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第108話

突進して来る黒い異形の竜の腹をレオンは鋭い爪の一閃で斬り裂いた。痛みに頭を振りながら異形の竜は長い腕をレオンの首に伸ばした。 (哀れな) 当初、レオンの心は、異形と化する前に彼らがブラッドにした行為に対しての強い怒りが占めていた。だが、禁術により異形となった彼らの剥き出しの感情に触れ、憐憫を覚えた。 他者を呪うという行為は己の魂を貶め、自ら輪廻の輪から外れ、神の庭へも往けず、永遠に音も光も届かない闇の中を彷徨い続ける事となるのだ。 例え、それが唆されたものだとしても、自分が為した事の責任は取らなくてはならない。 だから、無知は言い訳にも免罪符にもならないのだ。 レオンは首に絡みついた腕を掴んで離し、異形の竜を高々と振り上げて、勢いのまま地面に叩きつけた。頭から落とされた竜は白眼を剥いて動かなくなった。 投げ出された黒竜の腕を踏みつけると、千切れた部分が黒い塵となった。倒れたままの異形の竜の頭をレオンは片手で掴んで潰した。 群れる黒い異形の生き物を爪で斬り裂こうと腕を振り上げた時、突如、地面から木の蔓が勢い良く何本も現れた。蔓は蛇の様にうねりながら異形の生き物達に絡みついていった。 身動ぎ、逃れようとする者には、更に蔓が次々と土煙を上げて現れ、幾重にも絡みついて地面に張り付けた。異形を拘束している蔓からは、濃密で清涼な魔力が溢れていた。 (この魔力は……) レオンは振り上げていた腕を静かに下ろした。 爽やかな風が吹き、瞬き一つの間にレオンの前に長身の青年が立っていた。 深い沼よりも濃い緑の艶やかな髪を地面まで足らし、新緑の長衣に身を包んでいた。手足が長く、明らかに人間でない気配だ。 しかも、竜身のレオンの胸まで身長がある。 青年は眼を閉じ、滑らかで優雅な動きで胸に手を当ててレオンに礼をした。 レオンは黙したまま青年の言葉を待った。 『竜公子に願い奉る』 青年は顔を上げて無言のレオンに言葉を続けた。 『我が森を荒らす穢れを一掃して頂きたく参じました』 レオンを見つめる青年の瞳はブラッドに似た翠緑色だった。 レオンは応えず、青年を見つめ返した。 『でなくば、“白の御方”のお力をお借りしたく…』 その言葉に、レオンは牙を剥いて眼光を鋭くした。 『軽々しくその名を口するな!』 互いに直接頭に声を響かせての会話だ。雷鳴の如くのレオンの声と威圧に、通常の者であれば意識を保てずその場に昏倒している。 だが、青年にはそよ風が頬を撫でた程度だ。 『緑の御方、いや、緑の精霊王。俺に何を要求したか解っているのだな?!』 青年……緑の精霊王は口の端に笑みを浮かべた。 『竜の方々が人界より仙境へと去り、長い年月が過ぎた』 『……』 『したが、人界に自ら来られた方もおられる』 辺境領の昔語りをするつもりなのか。レオンは眼を細めて精霊王を見た。 『その昔、吾の母は竜公女の好意により命を救われた』 その礼として辺境領の森を外敵から護る結界を張ったのは有名な話だ。 『我らはこの森を永らく護り続けた。先日、その期限を迎えたが、早々に穢れに蹂躙されるとは思わなんだ』 緑の精霊王の口調には、堪えきれぬ悔しさと苦々しさが滲み出ていた。 『我らの手より離れ、人の子の手に渡った途端これでは竜公女も浮かばれまい』 『何が言いたい』 『人の手が加えられ禍々しきものとなったとはいえ、竜は其方の眷族であろう』 『だから?』 『竜公子、其方には眷族に対しての責任を果たして頂きたい。今、この辺境領にいる竜人族は其方と“白の御方”のみ。であれば、眷族の不始末は其方と“白の御方”が責任を取るのが筋というもの』 レオンの瞳が黄金から怒りの赤に染まりつつあった。竜の怒りは全てを巻き込み滅ぼす災害級だ。それを知ってか知らずか精霊王は言葉を続けた。 『竜公女の生家はリリエンタール公爵家であったな。当然、現当主の其方は存じておろう? 更に竜皇帝の血筋である其方は責務を果たさねばならぬ身』 『俺はっ…!』 一代限りの当主としてリリエンタール公爵家を継ぎはしたが、レオンには当主としての自覚は無かった。押しつけられたとしか思っていなかったからだ。そして、捨てられた場所としか認識していなかった。 皇族の系譜から外され、親の温もりも愛情も知らずに育った。成人前でも当主であるレオンは、出席しなければならない行事や儀式で登城する度に、周囲からの冷やかな視線が方々から突き刺さっていた。寒々しく無機質な日々。 しがらみを捨てて人界に来たのだ。 それが、今更、血と家名が重しとして伸し掛かるのか。 『其方の境遇は様々な所から聞き及んでおる。同情はしよう。したが、其方の躰には確かに竜帝の血が流れておる。高貴な血を厭うとも、事実は変えられぬ』 緑の精霊王は笑みを消し、厳しい口調で続けた。 『その血筋による特権を其方は確かに享受した。今更捨てたとは言わさぬ。竜公子、其方は不本意であろうとなかろうと、望んでおらぬと叫ぼうとも、流れる血とリリエンタール公爵家の当主としての責務を果たさねばならぬと知るがよい』 人界、精霊界で頂点に立つ竜人族の中で、更に高位の竜皇帝を父に持つレオンだが、緑の精霊王は遥かに長く生きてきた超えられない経験値があった。力だけは上だが、生まれて百年に満たないレオンが太刀打ち出来る相手ではない。 『……俺に出来るのは斬り裂く事だけだ。呪いを消す事は出来ない』 『“白の御方”は』 『無理だ』 『しかし…』 『目醒めたばかりの“あれ”には力が無い。あなたが望んでおられる事は出来ん。俺が何とかする。“あれ”には触れてくれるな。頼む』 レオンは青金色の頭を深く下げた。 自尊心が高く、滅多に頭を下げる事のない竜人族の、それも皇族に連なるレオンの行為に緑の精霊王は瞠目した。 『……良いでしょう。無効化した黒竜を一つ所に纏めて下さい』 『緑の精霊王…』 『吾が封印しましょう』 レオンはもう一度頭を下げ、翼を広げると瞬く間に空高く舞い上がった。 戦場へと飛び去る青金色の竜を見送り、緑の精霊王は先ほどとは全く違った優しい微笑みを浮かべた。まるで、息子を叱咤した後の父親のような。 (若き当主殿は享楽に溺れ、全てを投げ出して退廃的な生活を送っていたと聞いておったが……) 更に、公爵家当主としての義務を放り出し、家から財宝を持ち出して仙境から出奔したとも。 だが、眷族の精霊に調べさせたところ、宝を持ち出したというは誇張された噂で、何かを捜索する為に人界を訪れたらしい、と。 (それが、大事に囲い込んでいる御方か……) 母の恩人である竜公女の実家の家名が途絶えて久しかった。その家を一代限りだが幼い竜公子が継いだと風が知らせてきた。 実は、緑の精霊は一度仙境を訪れ、遠くからレオンの様子を見に行った事があった。 青年期に入りたてのレオンの瞳は淀んでいた。享楽に溺れてはいたが、頑強な竜の躰は麻薬や酒に耐性があり、たいして楽しそうではなかった。 だが今のレオンの瞳は生気が溢れ、眼光は鋭く強かった。 (やっと生きる意味を知ったらしい) 緑の精霊王は風に躰を乗せ、レオンの後を追った。

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