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第96話

仄かに明るい水の中をゆっくりとブラッドは沈んでいた。 寒くはない。 恐怖も無い。 レオンの腕の中にいるような安心感に包まれて心地好い。遠い昔に嗅いでいた、懐かしい匂いがする気がする……。 足下で仄かに白い光りを放っている塊が近づいてきた。 ここへは、以前訪れた事がある。 その時に、グリューンの柔らかな歌声を聴いたのを思い出した。優しい母性に溢れた歌声だった。 今は静かで、コポコポと水音に似た音が耳を通り過ぎていく。 白い光りの塊の少し上で、ブラッドの躰は止まった。ふわふわと心許なく浮いたまま、ブラッドは白い光りを見つめた。 この光りは……。 自分の奥に眠っている、竜の魔力だ。 これが一杯になったら、自分も竜になれるだろうか? レオンの金粉をまぶした様に輝く鱗に覆われた、美しくも力強い蒼い竜を思い出した。 青金石を思わせる鱗は一枚一枚が意思を持っているかの様に動いて、シャラシャラと砕けた硝子が擦れた時の儚い音を立てていた。冷たそうに見えて、触れると仄かに温かみがあった。 竜になれたら、蒼い竜の隣を一緒に飛んでみたい。 自分はどんな竜になれるだろうか? 淡く光る塊の中に、ぽつんと、赤い輝きがあった。 あれは……レオンだ。 赤い光りの側に降りた。 真珠色の光の中で、その赤い光りは力強く輝いており、違和感無く存在していた。 レオンの鱗だ。 何だか…嬉しい。 愛しさが込み上げ、ブラッドは赤い光りを両手で掬い上げた。赤い光りは想像したよりも熱く、僅かに脈動していた。レオンと繋がっているのかもしれない。 頬擦りしてみた。 脈動が強くなった。 ぼくだって、分かったのかな? 更に嬉しくなり、赤い光りを胸に押し当てた。 いつか……、いつか、僕の鱗をレオンにあげたいな……。 意識がゆっくりと浮き上がり、ブラッドは眼を開けた。 窓からは朝焼けの光りが射し込んでいた。 いつの間に自分は眠ったのだろう。 一人だ。眠るまでは確かレオンと一緒にいた筈なのに……。 少し寂しく思った。自分の中にレオンの魔力が存在すると確信したが、それでも側にいないと寂しさを感じる。 服を整え、ブラッドは部屋を出た。 講堂で手当てを受けていた騎士らは既に起き上がり、朝食を済ませ、武器の手入れをしていた。 「おはようございます、御子。良くお休みになられましたか?」 降りてきたブラッドに気づいた騎士らが手を止めて挨拶をした。 「お、おはようございます。皆さん、怪我は大丈夫ですか?」 丁寧な言葉をかけられ慣れていないブラッドは、戸惑いながら返事を返した。昨夜よりは騎士らの顔色が良くなっている事にほっとした。薬湯が効いたらしい。 レオンはどこだろうと見回していると、地下からの階段をジークムントが上がって来ていた。ブラッドに気がつくと、お日様のような笑顔で駆け寄って来た。 「良く寝れたようだな、顔色が良い」 「は、はい。心配をかけました」 「俺よりアルベルトが心配してた。後で顔を見せてやってくれ」 「はい。…先生はご一緒ではないのですか」 ジークムントは肩を竦めた。 「先生は地下で研究中。さっき朝飯を届けて来たんだよ。あ、ブラッドは絶対、地下に行くなよ。これは団長からの命令だ」 「分かりました」 研究の邪魔をするなと言う事なのだろう。 元々、医師より薬師の仕事が本業なのだ。何か珍しい薬草でも見つけて研究しているのかもしれない。人の気配があると集中出来ないのだろう。 落ち着いた頃合いを見計らって、滋養のあるお茶を届けようとブラッドは思ったが、自分は地下への出入りを禁じられた事に気がついた。誰かに頼もうか考えていると、ジークムントが頭をぽん、と叩いた。 「はい?」 「朝飯を食おうぜ。腹が減っては何とやらだ」 炙った塩漬けの肉と野菜を挟んだ黒パンと水の簡単な食事を済ませ、井戸で顔を洗っているとアルベルトが駆けて来た。 「おはよう、ブラッド。良く眠れたようだね?」 「おはようございます。あの、心配をかけて、すみません」 「いいんだよ。朝ごはん済ませたんだって? 竜達に顔を見せてあげてくれるかな? 」 深く訊ねる事はせず、アルベルトは騎竜の待機場へ案内した。柵の外の開けた所には騎馬と騎竜が規則正しく整列していた。 騎士らが其々の騎馬と騎竜に鞍を置いたり蹄の手入れをしており、騎士見習いらしい少年らが飼い葉を与えていた。 その奥でレオンが騎竜の頭に手を当てているのが見えた。 気になってアルベルトを振り返ると、彼は軽く頷いて近くの騎士と何やら話し始めた。 ブラッドは軽く頭を下げてレオンの方に駆けた。 森は朝靄の名残りがあり、森からは湿気った土と苔の匂いがした。木々の間からは朝日が差し込み、薄い布がひらめいているようだった。 行儀良く整列していた竜達はブラッドが近づいて来ると、そわそわと躰を揺らし、自然と動いてしまう尻尾を懸命に抑えた。 竜騎士達は、自分という相棒よりもブラッドに夢中な騎竜に苦笑して肩を竦め、手際よく鞍や胸当てを着けた。 「何をしているの、レオン?」 レオンは竜の頭に手を当てたまま振り向いた。 「おはよう、ブラッド。顔色は良いな」 皆に同じ事を言われ、自分は、昨夜はどれだけ心配かけたのかと凹んだ。平気だと思っていたのは自分だけのようだ。 「眠れて、食べられる。それが一番だからな」 「うん……」 人に心配をかけまいと思って行動していたのだが、真逆だった。自分の事だけしか考えられず、逆に迷惑をかけてしまっていたのだ。 「レオンは、どこで寝たの?」 「俺は一ヶ月くらい寝なくても平気だからな」 「え、何それ? ずるい」 「竜人族は頑健だからな。特に雄は、飲まず食わずでどれだけ戦えるかが重要視される」 ブラッドは口を開けてレオンを見上げた。 「人型で最低でも一週間、竜身だと半年から一年くらい戦闘に耐えられなければ、成人していても一人前の雄として認められない。太古の昔は、百年戦っていたという伝説もあるが、本当かどうかは分からん」 「……ぼくは、一生、一人前には…なれないかもしれない……」 レオンは笑ってブラッドの鼻を摘まんだ。 「竜身になれるのは竜人族でも、王侯貴族の血筋の者だけだ。彼らは領地や民草を護れるくらい強くなければならない。誰もが伝説級にならねばならん必要は無いさ」 ブラッドは鼻を押さえてレオンを見た。 竜人族とは、皆が竜身になれ、レオンのように強いのだと思っていた。 「レオンは、竜に何をしているの?」 レオンの手を頭に当てられた竜は、薄く眼を閉じて座っていた。他の竜はそわそわとしていたが、微動だにせず大人しくしている。 「乱れた魔力回路を調えているんだ」 「魔力回路?」 レオンが頷くと、竜の頭にある手から淡い光りが溢れ出した。光りは金粉を纏い、瞬く間に竜の全身を覆った。 「呪詛に侵された竜は、体内の魔力回路が乱れて、翼に上手く魔力が溜められず飛べないんだ」 「それで飛べなかったの……?」 「竜が弱っていた原因も呪詛だ。体内の魔力回路を乱し、徐々に体力を奪っていた。俺はその回路を調え、魔力の流れを正常に戻しているんだ」 蒼穹の瞳に金環が現れていた。 「前に、ぼくにしてくれたように?」 「原因は異なるが、似たようなものだな」 「じゃあ、安心だね?」 「…いや、根本的な解決にはならない。応急処置のようなものだ」 苦々しげにレオンが溜め息混じりに答えた。 「竜の血を使った呪詛なんぞ、俺も初めてだからな」 強大な力を持つ竜は、戦闘に於いて特化した属性を持つが、呪詛を浄化出来る稀有な竜はここ千年生まれていない。人々の傷や病を癒し、瘴気を浄化すると言われているが、レオンも文献での知識しかない。 「ブラッドもやってみるか?」 「えっ?」 「お出で」 レオンは次の竜の頭に手を当てながらブラッドを引き寄せた。 「俺の手に重ねて」 言われるがまま、ブラッドはレオンの手に自分の手を重ねた。 「俺と呼吸を合わせて」 「う、うん」 肩を抱かれ、ブラッドは逆らわずにレオンの胸に頭を付けた。そうすると、レオンの体温が全身で感じられ、呼吸を合わせるどころか鼓動がいつもの倍になってしまう。 「吸って、吐いて、吸って…」 言われる通りにするが、本当に呼吸が合っているのか分からない。 「吸って、吐いて……。そうだ、上手いぞ。ほら、俺と魔力が同調し始めた」 重ねていた手から淡い光りが溢れ始めた。掌に感じるレオンの手との境が曖昧になり、光りは薄い布が広がるように竜の躰を覆った。 表面を覆っていた光りは、今度は何百本もの細い糸となって竜の体内に侵入し始めた。 驚いたが、手は離れずに光りを放ち続けていた。 「筋が良いぞ。そのまま伸ばして……。時々、石が詰まっているように滞っている所があるだろう?」 「うん…」 「それを溶かすように想像して……、そう、出来ているぞ」 レオンに導かれるまま、ブラッドは魔力を初めて自分の意思で操作した。

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