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第99話
ユリウスは幼い頃から変わっていた。
同年代の子供達といても同じ遊びには加わらず、木陰で難しい本を読んだり、虫の行動を何時間も同じ姿勢で観察したりする子供だった。
容姿に恵まれ、幼い頃はよく女の子に間違われる程で、男の子達はユリウスをからかったり虫の死骸を投げつけて気を引こうと懸命だった。だが、ユリウスはその虫の死骸を拾ってじっくり観察したりするものだから、男の子らは次第に気味悪がり、相手にしなくなった。
少し年齢を重ねても、相変わらずのユリウスに対して、今度は嫌がらせやいじめが始まった。街の神殿教室に通うようになると、いじめは更に陰湿になり、時には怪我をする事もあった。
父親は街医者で忙しく、息子の怪我は男の子特有の遊びで出来たものと思い、深く追及する事はなかった。母親はユリウスが幼い頃にに亡くなっており、薬屋を営む父方の祖父母の家で日中の殆どを過ごしていた。
ラファエルがユリウスと出会ったのは、神殿教室に通い始めてすぐの頃。
ラファエルは小さな領地の子爵家の三男で、ユリウスより二つ年上だった。
神殿の図書室で、額から血を流したまま分厚い本を読んでいたユリウスをラファエルが発見したのが、二人の最初の出会いだった。
大慌てで医務室へ連れて行って手当てを受けさせたのだが、当の本人は小首を傾げてラファエルを見上げていた。何故、ラファエルが慌てているのか分からなかったらしい。
額の傷は石をぶつけらた時に切れたようで、出血は止まっており、流れていた血は既に固まっていた。
一体、何の本に夢中で出血に気がつかなかったのか訊ねると、今まで一言も喋らなかったユリウスは、突然、息もつかずに語りだした。
竜の伝承から始まり、歳時記に残るしきたりや季節の行事の中に竜人族との関わりの証拠がたくさんあると、どこで息継ぎをしているのか分からない程滔々と語った。
「そ、それは、面白いのか?」
漸く口を挟めたのは、夕方の鐘が神殿から響いてきた時だった。
「面白い?」
ところが、訊ねられたユリウスはきょとんとしてラファエルを見返した。
「面白いから読んでいたのだろう?」
「面白い…のかな…? ……分からないです……」
ユリウスは俯いて考え込んでしまった。
「まぁ、そんなに考え込まなくてもいいよ。どんな本を読むかなんて、その人の自由だし。どんどん読むと良いよ」
「読んでも、良いの?」
「ああ。知識を得るのは大変良い事だと思う。俺より年下なのに、随分難しい本を読んでいるんだな、偉いな」
「うん……」
殆ど表情を変えなかったのに、ユリウスはそこで初めて、僅かに、はにかんだように口許を緩ませた。
ユリウスの母親が流行り病で亡くなっていたのをラファエルが知ったのは、同じ病が街で確認されたのと同時期だった。
その病は最初は風邪に似た症状で、徐々に患者の体力を奪い、痩せ細って死に至る。この病気に対する治療法と薬は無く、症状が確認された患者は隔離するよりなかった。
神殿の治療院は治療よりも、死を安らかに迎える為の場でしかなかった。
幸いにも子爵家では、家族や使用人に病人は出なかったが、神殿学校に通う生徒の中には家族が罹患し、親や兄弟を亡くした者もいた。
ユリウスの父親は治療に奔走し、最後の患者が亡くなった頃、流行り病は収束した。
最後の死亡者はユリウスの祖母だった。
「本当に助かる方法は無かったのかな……」
祖母の墓の前でユリウスがぽつりと言ったのをラファエルは今でも覚えている。
流行り病に罹患した者は全員が亡くなった訳ではない。中には助かった者もいた。助かった者と助からなかった者の違いはどこにあったのだろう。
「竜……の血があったら、助かっていたかもしれない……」
何度も読み返しらしく、頁がよれよれになった分厚い本を抱え、ユリウスがぽつりと言った。
竜騎士を目指していたラファエルは眉間に皺を寄せた。
「竜の血?」
「…竜族じゃなくて、竜人族の血です」
竜人族が人と交流していたのは遥か昔の事だ。彼らの叡智があれば、流行り病の薬など容易に作ってしまっていたかもしれない。
そんなお伽噺にすがらなくてならない程、ユリウスにとって祖母の死が辛かったのだろうとラファエルは思った。
ユリウスの薄い肩をそっと抱いて、ラファエルは自分の胸に引き寄せた。
「…いつか…、竜人族に頼らなくても治せる薬が出来るといいな……」
ユリウスはラファエルに逆らわずに身を任せた。頭をラファエルの胸に預け、小さな墓石を見つめて本を抱き締めた。
「……ええ……、そうですね……」
白に近い白金髪が風に揺れて頬にかかった。
「でも、竜人族の血で万能薬が作れたら、それはそれで素晴らしいじゃないですか……」
その呟きは弔いの鐘の音に被さって、ラファエルの耳には届かなかった。
十五歳になったユリウスは故辺境伯の援助を受け、高度な医学の勉強をする為に、王都の学院へ遊学する事となった。
だが、知識のみ習得してきた弊害がここで出た。
自分の容姿に無頓着な天然に加え、一般常識があまりにも欠けていたのだ。辺境領であればラファエルがそれを補ってきたのだが、一人で王都に行かせるのは危険だった。
ユリウスに近しい者と辺境伯との話し合いの結果、彼の性格(性質)を最も熟知しているラファエルに白羽の矢が立った。
当時、騎士見習いとして辺境伯に仕えていたラファエルは、王都の騎士団での修行を兼ねてユリウスの護衛として同行する事となった。
当時、十二歳になったばかりのローザリンデは、王都に出立する前日、挨拶に訪れたラファエルに大人びた口調で言った。
「良いか、ラファエル。ユリウスはあの通りのぼんくら故、どこで手篭めに逢うか分からぬ。そなたがしかと護りぬけ」
「はい」
「ふむ……」
ローザリンデは真面目な顔でラファエルを見上げた。
「警戒心を持たせるのに、そなたがユリウスを手篭めにしてしまうのか早道なのだが」
「は……はぁっ?!」
「あれは医師を目指しているわりに、貞操どころか己の命の危機にも無頓着だ。その上、どこまでも自分の興味があるものにしか意識が向かぬ。知識を得る為には、土地を離れる事も厭わぬだろうよ」
それはラファエルも感じていた。
自分の知りたい知識の為には、隣国どころか地の果てさえ、何の躊躇いもなく身一つで行きかねない。しかも、後先考えずに……。
「ユリウスは、必ず技倆の良い医師になるであろう。この辺境の地で医師は貴重で手放せなぬ」
ローザリンデの新緑を思わせる緑の瞳に強い光があった。
「そなたにはユリウスをこの地に留める軛になって貰わねばならぬ。拒否は赦さぬぞ。その方法はそなたに任せる」
金銭だけでユリウスを留め置く事は無理だろう。宥めすかしても彼には通じない。
ユリウスを囲い込みたければ、先ずは本を与え続ければ良い。新しい知識を得る事に対してユリウスは貪欲だ。
ローザリンデに返事はしたが、ラファエルは本以外にどうやってユリウスを繋ぎ止めておくかを考えるのは後回しにした。
本音は、ユリウスにもっと広い世界を見せてやりたいのだが……。
※※※※※※※※※※※※※
砦のローザリンデの執務室で、ラファエルは早馬で届いたユリウスの研究の報告書の束を項目ごとに分け直して机の上に並べた。観察し、研究する事に特化したユリウスに、順番通り書類を纏める能力は皆無だ。
報告書をパラパラと速読したローザリンデは片眉を上げて机に戻した。
「呪詛の解呪は難しい、か……」
「呪詛を含んだ血を撒き散らされた場所では、徐々に草木の腐蝕が進み、瘴気らしいものが発生しているとの報告が上がってきております」
ラファエルは机上に広げられた地図に、羽根ペンでいくつか印をつけた。印は、街道、避難場所を含めた広範囲に渡る。
「負傷者の中に、呪詛に当てられた者が多数含まれておりましたが、半数近くがユリウスが調合した薬草茶で回復し、隊に復帰しております。ですが、戦力は大分削られたと考えられます」
「ふむ。もしかしなくとも、なかなかの危機的状況なのかな?」
ローザリンデは眼を細めてラファエルを見上げた。危機的状況と言うわりに表情に焦りは無く、むしろ楽しんでいる節がある。
「危機と言うのであれば、援軍を頼まれてはいかがです?」
「王都は遠い」
「王弟殿下がいらっしゃるじゃありませんか」
王弟が直属の騎士団と共に港の城に入ったのは、ついこの間のだ。
「団長にベタ惚れなのだから、ちょっとお願いしたらご自慢の騎士団を率いて援軍に来てくれますよ?」
「馬鹿が幾人来ても、猫の手にもならん」
血筋自慢の貴族の子弟で構成されている騎士団など、百害あって一利無しだとローザリンデはラファエルの案を切り捨てた。
それよりも、ブラッドが側で微笑んでくれる方が百倍戦意が上がるではないか。
「ブラッドに私の勇姿を見せる、絶好の機会なのだがなぁ」
ローザリンデが、さも残念そうに呟いた時、扉を外から叩く音がした。ラファエルが扉を開けると、緊張した面持ちの従者がいた。
「でっ、伝令です…。北方軍が関所に向けて進軍しているのが確認されましたっ」
「数は?」
ラファエルの問いに、従者は呼吸を整えて声が掠れないよう腹に力を入れた。
「騎馬隊、竜騎兵を合わせて一万、です!」
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