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第110話
「……ル…さん…! アルさん! アルベルトさん!!」
誰かが自分を呼んでいる。しかし、その声は耳が水の膜に覆われているようにくぐもっていて聴こえ辛い。
頭を金槌で叩かれ続けているような激痛で吐き気がする。おまけに防寒具も無しに吹雪の中に放り出されたように寒い。
更に鼓膜を圧迫する耳鳴りが頭の中に響いてうるさい。
「アルベルトさんっ」
必死に自分を呼ぶ声に応えたかった。
だが、耳鳴りがうるさいのと激しい頭痛が思考を手放させる。
「アルベルト、意識を保って下さい! 昏睡状態に陥ってしまいます」
自分の名を呼ぶ声が二つになった。最初の声より低く年嵩のようだ。
重い瞼を何とか開けて声の方を見る。自分では眼を見開いたつもりだったが、実際はうっすらとしか開いてないようだった。
ぼやける視界の焦点が漸く合ってきた。
「アルさんっ。アルさん、しっかりしてっ」
泣きそうな顔のブラッドがいた。
「アルベルト、私達の声が聴こえていますか?」
「は…い……」
ここは何処だ。
躰が動かない。
自分は一体どうしたんだろう……。
「アルベルトさんは具合が悪いんです。縄をほどいて手当てをさせて下さい」
ブラッドは背後を振り返って誰かに訴えた。
「辺境兵は狡猾で油断がならない。具合が悪いふりかもしれない。さぁ、愛し子殿はこちらへ来ていただこうか」
尊大な態度の男がブラッドの細い腕を掴み、乱暴に立たせた。無理な姿勢からの動作にブラッドが苦痛に顔を歪めた。
捻上げるように引っ張られ、脱臼寸前の激痛に意識が飛びそうになったが、ブラッドは何とか悲鳴を飲み込んで堪えた。しかし、男の手を振りほどこうにも痛みで力が入らない。
「乱暴は止めて下さいっ」
ユリウスがブラッドを掴んでいる男の手を剥ぎ取り、背中で庇った。
不快に歪ませた男の顔にアルベルトは見覚えがあった。
(バルデン子爵? どうして、彼がここにいるんだ?)
彼は辺境領の隣の領主だ。
普段は王都におり、滅多に自領へ戻る事がなく、ましてや辺境領へ来るなど数年前の合同演習以来だ。
装飾を施した銀の鎧を身を包み、緋色の鞘の剣を下げていたが、そもそも彼が戦場にいた姿を見た事がない。
意識がはっきりしてくると、自分が両手脚を縄で縛られ、床に転がされている事に気づいた。まだ、吐き気を伴う頭痛が続いていて頭を動かせず、眼だけで周囲を見回してみた。
さして広くもない室内には、複数人用の机に椅子が複数。火の気が無い暖炉。壁に並んで掛けられた王国と辺境領の紋章が縫い取られた壁掛け。
関所に設置された詰所だと分かった。
(関所には副団長が向かっていた筈だが…?)
ラファエルの姿どころか、彼の部隊の騎士が見当たらない。
自分はジークムントを庇って呪詛の穢れを躰に受けて、同じ状態の部下を引き連れて近くの小川で血を洗い流していた筈だった。
普段は何の意識もしない胸当てや籠手が重く感じられ、全て外して川の水で汚れを落とした。躰が冷え過ぎており、小川の水がぬるま湯に感じられて心地好かった。
部下らも同じだったようで、肩まで水に浸かっている者もいた。
だが、躰が思うように動かない状態では危険だ。川に流されかねない。
アルベルトは互いに注意し合い、騎竜にへばりついた穢れも洗い流すよう指示を出した。
清涼な流れに清められ、漸く人心地がついた時だった。
突如、大きな投網がいくつも覆い被さってきたのだ。投網はアルベルト達だけでなく騎竜の首や翼に絡みつき、身動きが取れなくなった。
投網を斬ろうにも鎧だけでなく、迂闊にも剣も重くて外してしまっていた。
何とか絡みつく投網から逃れようともがくアルベルトの後頭部を衝撃が襲った。
(……そうだ…。意識を失う時、濃紺の外套を見たような気がする……)
アルベルトは穢れによるものとは違う底冷えを感じた。
(濃紺の外套は王弟殿下と、その親衛隊だけの色の筈だ。まさか、王弟殿下がブラッドを……竜の愛し子を手に入れようと……? 何故だ?!)
王族は竜騎士にはなれない。
それは、先の内戦で王族が所有する騎竜の数で優劣が決した事に由来する。
王位継承権を巡る争いの元は、どのくらいの数の騎竜を所有するという些細な事が発端だったと聞く。
竜騎士と騎竜の所有数が王族内の力の均衡を崩してしまったのだ。兵力のより多く所有する者が国王となるべきだ、と。
内戦を終了させて即位した国王は、多くの血が流れるに至った原因の一つであった王族の騎竜の所有を自ら禁じた。再び力の均衡が崩れ、内戦を起こさせない為だ。そして、竜騎士団を所有する家へは忠誠心を求めた。
ただ、国王の弟殿下は竜騎士なる事に未だ固執していると聞いた事がある。
王の直轄地である港の城では、国内でも有数の騎竜数を保持していた。しかし、それは城代のオイレンブルク侯爵と辺境領の騎竜であり、王の所有ではない。
また、国王は古の契約を甦らせ、王族と竜が絆を結ぶ事を呪術によって封じたとも聞いている。ジークムントが、兄であるオイレンブルク侯爵からの情報だから間違いないと言っていたのを思い出した。
(いや、少ない情報で結論を出しては駄目だ)
アルベルトは歯を食い縛ってバルデン子爵を睨んだ。
それに気づいたバルデン子爵は、汚物でも見るような眼差しをアルベルトに向けた。
「全く……、あの方の指図でなければ、このような下賎な者を私の視界に入れたくはなかったが仕方ない」
「…そいつは、気の毒に。俺のせいではないけどな」
小馬鹿にした口調でアルベルトが言った。声が少し掠れていたが、何とか普段通りに喋れた事に内心安堵した。
「アルベルトさんっ」
「アルベルト、意識ははっきりしていますか? 私達が見えていますか?」
アルベルトに近寄ろうとするユリウスをバルデン子爵の部下らしい兵士が取り押さえた。
「は、離して下さいっ。手当てをしなくては……酷い顔色です。どこか痛む所はありますか?!」
「頭痛と吐き気……。頭痛は…もしかしたら頭を殴られたからかもしれないけれど」
アルベルトは努めて明るい口調で症状を言った。
「ところでバルデン子爵。何故、あなたがここにいるのですか? 他領への兵の移動の許可は取られているのですか?」
敢えて誰からとは言わずにアルベルトは訊いた。
私的に兵を自領から出させるなど、政治の中枢部に伝がないと出来ない。簡単に言うとは思わないが、その伝が『誰』なのかアルベルトは知る必要があった。
どこからどこまでが黒い繋がりなのか喋らせなくては、今後の辺境の在り方が問われる。
古の血の盟約による結界が無くなったのだから……。
ブラッドは、死人のような顔色のアルベルトの側にすぐにでも駆け寄りたかった。だが、今はアルベルトの邪魔をしてはいけないような気がしてその場に止まった。
相手の表に出さない表情と言葉や口調でその場の空気を瞬時にして読み、自分がどう行動するのが正しいかを瞬時に悟る。本人は意識していないが、それはブラッドの美徳の一つだった。
普段は研究狂いで自分の好奇心の赴くまま暴走するユリウスは、長年の付き合いであるラファエルから散々拳骨と共に言い聞かされてきたので、アルベルトの意図はすぐに理解した。
(喋ってもいい時と悪い時の区別くらい、私だってつくんです。……ここはアルベルトの戦いの場です。余計な口は挟みません。あとでラファエルに自慢しましょう。でも、あの顔色は相当苦しい筈です。早く楽な姿勢にだけでもしなくては……)
心の中で呟いたつもりだった言葉は、しっかりとブラッドには聴こえていた。
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