗を与えた者を害する事など出来ぬと、公女より伝えられておる故な。したが、肉体は斬れぬとも、心はどうであろうな?!」 硝子玉のように感情が乏しかったレオンの瞳が僅かに揺れた。 「卿の言う通り、剣は肉体をすり抜けて傷一つつけぬ。だが、何も知らないブラッドは斬られたと認識するであろうよ。心は斬られるのだぞっ!」 レオンの金色に輝いていた瞳が蒼穹に戻った。しかし、ローザリンデはレオンの剣を愛用の大剣で跳ね上げ、そのまま振り下ろした。 「は、伯爵様っ?!」 今度はレオンがローザリンデの大剣を受け止めた。ローザリンデはそのまま大剣に力を込めた。 「愛しい者の危機に間に合わず、焦燥と怒りを弱き者にぶつけるとは、卿らしくないではないか」 皮肉げに口角を吊り上げ、ローザリンデは笑った。 「古より伝え聞く竜人族とは、聳え立つ山々の如く頑健であり、嵐ごときでは揺らがない強靭な心を持ち、世界の果てまで見透す眼(まなこ)を持っている高潔な一族のではなかったのか?」 「……何だ、それは」 「我々人界に伝わる竜人族の事だが」 「そんな、奇特な竜人族はおらんっ!」 レオンは呆れ顔でローザリンデの大剣を跳ね上げた。 「おやおや、奇特かえ」 ローザリンデは大剣を構え直した。 「竜人族は神代の時から存在するが、そんな話は聞いた事が無い。執着、傲慢、力強き者のみが罷り通る、やたら自尊心だけは馬鹿高い我儘な種族だ」 レオンは忌々しげに吐き捨て、剣を構え直した。 ローザリンデは眉間に皺を寄せてレオンを睨みながら、別の事を考えていた。 人とは違う時の流れを生きる竜人族のレオンは、年齢と経験値はローザリンデを遥かに上回っている。更に知識と技倆は、大陸で英雄と呼ばれる騎士でも足許にも及ばないだろう。 しかし、ローザリンデには出来は申し分ないが要領が悪く、危なげで放っておけない弟のように思えて仕方ない。 「彼らは私の領民だ。処分は私がする」 通常であれば王都へ報告し、裁定を待たなければならない案件だ。だが、国境を領地とする辺境伯には、緊急時では独自に裁定を下す権限が与えられている。今回のように隣国が突如侵攻して来た場合、王都へ使者を送り、中央政府が対応を決める会議をし、その結果を待ってなどいられない。 その間に辺境は蹂躙され、国境線を変えられてしまうからだ。 「…裁判などしていたら、死ぬぞ」 ここに来て、呪詛の進行が早まっているように見える。 「死刑の方が楽であると思い知るであろうよ」 ローザリンデの口調は、自分の領民を庇うものではなかった。 「我が領地を汚し、敵軍を引き入れたのだ。それ相応の覚悟はあろう。その上、事もあろうか私のブラッドを傷つけたのだ。赦されざる大罪を犯したと、死を望みたくなるような目に合わせてやろう」 「誰のブラッドだ…」 短い嘆息を吐いて、レオンは構えていた剣を下ろした。それでも、瞳からは険呑な光は消えてなかった。 ブラッドの背に庇われた彼らが少しでも動いたら、容赦なく斬り捨てるつもりだ。何より腹立たしいのは、反省するどころか自分らの境遇を憐れみ、殺そうとした者の小さな背中に庇われるのを当然としている事だ。 視線で殺しても良いなら殺している。 竜皇帝の血筋であるレオンには出来なくはない。ひと睨みで心臓を止める程の威圧を込めるなど容易い。 そのレオンから、なかなか殺気が消えない事にブラッドの不安は強まった。 慈悲、とローザリンデはブラッドの行為を評した。 違う、と叫びたかった。 慈悲などではない。自分が原因で命が失われる事が怖いだけだ。たくさんの命に対して責任が取れない臆病者なだけだ。 剣を下ろしたものの、レオンは柄に収めようとしない。 自分の対処の仕方で、無理矢理鎮めたレオンの怒りが再び吹き出しかねないのだ。 何と言って説得しようかと思案し、ブラッドは乾いた唇を湿らせたが言葉が出ない。 ローザリンデは大剣を柄に収め、成り行きを見守っていた騎士らに足を進め、レオンはブラッドを見つめて何か言おうと口を開いた。 二人の意識が村人から逸れた瞬間、縛れたまま逃げようと動いた者が数人いた。 反射的にレオンが動いた。 ローザリンデが止める隙も無く、彼らは斬られる運命にあった。 ほんの一歩でレオンは彼らまで進み、剣を振り上げた。その剣が村人に向かって振り下ろされる寸前、レオンの胸にブラッドが飛び込んで来た。 レオンは凍ったように剣を振り上げたままの格好で止まった。 「レオン…、レオン…」 どう言っていいか分からず、ブラッドはレオンにしがみついて名前を呼ぶしかなかった。 「ブラッド……」 怒りで凝った心が、躰に腕を回してしがみついているブラッドの温もりが溶かしていく。 剣の柄を握った自分の拳が白くなっていたのに気がついた。 深く息を吐いて剣を地面に突き刺した。 小刻みに震えて自分にしがみついているブラッドを見下ろし、癖のある赤毛にそっと手を当てた。 逃げようとした村人は騎士らによって押さえつけられていた。

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