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第101話

昼の喧騒が嘘のように辺りは静まり返り、竜舎の人間用の扉を閉めたミュラーは夜空を見上げた。薄く雲に覆われた月がぼんやりと輝いていた。 「明日は午後から雨だな」 呟きながら、いくつか変更する明日の予定を頭に浮かべながら宿舎へ歩き出した。 ここ暫くは、たいして問題も起きておらず、騎竜と火竜の雛の世話のみの穏やかな日々が続いていた。 いつも騒動の中心にいたブラッドが辺境領へ行っていないからだとミュラーは思った。 だが、そう考えていたのは竜舎に携わる人間だけだったようだ。厨房や鍛冶場、その他の下働きの者達から、ブラッドがいなくなった事で、今まで円滑に回っていた仕事が滞ってしまったと文句を言われたのだ。 行き違いよる不平不満をブラッドが間に入り上手に解消し、各部署の情報を一片の取り零しもなく行き渡らせてくれていたのだ、と。 しかも、港の商工会に伝手があり、食糧から雑品、一部の輸入雑貨や高級品の取り扱いの繋ぎを任されていたらしい。それなのに、何の引き継ぎのないまま辺境領へ行ってしまった事で、あちこちで混乱が起きていた。 高級品は、王弟とその騎士団が泊まる部屋の寝具や家具が主だったが、侯爵が備え付けの物で十分と判断を下してくれたお陰で用意せずに済んだ。予算が大幅に超えていた為、悲鳴をあげていた経理は泣いて喜んだらしい。 そういえば、騎竜の食糧や竜舎に敷く藁は、ブラッドが来てから滞る事なく用意され、水槽の水は常に新しかった。竜舎は綺麗に保たれ、竜の機嫌も良かった。 気難しくぐずる火竜の雛を見て、侯爵がブラッドがいればなぁと呟いたのを、ミュラーはふと思い出した。 今は雌竜が交代で雛の世話してくれている。楽ではあるが、火竜は特に人の手を加えねば騎竜としての調教が難しくなると、レオンが言っていた。 人間と竜が信頼しあい、互いの命を預け合うまでの仲になるには、雛の時期の世話で決まる。ましてや火竜は竜種の中でも希少で情報が少ない。 調教師として長く勤めてきたが、さすがのミュラーも火竜は初めてだ。先代や、それ以前の調教師の覚書にも火竜の事は記されてなかった。 全てが手探りだった。 レオンが知ってる限りの火竜に関する事を教えてくれねば、今でも手探りのまま一歩も進めていなかったかもしれない。本来、火竜のような希少な竜についての情報は貴重で秘匿される事が多い。それを銅貨一枚受け取らずに教えてくれたのだ。 感謝しかない。 深く嘆息を吐いて、ミュラーはいつの間にか止まっていた足を動かした。 宿舎の扉を開けようとし、ふと人の気配に気がついて振り返った。ミュラーから数歩離れた所に少年が立っていた。 「お前は……辺境領の竜の世話に行ってた筈じゃ……」 「ちょっと私用で荷物を取りに戻って来たんです。……竜の数が少なくなっていて驚きました。何かあったんですか?」 この城の竜舎に預けられていた竜は、辺境伯とオイエンブルク侯爵の騎士団の騎竜が殆どだった。辺境伯の竜は先日、国境付近がきな臭いという事で辺境領に戻されていた。 「侯爵様が体調を崩されて、ご自分の領地に静養に戻られたんだ。騎士団も一緒に戻ったから、残っているのは、雛の世話に必要な雌竜が数頭だけだ」 「そうなんですか。じゃあ、急いでこっちに戻って来なくても大丈夫ですね?」 「そうだな。お前達は辺境伯様の竜の世話をきちんとやってくれ。人手が足りないようなら、後で何人か行かせる」 ミュラーは少年と話ながら、妙な違和感を覚えていた。 (この子は、こんなに愛想良く喋る子供だったか……?) 「じゃあ、向こうへ戻ります」 「夜も遅い。今夜は宿舎に泊まって、明日の朝に戻った方がいい」 「でも……」 「ウォーレンには俺が一筆書いてやる」 少年はあからさまにほっとした表情をした。 何事にも厳しいウォーレンの事だ。私物を取りに城に戻るのも、仕事が終ってから来たのだろう。 だが、暗い夜道を子供一人で行かせる訳にはいかない。 「ありがとうございます。ウォーレンさん、直ぐ戻って来いって言ってたから、どうしようかと思ってたんです」 「あいつは頑固だからな」 ミュラーは先程の違和感は勘違いだったようだと思った。厳しいウォーレンの指導から離れて、気持ちが浮わついていたのだろう。 「宿舎に晩飯のシチューが残っている。それを食べて休め、サイラス」 「はい、ミュラーさん」 早朝、サイラスは辺境へ向かう商隊の荷馬車に乗せて貰って戻って行った。 朝靄の中、城の内外では忙しく人々が動き始めていた。厨房からは煮炊きの煙が立ち昇り、厩舎からは馬の嘶く声が聞こえ、竜舎では早起きな雛が小さな鳴き声を上げていた。 下働きから山羊の乳がたっぷり入った桶を受け取り、ミュラーは雛がいる竜舎の扉を開けた。 雌竜達は雛に魔力を注ぐ事は出来るが、出産を経験しておらず乳は出ない。その為、栄養価の高い山羊の乳を代用で与えていた。 卵から孵ったばかりの頃は、乳をたっぷり含ませた布を吸わせていたが、今は桶から直接飲むようになっていた。雛から仔竜までの成長は早い。早く外敵から飛んで逃れられるようになる為だ。 火竜の雛の前には、既に何人かの調教師が集まっていた。希少で珍しい竜種なのは分かるが、あまり雛を興奮させる訳にはいかない。 叱咤しようと口を開けた時、ミュラーに気づいた一人が振り返った。その表情が強張っていた。 「何があった?!」 「雛が苦しがっています! 他の雌竜も様子がおかしくて……」 「何だとっ?!」 桶を放り出し、ミュラーは雛に駆け寄った。 鳴き声は途切れ途切れで弱々しく、呼吸は浅く乱れていた。その雛を護る様に前足で抱いている雌竜も呼吸が荒く、翼は力なく垂れいた。 見ると、交代で雛の世話をしていた他の四頭の雌竜も力なく横たわっていた。 「どういう事だ……? 昨夜は何ともなかったぞ。何を与えた!?」 「食事も水もいつも通りです。何も変わった物など与えておりませんっ」 だが、現実に竜達が苦しんで横たわっている。怪我らしい怪我も無い。中毒を起こす何かを食したとしか考えられない。 しかし、何を食べたのか分からないと、どの薬を与えるか判断出来ない。 「先ずは水を飲ませろ。少しでも中毒の原因を薄めろ。お前は食べた物を城の医師に調べて貰え」 竜が食べる物は人間と殆ど変わらない。毒が混入されていた可能性もある。万が一、城内の食糧庫に紛れ込んでいたら大変だ。 しかも、今は王族がいるのだ。 この場にいた調教師らも、事が竜舎に留まらない大事だと気がついて蒼白になった。 数人が桶に水を汲んで走って来た。 その水を竜に与えようとするのを見ていたミュラーが物も言わずに腕を掴んで止めた。 「ミュラーさん?」 「その水をどこから汲んで来た」 「はい?」 「どこから汲んで来たと訊いている!」 ミュラーの剣幕に圧され、他の調教師も桶を持ったまま足を止めた。 「そ、外の水槽です……」 「新しい水か?!」 「は、はい…。いいえ……」 「どっちだっ!?」 「ゆ、昨夜の汲み置きです……」 朝は必ず新しい水と取り替える決まりになっている。重労働ではあるが、竜の健康の維持には必要な仕事だ。 ミュラーは知らなかったが、その仕事をほぼ一人でブラッドが行っていた。突然ブラッドがいなくなり、水汲みの仕事が戻ってきた彼らは、互いに押し付けあっていた。 無言でミュラーは水槽へ向かった。 水槽の内側には、うっすらと緑の苔が所々にへばり付いていた。 (掃除もしておらんのか……) 毎日、どれかの水槽を掃除していたブラッドの姿を思い出した。朝の水汲み、竜舎の藁敷き、掃除。何一つ嫌な顔をせずに黙々と行っていた。 見習いや下っ端の調教師らがおざなりで敷いた藁を整えたり、誰もが嫌がる排泄物の掃除を淡々としていた。神殿の孤児院で育ったブラッドは、ただ誠実に仕事をこなしていただけだったのだろう。 そんなブラッドを嫌って蔑み、時には暴力を振るったりしたのは、自分らの中途半端な仕事ぶりを誤魔化す為だ。 薄々は気づいていた。 忙しい日々の中、ちょっとした諍いよくある事と見ぬふりをしていた。しかも、原因はブラッドが調教師らと上手くやれていないからだと言い聞かせて……。 (いい歳をした大人が、あんな子供に全部おっかぶせて辺境領に追いやった……) 仕事を怠った者より自分に対して腹が立った。 「水槽を掃除して、新しい水に入れ替えろ」 溜め息を飲み込んで、ミュラーは所在なく立っていた調教師らに言った。 彼らが動き出したのを背中で感じながら、ミュラーは水槽の栓を抜いた。排水溝に流れ落ちる水を見ながら、ふと、朝陽を反射している物がある事に気がついた。 水槽の底に黒い平らな石のような物がいくつもあった。

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