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第105話
左腕に抱えた細い躰が小刻みに震えていた。
レオンは腹の奥から、熱の塊が渦を巻いて沸き上がってくるのを自覚した。
愛しく、何より大事なブラッドの生命を止めようとし、更にレオンの許可無く内部に触れたのだ。汚濁に染まらぬ清らかな精神に呪いという穢れが侵入したのだ。
今すぐ竜身となり、呪いという穢れを撒き散らす竜らを鋭い爪で引き裂き、脚で踏みつけて塵にしてやりたい衝動を懸命に抑えた。呪いそのものは消せなくとも散り散りにする事は容易い。
だが、それはブラッドの望む解決ではない。
ブラッドの態度や言葉の端々から感じ取れるのは、呪詛を受けた者だけでなく、呪詛を行った者をも、いかにして救うかだ。自分が攻撃されても、呪詛を受けたとしてもブラッドは決して相手を責めないだろう。
その性質は、神殿で神官らによって育てられたからというより、生来のものなのだろう。
しかし、禁呪によって変貌した彼らを救う方法は無い。王族に連なる血筋のレオンでさえ知らない。
出来るのは、呪詛の塊となった彼らをなるべく細かく砕き、広範囲に散らす事で呪詛を薄める方法しかない。呪詛自体は残るが、塵程度に小さくする事で呪いの力は弱くなる。
それがどの程度の影響を人々や環境に及ぼすかは不明だ。だが、このまま放置しておく方が更に危険だ。
今なら、まだ、間に合う。
「グレアム、マキシム、俺があいつらを相手している間にブラッドと先生を連れて砦へ行ってくれ」
「レオン?!」
ブラッドがレオンを見上げた。
「このままでは、お前達を巻き込んでしまう」
その言葉で、レオンが竜身になるのを察したグレアムとマキシムは同時に頷いた。
「しかし、馬が怯えてしまって…」
ユリウスが手綱を引っ張ったが、馬は荒い息を吐くだけで動こうとしない。
「大丈夫だ」
レオンは馬の首に触れると清涼な気を流し込んだ。その途端、頑なに動こうとしなかった馬が大きく息を吐いて嘶いた。残りの馬にも同様に気を流し込む。
「直ぐに後から追いつく」
「レオン……」
離れたくないと思った。咄嗟にレオンの服を掴んだ指先が冷たくなり、胸の奥が鋭い爪で引き裂かれる様に痛んだ。
けれど、何の力も術も持たない自分はレオンの足手まといにしかならない。何も出来ない無力な子供の自分が悲しく、悔しかった。
ブラッドは強張る指から力を抜いてレオンの服から手を離した。
レオンがブラッドを馬に乗せると、その後ろにユリウスが跨がった。
「急ぎましょう。私達がいつまでもここにいると、レオンが何も出来ません」
転んだ時に乱れた前髪を掻き上げ、ユリウスはブラッドを促した。
「レオン、気をつけて…」
「御子は我々がお守り致します」
二人の乗った馬をグレアムとマキシムが挟んで走り出した。ユリウスの躰からブラッドが名残惜し気に頭を出して見ていたが、四人の姿は程なく森の中に吸い込まれた。
レオンは短い嘆息を吐くと、体内の魔力を解放して躰に纏った。それと同時に周囲に漂う魔力を躰に集める。
地面に突き立てていた剣を抜いて佐野に収めると、風がレオンを中心に吹き荒れ出し、森の木々を大きく揺らした。魔力は金粉を散らした様に煌めいて輝く蒼い鱗となり、鋭い爪が地を抉り、金色の力強い眼光の蒼竜が風の中心に現れた。
砦へ続く街道を駆け進んでいると、上空を飛ぶ竜の群れが梢の間から見えた。白い甲冑を身につけた騎士が竜の背に乗っていた。
「あれはラファエル…副団長の隊ですね」
北方軍かと思って不安げな表情で空を見上げていたブラッドにユリウスが微笑んだ。
「白地に銀の菩提樹の模様は、ラファエル隊の紋章です」
上空を飛ぶ騎竜の胸当てに彫られた、空へ伸びる菩提樹がユリウスには見えたようだ。内心の驚きを隠し、グレアムとマキシムが頷いた。
「関所の方向ですね。御子を砦へ送り届けたら、我々も向かいます」
「関所……」
「ええ」
二人は同時に頷いた。
「今回の侵攻を止める、要です」
関所を通る街道は石畳で整備された広い路で、王都を最終地として各領地に延びている。道幅は、交易などの荷物を大量に積んだ馬車や商隊が大勢通る事が可能な程広い。
石垣で高く積まれた壁と、分厚く固い木で鉄板を挟んで造られた門で護られているが、万が一にも突破されたら、大軍が真っ直ぐ王都へ雪崩れ込む事態になる。
「ぼくに構わないで、そちらに向かって下さい」
関所の護りに向かう方が、よほど大事ではないか……。
「大丈夫ですよ、御子」
グレアムがにっこり笑った。
口の端を上げて笑うマキシムと違い、そうすると少し幼く見える。
「関門は頑丈で、破城槌ごときでは破れません」
「でも、騎竜が来たら……」
「関所の分厚い石垣を積んで造られた壁も頑丈で、上空は許可の無い騎竜は飛べない様に結界が張られていますから」
マキシムが安心させるように口の端を上げて微笑んだ。
「以前、関所は森の王の古の結界から離れておりましたが、今は竜公女様より伝えられた竜人族の技である、守護の魔方陣が石垣の内部に組み込まれているので、無許可の騎竜は弾かれてしまうのですよ」
竜公女が当時の辺境伯に嫁いだ頃の領土は今より狭く、関所は含まれていなかった。その後、竜公女の孫に当たる当主が、辺境を悩ませていた大規模な盗賊団を潰滅させた功績として、関所を含む北方に面した広大な土地を領土として与えられたのだ。
「それに、ラファエルは強いですよ」
心なしか、得意げな口調でユリウスが言った。
「団長やレオンには敵わないかも知れませんが、剣と弓は他の追随を赦しません」
「信頼なさってるんですね」
ブラッドの言葉にユリウスは首を傾げた。
「信頼……でしょうか? ただ、私はラファエルが強いという事実を知っているだけです」
お互いの勉学の為に王都で生活していた頃、全くの無防備だった自分が無事に辺境に帰ってこれたのはラファエルがいたからだ。
当時の辺境伯は、高価な医学書や薬学書を必要なだけ躊躇なく購入出来るよう、ユリウスに多額の資金を渡していた。人を惹き付ける容姿に加え、大金を持っている。
甘い樹液に群がる虫のように、害意ある者が常にユリウスを狙っていた。その全てを排除し、心置きなく医学を勉強出来るようラファエルが護っていたのだ。
もっとも、それを知ったのは辺境に戻って何年も経ってからだったのたが……。
「橋が見えてきました。あの橋を渡れば砦は、もうすぐです」
マキシムが指を差した方向には、巨大な斧で地面を割った様な峡谷に吊り橋が掛けられてあった。橋は馬が二頭並んで渡れる程の幅があり、綱は何重にも編み込まれており、全速で駆け抜けてもびくともしなさそうだ。
来る時には通らなかった道だ。
ブラッドは僅かに首を傾げた。
「荷馬車が渡るには凹凸がありすぎるので、来る時は遠回りをしたのですよ。今は騎馬なので近道を利用したのです」
ブラッドの疑問にグレアムが答えた。
「この道は一般の者はあまり利用しません。我々のような騎士団か狩人くらいです」
森が切れ、眩しい陽射しに全員が一瞬眼を細めた。瞼を瞬き、明るさに眼を慣らすと、吊り橋の向こうに鎧兜で武装をした騎馬隊が並んでいた。
グレアムとマキシムは剣の柄に手を当てたまま馬の速度を落とした。振り返ってユリウスに止まるよう指示をし、二人はゆっくりと騎馬隊に向かって進んだ。
「その紋章は隣領のジーモン・バルデン子爵とお見受け致しますが」
グレアムの問いに、少々恰幅の良い、銀色の甲冑に白の外套を靡かせた五十前後の男性が鷹揚に頷いた。
「いかにも私はジーモン・バルデン子爵だ。此度は辺境伯の難儀に援軍をと思い、馳せ参じたのだ」
「それはありがたい事です。しかしこの道は子爵様の部隊が通るには幅が狭く、隊列が細長くなり危険です。街道を回られた方がよいのでは?」
前線へ向かうには遠回りになる。街道沿いを進んだ方が騎馬で駆けられるし早い。
「成る程、左様であるな。辺境へはあまり来ぬゆえ、土地勘がない。お主らが案内せよ」
「常であれば喜んで案内致しますが、今は辺境伯の指示で砦へ急がねばならないのです」
「来た道を引き返し、街道を北へ向かわれますと関所があります。先程、副団長が向かいました。子爵様には、是非、最も重要な関所の防衛の援助をお願い致します」
グレアムとマキシムは同時に頭を下げた。
「ふむふむ。関所の防衛は確かに最重要であるな。今は副団長の部隊だけがおるのか」
「はい。何分、人手が足りません」
「どうか、お手をお貸し下さい」
頭を下げたままの二人に、バルデンは両脇に護衛の騎士を従え、鷹揚に頷きながら近づいた。
「私も内戦では陛下の為にと、拙いながらも剣を振るったものだ。剛の者とは言えぬが、援軍は私だけでない。後から私が懇意にしてある領主らが駆けつける手筈になっておる、安心せよ」
「それは心強きものです」
バルデンは、うんうんと頷いて後ろを見た。
「だから、安心して死ぬるよい」
バルデンの言葉と同時に両脇の護衛が剣を抜き、グレアムとマキシムを刺した。
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