97 / 156

第97話

時間は少し遡る。 夜が明けきらぬ早朝、ジークムントは鳥の羽音に気づいて空を仰いだ。脚に連絡用の筒を括りつけてある鳩が伸ばした腕に止まった。 脚に括りつけられていた筒を取り、ジークムントは鳩を騎士見習いに渡し、返信を書くまでの世話を頼んだ。 小さな用紙を開いて目を通したジークムントの眉間には、深い皺が刻まれていた。陽気な彼らしくない厳しい表情で、講堂の地下へ足早に向かった。 地下牢の柵の前で、ユリウスは徐々に進行する呪詛の観測を、眠る間も惜しんでひたすら記録していた。皮膚を侵食する黒い痣の早さをを砂時計で計り、少しの変化も見逃さないように牢を凝視する。 護衛の騎士は、表情には出さないよう気をつけていたが、牢へ向ける視線は蔑む感情を隠し切れてなかった。自分達が命懸けで護っていた側から裏切られたのだ。背中から唐突に斬られたようなものだ。 多くの仲間が身体的だけでなく精神も傷ついた。ユリウスが奴らに『治療』を施していない事が救いだった。 そこへジークムントが降りて来た。 騎士が敬礼すると、ジークムントが軽く頷いた。 「護衛を代わろう。暫く休憩して来るといい」 「はいっ」 自分より遥かに高い身分のジークムントが護衛を代わるなど、普段であればあり得ない。 何か聞かれたくない話があるのだろうと察し、騎士は階段を駆け上がった。 騎士の足音が遠ざかったのを確認し、ジークムントは観察中のユリウスに近づいた。 「先生、どんな感じですか」 ユリウスは振り返りもせず、机上で散乱している紙を指差した。 「大体は記録しておきました」 「進み具合いはどうでしょう」 「年齢や体格差はあまり関係ないようです。進行具合いも若干の違いはありますが、そろそろ心臓に到達しそうですね」 呻き声さえ上げる事が出来なくなった男達は膝を抱えて踞ったり、俯せに倒れたりしていた。確実に侵食してくる呪詛による脱力感と、大きな手で躰を神経ごと絞られているような軋みが、死がそこまで迫っている事を知らしめていた。 「呪詛の解除の方法は見つかりましたか?」 ジークムントの問いにユリウスは薄く笑った。 「竜人族のレオンでさえ、竜の血を使った呪詛の解除の方法は分からないと言っておりました。呪詛をかけた呪術師に訊くしかありません」 「レオンでも無理か……」 「私としては、最後まで呪詛の経過を観察したいのですが……、そうですね、解除の方法も興味はあります。上手なものです。大本の呪術師には呪詛返しがいかないように、巧妙に呪詛の輪から外れているのですから」 ふん、と鼻を鳴らしジークムントは記録紙を指で弾いた。 「あれだけの事をしておいて罰の一つも受けないとは、随分姑息な奴だな」 「文献に依れば、呪術師は返しの風を身代わりに受けさせるそうです。それが人形か人間かの違いですね」 「では、こいつらの呪詛が解ける可能性は」 「全くありませんね。それに、同情は無用です。無知は言い訳になりません。日々の暮らしの中にこそ、人間が手を出してはならない領域や戒めが存在します。それを無視したのですからね」 薬師であり、医師も兼ねるユリウスの言葉は冷たかった。一切の憐れみも同情も無かった。 「そう言う事だ。…マキシム」 ジークムントが振り返ると、蒼白な顔のマキシムが立っていた。 その名簿を見たのは、誓って偶然だった。 昨夜、ユリウスに夕食を持って行った時に、机の上に散乱していた記録紙を整理したのだ。とても夕食を置く場所が無く、ユリウスの許可を得て纏めただけだったが。 偶々、一番上に名簿らしき用紙があったのだ。呪詛返しを受けた者の名前や年齢、性別、体格、集落などが記されていた。 そこに自分の片割れの名前を見つけ、驚いた。 だが、年齢で違う事が分かり、ほっとした。 (十四歳? まだ子供ではないか……。こんな子供まで呪詛に参加していたのか……) この時はその程度にしか感じず、気にもとめなかった。竜の調教師見習いで、城では散々ブラッドを苛めていたと聞いた。その程度の性根なのだろう、と。 しかし、夜が更け、一緒に火の番をしていたグレアムを見ていると、段々と胸の奥がざわついてきた。グレアムが呪詛返しを受けている訳ではないが、同じ名前のせいか、放っておけなくなってしまった。 まだ、十四だ。もしかしたら反省し、調教師の修行もまじめになるかもしれない。何も知らないで呪詛をしてしまったのなら、悪意が無かったのなら……。 それならば呪詛を解呪出来るかもしれない。朝になったら、ユリウスに訊ねてみよう。 早朝、あまり人目が無いのを確め、ユリウスの所に行こうとしていたところ、地下へ行くジークムントを見かけ、思わず後を追ってしまった。 「片割れと同じ名前の子供に同情して、何とか解放してやれないか頼みに来たのだろう」 「ジークムント殿……」 「そんな事が出来る訳がないだろう」 「しかし、まだ、分別のつかない子供です。その、心から反省していれば……」 「戯け者っ」 消して大声ではなかったが、上に立つ者の威圧があった。さすがに侯爵の系譜である。自分より年下だが、マキシムは気圧されていた。 「何を甘い事を言ってるんだ。あれはお前の片割れの兄弟でも何でもない。それに、十四は十分に分別のつく年齢だ。全部、自分の都合で成した事だ。自業自得だ。同情する価値すら無い」 「それは…あまりにも可哀想では…」 「今朝までに、何人が死んだと思ってるんだっ」 掠れた、血を吐くような声だった。 「こいつらの身勝手で、仲間が、竜が犠牲になったんだぞ」 「砦の呪詛は取り除かれた筈では……」 「それまでの間に蓄積された呪いは、そう簡単には無くなりません」 ユリウスが漸く牢から眼を離し、マキシムに顔を向けた。 「解呪の仕方が分からないのです。時間をかけて呪いを浄化するしかないのですよ」 「だが、そんな悠長な時間は無い。北方軍もそれが分かっていての侵攻だ。確かに呪詛で死んだ者はいない。だがな、体調が回復しないままの戦闘だったんだ」 心臓を掴む冷たい手は無くなった。 しかし、体力の回復は間に合わず、重い躰で懸命に剣や槍を振るって戦った。いつもであれば避けられる弓も、軽々と返す剣もその身に受けた。 それは竜も同じだった。 飛ぶ事も出来ず、地を這いながら降る槍を自分の騎士を護る為に受け続けた。万全であれば、なんという事のない攻撃だが、頑丈な筈の鱗を槍が次々と貫いた。 それらが致命傷となった。 「こんなクソ共に同情なんかするな」 ジークムントは握り込んでいた小さな紙をマキシムに投げつけた。丸められた紙が足元に転がるのをマキシムは見つめた。 「こいつらの親兄弟、伴侶、子供にも呪詛らしい痣が確認された」 ハッとしてマキシムはジークムントを見た。 ジークムントは苦々しげに牢を睨んでいた。 「縁、ですね」 「えにし、ですか?」 マキシムの問いにユリウスが頷いた。 「協力な呪詛の中には、呪いをかけられた者だけでなく、その家族や親しい者にまで及ぶ事があると聞きます。マキシム、へたに同情などして縁が繋がってしまうと、あなたにも呪詛が及ぶかもしれません」 「先生……」 「もっと最悪な事が考えられるぞ。お前じゃなく、双子のグレアムが呪いを受ける羽目になるかもしれない」 ジークムントの言葉に、マキシムは唇を噛んで俯いたが、ふと、思いついたように顔を上げた。 「…本当に竜人族でも無理なのですか? もしかしたら、御子……竜の愛し子であれば……」 「それ以上、口を開いたら斬るぞ」 いつの間に抜いたのか、マキシムの喉にジークムントの剣先が突きつけられてあった。 「しかし……っ」 「喋るな」 殺気を帯びた眼光がマキシムの眼を貫いていた。 「一言でもブラッドに喋ってみろ。殺す」 マキシムは息を飲んだ。 「いいか。元々あいつには何の関わりも無い事なんだ。呪詛も北方軍も騎士団が全部責任を負わねばならんのに……。全く戦事に関係のない民間人に頼らねばならん体たらくを恥じれ!」 ジークムントは静かに剣を収めたが、殺気は残っていた。 「いつも笑顔のあいつが、どれだけ辛い目にあったと思ってるんだ。…兄上に絶対に護ると約束したのに、あいつは傷つけられてばかりだ。何一つ護れてないじゃないか。情けないぜ。その上、自分を傷つけてまで竜を癒そうとしやがった」 ふっと、ジークムントから殺気が消えた。 「これ以上、あいつを傷つけられてたまるかよ。…騎士としてと本分と矜持を忘れるな」 マキシムに言いながら、自分にも言い聞かせているようだった。 「それから、ブラッドには死者が出た事は絶対に言うな、悟られるな。……先生も、お願いします」 軽くユリウスに頭を下げ、ジークムントは地下牢を出た。

ともだちにシェアしよう!