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第104話

国境地帯の丘陵地に構えた本陣で、ローザリンデは床几に腰を据え、両手を大剣の柄に置いて眼を閉じていた。 傍らのラファエルは引っ切り無しに届く報告を纏め、血気に逸り、今にも飛び出しそうな部隊を抑える為の指示を出していた。 国境線でもある河は、徒歩で渡河可能な浅い部分があり、北方軍の騎馬隊はそこに長い陣を置き、空には黒い騎竜の群れが展開している。 『戦闘は越境を確認してから』 王都へ北方軍の侵攻に対しての指示を仰いだ返事はそれだった。国内での防衛による迎撃は許可するが、反対に越境しての戦闘は禁ずる、と。諸外国に侵略と誤解されぬ為だと。 それは国王からというより、中央政府議会の協議の結果だ。 「相変わらず温い」 ラファエルが吐き捨てた。 「国王まで報告が上がっているかも怪しいがな…」 内戦を経験している国王が周辺国の軍事面に鈍感な訳がない。内戦中、他国からの侵攻を塞き止めていた辺境領を無視する事の愚かさも重々承知している筈だ。 だが、保守派が保身の為に、意図的に情報を隠したり報告を握り潰していたとしても不思議はない。 不意にローザリンデが立ち上がった。 「北方軍の左翼の騎竜隊の越境を確認。ジークムント隊に迎撃させる! 右翼は渡河の騎馬隊を!」 「はっ!」 ローザリンデが指示を出すと同時に空中の騎竜隊が動いた。ローザリンデは眼を閉じたまま北方軍の動きを見ているかのように卓上の地図に駒を次々と置いて命令を下した。 事実、ローザリンデには北方軍の動きが見えていた。自軍の更に上空で羽ばたく愛騎竜グリューンの眼を通じて視ていたのだ。 深く結ばれた強固な絆と、薄まっているとはいえローザリンデの躰に流れる竜人族の血のなせる技だ。視界を共有し、更にグリューンを通じて各部隊の騎竜に命令を出し、乗り手に伝える。 旗や太鼓、喇叭で指揮をするより早く確実だ。 愛騎竜のシルヴァンの背に仁王立ちになり、攻撃の指示を受け取ったジークムントは、槍を握った右手を高々と掲げた。 「敵の乗り手を落とせ! そうすれば奴等の竜は陣に戻る。我らの力を存分に示せ! 手加減は無用だっ!!」 槍の先端を北方軍に向け、ジークムントは吠えるように叫んだ。 「突撃ーーっっ!!」 重装備のジークムント隊は隊長の叫びに呼応し、黒い塊の北方軍に真正面から突っ込んだ。 先頭のジークムントは長槍をひと振りし、敵兵士の胴を強かに叩きつけて黒竜から落とした。それに続くアルベルトは騎竜ごと黒竜に体当たりし、衝撃でぐらついた敵兵の胸を槍の柄で突いて落とした。 乗り手がいなくなった黒竜は数回その場を旋回すると、ふいっと自軍の陣に戻って行った。 ジークムント隊が黒竜隊に突撃を開始したと同時に、騎馬隊が渡河して来た北方軍を迎え撃った。重装騎馬隊は騎馬ごとぶつかって相手を怯ませた。敵兵の中には衝撃に耐えられず馬ごと倒れた者もいた。 馬から河に落ちた兵士は鎧の重さに素早く立ち上がる事が出来ない。そこを軽装の騎馬隊が突入し、槍で刺す。 グリューンの眼を通して戦況を俯瞰で視ながらローザリンデは的確に指示を出した。戦力の差を通達の早さで補うしかない。 北方軍は数で勝れど、大軍で攻め込む事が思うように出来ないでいた。関所への舗装された街道では辺境軍が待ち構えており、簡単には撃ち破れないからだ。 だが、戦況が進むにつれ、数で劣る辺境軍は押されつつあった。 技で迎え撃つ辺境軍に対し、北方軍は物量で攻めてくる。 それでも退く事は出来ない。 アルベルトは槍から剣に持ち替え、愛騎竜が体当たりしている黒竜とは別の黒竜に飛び移り、敵兵に斬りかかり、仰け反ったところを蹴り落とした。 陣に戻ろうとする黒竜から飛び降りると、ジークムントがシルヴァンを駆って追いつき下で受け止める。 二人は互いの拳をぶつけ合い、アルベルトは横に飛んで来た自分の騎竜に飛び移った。 再び二人は騎竜ごと体当たりをし、互いの騎竜を行き来しながら敵兵を叩き落として回った。二人の息の合った連携には敵わないものの、他の竜騎士らも同様に乗り手を落としていった。 「何とか保ちそうです……」 地図上の駒を動かし、ラファエルは小姓が持って来た籠手を着けた。 「では、俺は予定通り関所へ向かいます」 物量で攻める北方軍に対し、自軍は交代要員が限られている。小隊ではあるがラファエルが率いる精鋭の騎竜隊が応援に向かう事になっていた。 予定してはいたが、当初より早い時間だ。 拮抗状態のまま、どこまで抑えられるか。 「援軍は来そうにありませんね」 ラファエルが苦笑して、期待はしておりませんが、と言った。 北方からの大規模な進軍の動き有り、と以前から王都へ援軍を要請していたが、返答は侵攻を確認しなければ出せないとの事だった。通常通り阻止せよ、と…。 城から王弟軍も動く気配がない。 援軍要請に対し、重要拠点である王の直轄地の守護の為には一兵たりとも動かせないとのつれないものだった。ローザリンデに想いを寄せている王弟らしくない。何をおいても駆けつけようとしそうなものだが。 国王と同じく、肝心の情報が届いていないのか……。 「元々国軍の援軍は期待しておらぬ。確実さの無いものを勘定に入れて策を立てるは愚行と言うもの」 ローザリンデは右翼の駒を進め、眼を開けてラファエルに向かって頷いた。 「当初の予定通り、昼まで何としても粘れ」 「御意」 頷き返し、ラファエルは足早に天幕を出た。 未だ、ユリウスらが砦に入ったと連絡が無いのが気になったが、頭を振って雑念を追い払った。今は北方軍との戦闘に集中しなくてはならない。 騎竜に乗ったラファエルは小隊を率いて関所に向かった。 体当たりを繰り返し、敵兵を落として回っていたジークムントは違和感を覚えていた。呆気なさ過ぎるのだ。 北方軍の黒竜は自分達の騎竜より一回りは大きい。牙も爪も鋭く、力も強い。それなのに、こちらの体当たりを無防備に受け続けていた。避けたり反撃しようともしない。 アルベルトも同様に感じていたのか、騎竜を並行させて視線を向けてきた。 胸の奥からもやもやしたものが喉元を刺激する。肌がピリピリと粟立ち、頭の毛が逆立つような寒気が背中を走る。 これは数多の戦場で経験した命の危機に対する警報だ。 待ち伏せであったり、横や背後からの突然の攻撃があった時に似ている感覚だ。 (どこだ? どこから来る……?!) アルベルトも周囲を警戒しながら攻撃の手は緩めない。 ふと、騎竜の動きが一瞬止まった。 (何だ?) 強力な磁力に引きつけられるようにジークムントが顔を向けた。視線の先には乗り手を失った黒竜が数回羽ばたいたと思うと、突如大きく震え出した。 「アルベルト! 様子がおかしいっ! 下がれっ!!」 ジークムントが蒼白になって叫んだ。 まさか、と思った。 黒竜から、どす黒い魔力が物凄い早さで膨れ上がるのが分かった。苦しさに頭を左右に大きく振り、黒竜が甲高い悲鳴を上げた。 「何だ…あれは……」 アルベルトが呻いた。 「アルっ! 見るなっ!!」 ジークムントが叫ぶと同時に黒竜の躰が突如膨れ上がり、弾け飛んだ。 頭が、手脚が吹き飛び、黒い血と内臓が広範囲に飛び散った。 心臓を無数の氷の針が刺した。 いや、針の先端が心臓に届く寸前にレオンの髪が逆立ち、躰の内側を直接攻撃してきたものを弾き飛ばした。 「今のは、何だ…?!」 訝しげに呟いたレオンの腕の中でブラッドが唐突に呻いた。蒼白になって胸を両手で押さえている。 「ブラッド!?」 顔を覗き込むと、血の気を失って頬を強張らせたブラッドの額から赤い光りが放たれた。 それは額に埋め込まれたレオンの鱗が、ブラッドの生命の危機に対し、防御が発動した瞬間だった。 「くっ……ふ……っ……」 一瞬、全身が凍りついたと思った。 心臓を氷の手が鷲掴み、握り潰されたと思った。その途端、強烈な光が額から心臓に流れ、氷の手を弾け飛ばした。 止めていた息を吐き出すと、驚くほど冷たく白かった。 脚から力が抜けて崩れ落ちそうになったブラッドは、躰を支えてくれるレオンの手にすがった。真冬の荒野に晒されたような寒さと、死を間近に感じ、ブラッドの躰はガタガタと震えた。 (レオンの鱗が無かったら、ぼくは間違いなく死んでいた……) 「大丈夫か、ブラッド?」 心配そうに訊ねるレオンに大丈夫だと笑おうとしたが、顔が強張って上手く表情を作れない。 「無理しなくていい」 レオンは力の抜けたブラッドの躰を左腕で軽々と抱き上げた。その腕の力強さに、先程の氷の手とは正反対の暖かさに包まれたのを感じ、ブラッドは涙が出そうになった。 危機は、未だ去っていない。 呪いの触手は彼らを確実に囲い込もうとしていた。

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