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第92話

レオンに抱えられて避難所へ戻ったブラッドを見て、アルベルトとユリウスは言葉を失った。 無惨に切られた不揃いの髪と顔色の悪い強張った表情。何があったのか悟った二人はすぐに立ち直り、表情を和らげでブラッドを迎えた。 「見たところ大きい怪我は無さそうですね」 「俺が髪を整えてやるよ。兄貴達ので慣れているからな」 アルベルトはレオンに軽く頷いてブラッドの肩を抱いた。一瞬躊躇ったが、レオンはアルベルトにブラッドを託した。 一通りブラッドを診察すると、軽い擦過傷は治りかけていた。脱臼したという左肩も鈍痛が残っていたが、鎮痛効果のある薬草茶を与えると落ち着いたようだ。 アルベルトがブラッドと髪を整えていると、ユリウスが騎士に呼ばれて治療室を出て行った。 短く切られた髪に合わせて整えると、顔に被って鬱陶しかった部分が無くなり、整った顔立ちが露になった。力無く伏せている睫毛は存外長く、少し上向いた筋の通った鼻梁は愛らしく、ふっくらした唇は紅く色づいていた。 初めて会った時にあった幼さを残した目許は、ここ数日の出来事で凛々しさを増していたが、今は疲労の色が濃かった。 何かを言いたげに口を開けては閉じるを繰り返していた事に気づいたアルベルトは、ブラッドが薬草茶を飲み干すのを待った。 「…何かあったのか?」 膝の上で固く握られたままの拳に手を重ね、アルベルトは強制ではないように気をつけて訊ねた。ブラッドは躊躇いつつも、ぽつりぽつりと語った。 村人が呪詛を行った経緯。斬り捨てようとしたレオンを止めた事。その時に思った事。 村人が重罪を犯したのは理解した。死刑が相当である事はローザリンデの言葉から分かった。 けれど、レオンが彼らを斬ろうとしたのは、自分に暴力を振るった事に対する激怒からだ。法に照らして裁いたものではない。 自分が原因で命が失われる事に耐えられなかった。それは責任逃れの、卑怯な臆病者だからだと思った……。 アルベルトはブラッドの潔さを好もしいと思った。少年らしい潔癖さだと。 「ブラッドは騎士じゃないじゃないか」 短くなった赤毛を優しく撫でてアルベルトが言った。ブラッドは伏せていた眼をアルベルトに向けた。 「平時であっても命のやり取りがある騎士じゃないんだから、命が失われる事に嫌悪感があってもおかしくないよ」 「……」 「俺も最初は慣れなかったけどな」 「え……?」 「騎士は普通は貴族でないとなれない。それは知っているよね?」 ブラッドは頷いた。 「俺は貴族じゃないんだよ」 「えっ…?」 アルベルトは笑みを深めた。 「ここの辺境領では貴族が圧倒的に少なくてね、町民や農民が辺境伯を後見人に騎士になれる、特別な土地なんだ」 国境を護る辺境では貴族の数が圧倒的に少なかった。一般の兵士もいるが、機動力と攻撃力を重視した騎士が少なく、戦力不足が問題となっていた。 それを憂いた先々代の辺境伯が後見人となって、戦力増強のため騎士団を拡大したのだ。 「騎士になるには、お金がかかるんだよ」 アルベルトが笑った。 「甲冑一式と騎馬は自分で用意しなくちゃならないからね」 竜騎士ともなれば、騎竜の維持費の一部も出さなければならない。給与が安定するまでは、若手の騎士には多大な負担になる。 それを辺境伯が初期費用を含めて負担を肩代わりしてくれるのだ。無論、莫大な金額になる。領地持ちとはいえ、直ぐに用意出来る筈もない。 豊かな森林から取れる良質な木材と羊毛だけでは、日々の暮らしは逼迫しないものの、騎士団育成には足らない。そこで目をつけたのが、農家が細々と行っていた『養蚕』だった。 昔から辺境領で作られる絹糸は良質で、王都を始め貴族内では評判が良かった。それを先々代は絹糸の出荷ではなく、養蚕を増やし、絹織物にして売り出す事にした。 質の良い絹糸から織られた絹織物は上質で、王族を始め社交界では、その生地で作られたドレスが大流行した。大量生産でない故の手に入り難さで付加価値もついた。 次は、その絹糸でレース編みも売り出した。 レースは貴族の女性の間で爆発的な流行となった。絹織物と共に更に付加価値がつき、領地は潤った。 そこで、漸く戦力増強に着手出来たのである。 「その養蚕と糸を紡ぐ仕事が、うちの家業なんだ」 しかも母親はレース編みもする。糸を紡ぎ、織物を織る、辺境領では女性を蔑ろにする事は、天に唾を吐くのと同じとされていた。 「本当は俺も家業を手伝うつもりだったんどけど、三男だし、継げる財産も無いしね……」 養蚕が盛んになり、絹織物で潤った領地には商人だけでなく、破落戸も集まるようになった。長閑な地域の、細やかな問題を解決するために結成されは自警団は、破落戸や山賊を相手にする事が増えた。 兄達が自警団に所属していた流れで、アルベルトも入団する事となった。 「そこで、まぁ、色々あって…ジークムントと出会って、何故か竜騎士になったんだ」 山賊退治で騎士団と自警団が共闘する事が多く、自然とジークムントと接する時間が増えた。最初は、侯爵家の次男と養蚕農家の自分という事で反発しかなかったのだが、軽々とその壁をジークムントが越えてくる。 反発、戸惑いが別の感情になるのに時間はいらなかった。 「神殿で育ったブラッドは暴力なんて無縁だったろう?」 ブラッドは頷いた。 神殿の教えの中には『盗むなかれ』『妬むなかれ』『害するなかれ』というのがある。特に暴力は忌避されており、孤児院を出てから街中での生活で最初に慣れなければならなかったのは、周囲で起こる暴力だった。 「これは、俺の勝手な願いなんだが……」 アルベルトは短くなったブラッドの髪を優しく撫でた。 「ブラッドは血生臭い事に慣れなくていいと思うよ。むしろ、慣れて欲しくないな」 少し、寂しげに微笑むアルベルトに、ブラッドは曖昧に頷いた。 アルベルトに肩を抱かれて行くブラッドの背をレオンは無言で見送っていた。その表情は、母親に置いてけぼりにされた子供の様に印象的だと、ローザリンデは思った。 それに気づかない振りをし、ローザリンデはレオンの背中を叩いてついて来るよう促した。 ブラッドが向かった治療室とは反対の奥まった部屋に、ローザリンデ、レオン、ジークムントとウォーレンが入った。部屋には円卓と椅子があり、ここが会議室である事が分かった。 ローザリンデは人数分の飲み物を近くにいた騎士に頼み、一番奥の席に座った。 レオンは正面に、ジークムントはローザリンデの横に、ウォーレンは扉の側に立った。 誰も口を開かなかった。 程無くして扉が叩かれた。 ウォーレンが開くと、茶器を一式乗せた盆を持ったラファエルが立っていた。 「副団長…!」 ジークムントが慌ててラファエルから盆を受け取った。 「従者に持たせなかったのですか?」 ラファエルはウォーレンに眼をやった。 「秘匿する情報を知る人間は少ない方がいいからな」 普段のぞんざいな言動とは違い、優雅な手付きで人数分の茶を淹れ終えると、ジークムントは一口含み、ローザリンデの前に茶器を置いた。 ローザリンデはレオンらに席に座るよう促し、茶を一口飲んだ。 「さて、ウォーレン殿、諸々の説明をお願い出来るかな?」 「ウォーレン、とお呼び下さい」 頭を深く下げ、ウォーレンはローザリンデの鋭い眼光を真正面から受け止めた。 「何処からお話し致しましょうか」 「全て…と言いたいところだが時間が無い。それに私の関心事はブラッドのみだ」 「了解しました。私がオイゲンブルク侯爵の手の者である事は、報せが届いていると思いますが?」 ローザリンデは鷹揚に頷いた。 「私の主な任務は、侯爵が連れて来たブラッドを陰から見守るというものでした。残り半年で城代を王弟殿下と交代し、領地にブラッドを連れて戻るまでの間ですが……」 連れて戻る、と言う部分にレオンとローザリンデの頬が僅かに動いた。 「最初の違和感に気がついたのは、ブラッドの悪い噂が下働きの間で囁かれていた事です」 「悪い噂? ブラッドの? あり得ねぇ」 ジークムントが眉を顰めて呟いた。 ウォーレンは同意するように頷いて言葉を続けた。 「そうです。聡明で素直、人当たりの良いブラッドの、です。悪意の塊のような噂が真しやかに広まるのが異様に早すぎたのです」

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