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第107話
黒竜が突如膨れ上がり、弾け散った。
悲鳴も無かった。
使い古した皮袋に限界以上の水を入れた時の様に腹がひび割れ、手足が千切れ、内臓が飛び散った。
赤い筈の内臓は外見と同じく真っ黒だった。
黒い煙を纏い、鼻を突く異臭とともにジークムント目掛けて飛んで来るのを見て、アルベルトは本能的に悟った。
(あれは、駄目だ)
アルベルトは咄嗟に騎竜の手綱を引いてジークムントの前に出た。
(ジークには触れさせては駄目だ!)
騎竜の上でアルベルトはジークムントを庇うように両腕を広げ、飛び散る黒竜の血と内臓を浴びた。
間に合った、と安堵した途端、躰から全ての力が抜けた。躰を数人がかりで押さえつけられた様に重くなり、両膝をつきそうになったが、何とか踏ん張った。血を浴びた騎竜も同じだったのか、羽ばたきが弱まり、がくんと墜落しそうになった。それを息も荒く持ち堪えてくれている。
「アルベルトッ! バカ野郎っ! 何やってんだ!!」
ジークムントへ大丈夫だと言って振り向こうとしたが、躰が強張って動かせない。
「アルッ?!」
黒竜の内臓は弾けるまで生きていたとは思えない程、冷たかった。真冬の滝に打たれた様に躰が芯から凍え、がくがくと震えだした。
吐く息まで白い。
何度も名前を呼んだアルベルトが漸く顔を上げてジークムントを見た。顔からは血の気が無くなり、震える唇は紫だった。
まるで凍死寸前のアルベルトの様子に、ジークムントは愕然とした。
慌てて騎竜を乗り移ろうとしたジークムントを片手を上げてアルベルトは制した。丸太でも括り付けられているかのように自分の腕が重い事に衝撃を受けたが、何とか顔には出さなかった。
「かま、か…構う、な…」
歯の根が合わない程、凍えて上手く喋られないが、何とか言葉が出た。
「指揮を……と、れ」
「けど……っ!」
頭を振り、アルベルトはガチガチと音を立てる歯を食い縛ってジークムントを睨んだ。
指揮官が情けない顔をするな
お前がそんな顔をしたら士気が下がる
周りを見ると、黒竜があちこちで弾け散っていた。更に、黒竜の残骸が落ちた森では、しゅうしゅうと黒い煙を上げて木々が朽ちていく。樹齢が何十年もある太い幹の木々が、黒竜の残骸を浴びて瞬く間に腐食して朽ちて崩れていくのだ。
そこを北方軍の歩兵が斧で脆くなった木々を伐り倒していた。歩兵の後ろには騎馬隊が待機している。
「くそっ!」
アルベルトの他にも弾けた黒竜の残骸を浴びた者がいた。皆、一様に凍えたように躰を震わせ、騎竜の上で崩れ落ちていた。
「アルッ! 動けるか?!」
弱々しくだが、アルベルトは頷いた。
「黒竜の血を浴びた者は後方へ退避! 血を河で洗い流せっ。残りは態勢を立て直す!」
アルベルトは声を出す代わりに、何とか腕を大きく振り、血を浴びた者を纏めて後方へと率いて行った。
それが大変な労力を必要とする事をジークムントはアルベルトの顔色で悟っていた。それでもアルベルトはジークムントの手助けを良しとしない事は分かっていた。
振り向いて、安全な場所に着くまで見送りたかった。胸の奥を無数の刃で刺され続けているように痛んだ。
だが、ジークムントはアルベルトへの想いを鉛を飲み込むように力任せに抑え込み、剣を抜いて掲げて叫んだ。
「これ以上我らの森を穢させるな!! 弾ける前に竜の首を落とせっ!!」
「おおーーーっ!!」
グリューンの眼を通して視ていたローザリンデは床几を倒して勢い良く立ち上がった。
「本陣、出撃っ!!」
ローザリンデの号令と共に中央が動いた。
グリューンが舞い降り、ローザリンデを乗せると力強く羽ばたいて空へと戻った。
「何とまぁえげつない遣り口よな?」
ローザリンデの問いにグリューンが心話で応えた。
(穢れを撒き散らすなど赦せません)
およそ戦略戦術からはほど遠い、呪術師頼りと力任せの侵攻にローザリンデは呆れていた。命を何だと思っているのか。
国内は内戦から立ち直りつつはあったが、未だ外敵に対して甘い考えの貴族が国政で幅を利かせていた。
『大国である我が国に侵攻しようとする愚かな国は無い』
混迷が続いていた内戦時代、他国からの干渉を外交力のみで跳ね返していたと信じているのだ。
内戦で国内の軍事力は急速に弱まり、周辺国が万一にも手を結んで侵攻してきたら国は一溜りも無かったろう。それを国境を領地とする各領主が、文字通り命をかけて守っていたからこそ国が存続出来たのだ。
しかし、その古い考えの貴族が国の中枢に未だ蜘蛛の巣を張り居座っている。本来ではあれば風通しを良くし、新たな国王とともに国の発展をと意気込む若い人材の登用を進める事を拒み続けているのだ。
「膿を出し切る為とはいえ、我らの出血の量が多すぎやしないか?」
自ら先頭に立ち、ローザリンデは大剣を振るって黒竜の首を一刀両断した。
首を落とされた黒竜は弾け散る事なく落ちていく。しかし、流れ出る黒い血が穢れを撒き散らす。
それでも広範囲に穢れを撒き散らされるよりはマシなのだと、ローザリンデは自分に言い聞かせた。
苦い想いは竜騎士だけでなく、北方軍の歩兵へ躍りかかった騎馬隊も同じだった。
辺境領の全ての森が結界で護られていた訳ではない。功績に依って新たに領地となった森には結界の加護は無かった。
生命に満ち満ちた、緑溢れる美しい森を山賊や密猟、他国からの干渉から護り抜いた自尊心が彼らの力となっていた。
森を、辺境領を護る為、ローザリンデの指揮の下、彼は命を懸けて奮闘した。
(ここで北方軍を食い止めねば、何の為に血を流しているのか)
見上げた太陽は中天から傾きかけていた。
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