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第103話
突然の轟音に、戦場でも驚かないように訓練された騎士団の馬が、大きく嘶いて後ろ足立ちになった。
馬の手綱を握ったままユリウスは、後ろ足立ちになった馬に勢いよく引っ張られた。咄嗟に手綱から手を離したが勢いは止まらず、地面に強かに投げ出されて転がった。
「先生っ!」
グレアムがユリウスに駆け寄り、素早く鞍から降りたマキシムが、自分と兄の暴走しようとする馬の手綱を掴んだ。
頭を振って暴れようとした馬を手綱を片手で握って有無も言わせず抑え、レオンはもう片方の腕を伸ばしてブラッドを抱えて鞍から降ろした。何が起こったのか分からず、ブラッドはレオンの胸にしがみついた。
ユリウスを助け起こしながら、グレアムは怪我の具合を確かめた。擦り傷と打ち身だけで、幸いにも捻挫や骨折などはしていなかった。
興奮して鼻息の荒い馬を宥めながら五人が振り返ると、避難所の建物が崩壊していた。もうもうと土埃を上げ、煉瓦の壁が崩れ、太い柱が折れ、屋根が音を立てて落ちていく。
「一体、何が……」
呆然とマキシムが呟いた。
ブラッドを左腕で抱え、レオンは土煙が収まるのを右手を剣の柄に置いて油断なく待った。土煙の向こうに、ただならぬ気配を感じたからだ。
ブラッドはレオンの腕の中で胸の奥がざわめくのを感じていた。暗く冷たい不安の塊が止めどなく奥から湧いてきて、躰が小刻みに震える。
薄まってきた土煙の向こうに、いくつかの黒い大きな影が見えた。黒い塊が不規則に蠢くと、崩れた建物の瓦礫が軋んだ音を立てた。
「レオン……、あれは……」
息を飲んだブラッドにレオンは、まさか、と呟いた。
視界を遮っていた土煙が収まると、瓦礫を煩わしそうに躰を揺すって振り払う黒い竜が数頭いた。
否、竜らしい黒い生き物だ。
羽ばたきをする翼は片方が大きく、もう片方が極端に小さく非対称だったり、形状が通常と異なったりしていた。頭が異様に大きく首が細かったり、その反対に頭が小さいのもいた。
手足も同様だ。
鋭く伸びた爪がうねったり、細長い後ろ脚だったり逆に躰に見合わぬ大きさだったり…。
歪、なのだ。
「あ、あり得ない……!」
グレアムが叫んだ。
「何だ、あれは。あんなもの、竜じゃないっ」
竜の巨体に見合わぬ小さな前肢は人の手に酷似しており、細く長い首の先にあるのは明らかに人間の頭だ。
人間が竜になろうとして失敗したのか、はたまたその反対か……。
「あの顔、見覚えがあります」
呻く様にマキシムが言った。
「地下牢にいた罪人の一人です」
マキシムの言葉にユリウスが頷いた。
「間違いありません、私も見覚えがあります。観察対象なので全部覚えていますから」
頭の上半分竜で下半分が人の顔というのもいた。
魔を司る神が遊び半分に創造したとしか思えない、邪悪な意思がそこには感じられた。
その竜のなり損ないの足下には、黒い鱗に全身を覆われた人間が数人いた。鱗というより大小様々な黒曜石に覆われ、緩慢に動く度に耳障りな軋む音を立てている。
竜人族の戦闘形態に似ているが鱗が歪だ。
「竜のなり損ないに竜人族のなり損ないですか……」
ユリウスが形の良い眉を顰めて呟いた。声音には珍しく嫌悪感があった。
レオンにしがみついたままブラッドは、突如現れた異形の存在から漏れ出る様に伸びてくる、闇色の数多の歪んだ手を言葉もなく見つめていた。その手は明確な意思を持ってこちらに伸びてくる。それらから放たれる気配は暗く冷たく、喉元に刃を突きつけられた様な殺気があった。
ブラッドの様子に気づいたレオンが顔を覗き込んだ。真っ青になったブラッドの唇が震えている。
恐怖に固まって凝視しているブラッドの視線を追い、レオンは自分達に迫ってくる気配に気がついた。素早く抜いた剣に息を吹きかけ、地面に突き立てる。
それと同時に剣に触れた触手が霧散する。
周り込んで来た触手も五人に届く寸前で見えない壁に弾かれた。
「レオン殿、一体、何が……」
グレアムとマキシムも剣を抜いた。
「分からん。だが、攻撃はまだ来る。一時的な結界では長く保てない。ここから離れるぞ!」
「分かりましたっ!」
だが、乗ろうとして手綱を引いたが馬が動こうとしない。恐慌状態に陥ったのか、脚が動かないのだ。
「しっかりしろっ!!」
愛馬の首を叩いたが鼻息を荒くして嘶くだけだ。
その間にも異形の竜と竜人が近づいてくる。
一歩踏み出す度に黒い染みが地面に広がる。
それに触れた瓦礫は脆く崩れ、植物はたちまち萎れて黒く染まっていく。触れる物全てを腐食しているかのようだ。
「禁呪を使って呪いを具現化したのか…」
レオンは奥歯をぎりりと噛んだ。
およそ人の領域からかけ離れた呪詛力だ。
解呪出来る聖属性の魔力は、レオンの知る限り神話の世界の中にしか存在しない。唯一、祓う事が出来るのは、膨大な魔力をその身に持つ竜皇帝くらいだ。
いや、竜皇帝ですら祓うのが精々だろう。霧散した呪いそのものは消して消えず、方々に拡散するだけだ。
この呪詛を放った者はどうやって始末をつけるつもりなのか。そもそも始末する気が無いのかもしれない。
興味を失った玩具を放り出すような安易さを感じ、レオンは術者は案外年齢が低いかもしれないと思った。
ブラッドはレオンの結界に弾かれる度に霧散する黒い染みの行方を眼で追っていた。それらは塵にはなるのだが、小さな核に集まって灰のように地面に降り積もっていく。
その塵からは音にならない声が発せられていた。
痛い
怖い
助けてくれ
苦しい
畜生、何だって俺がこんな目にあわなくちゃならないんだ
痛い痛い痛い
苦しい苦しい苦しい
誰か代わってくれ
代われ、畜生、俺の代わりに
お前が死ね
耳を塞いだが、声は頭の中で響く。苦しみと絶望による慟哭。
それらはブラッドの精神を直接鷲掴み、引き千切り、心を欠けた刃物で切りつける。眼に見えない傷から血が溢れ、ブラッドの細い躰から体温を奪っていく。
竜人族として覚醒したばかりのブラッドは、黒い竜から放たれる思考の嵐を防ぐ術を知らない。それと同時に天性の共感力の高さが災いしていた。
神殿の治療院ではその高い共感力でもって、口頭より早く患者の症状やして欲しい事を悟って行動に移せていた。本来は素晴らしい能力なのだが、今はそれが仇となっていた。
たす…け、て……
それは、小さな声だった。
ブラッドは耳を塞いたまま声の主を探した。歪な竜と緩慢な動きの竜人の中に、小柄な竜人がいた。背中に方翼だけはやした少年のような竜人だった。
ふと、眼が合った。
途端に少年の竜人の空洞のような黒い眼がつり上がった。
ブラッドと分かってのようだ。
お、ま、え、の
思念ではない。唇の動きで分かった。
『お前のせいでこうなった』
「ぼく……?」
『お前がいるから。みんなみんな、お前が悪いんだ』
ブラッドには分からなかった。
自分の何が悪かったのか。彼らが異形となった原因が自分にあると言われても、何が何だか分からない。
けれど、高い共感力が自分に原因がある、と言っている。自分の存在が彼を傷つけているのだと分かってしまった。
少年は……グレアムはブラッドを睨む眼に力を込めた。虚ろだった眼が赤く光り始める。
どこで間違ったのか。
精一杯やっていたのに。
このまま苦しんで死ぬのか。
どうせなら……
『どうせなら、お前が死ね』
グレアムの呪詛が込められた声にならない声がブラッドの耳に届いた。
それと同時に氷の手がブラッドの心臓を鷲掴みした。
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