111 / 156

第111話

バルデン子爵はただの小物だ。 アルベルトは早々に結論づけた。 後ろだての権力を自分の力と思い込んで居丈高な態度で振る舞う。しかも自分では何も考えていない…否、考えられない性質だ。 しかし、後ろにいる人物の推測は出来た。 王弟ではない。 王弟が辺境伯であるローザリンデに執着しているのは有名な話だ。 公にはなっていないが、ローザリンデが辺境伯を継いだ直後、国王から王弟を入婿にどうかと婚姻を打診してきたのを断った事があった。 その頃のアルベルトは騎士見習いで、同じく見習いだったジークムントから詳細を聞いて胸がすいたのを覚えていた。身分と血筋に固執した人となりをジークムントから聞かされていたからだ。 先ずは見合いをと使者が来たが、ローザリンデは国境から動けないと言って断った。そうしたら、今度は王弟が供をぞろぞろ連れて辺境領にやって来た。 畏れ多くも国王の要請を断った痴れ者を自ら懲らしめてくれる、と息巻いて。 ところがローザリンデの美しさに一目惚れした王弟は態度を一変した。ローザリンデに跪いて結婚を申し込んだのだ。 もっとも、王弟は貴族位ではないアルベルトらには路傍の石でも見るような態度を崩さなかったが。 それでもローザリンデへの求婚は本気らしく、愛の言葉を綴った分厚い手紙が今も定期的に届けられている。 その王弟が辺境領を陥れようとするとは考えられない。だが、彼の取り巻きはどうかと考えると心当たりがありすぎた。 貴族ではないアルベルトだが、侯爵位である兄を持ったジークムントからは色々と教えられていたからだ。 辺境を取り巻く隣地の領主らの思惑と勢力図。 平民出身だが竜騎士は辺境伯について王都へ行く機会も多い。その時につまらない挑発に乗って主の足を引っ張る訳にはいかないからだ。 王弟の取り巻き……親衛隊は高位の貴族の子息らからなる騎士団だ。家の勢力と自分の未来を優位にするために画策する人物がいないとも限らない。 その中でも特にジークムントが危険視している人物がいた。 だが、こちらから、その人物の名前を出すのは愚策だ。何としてもバルデン子爵の口から聞かねばならない。 アルベルトは相手に分からないように息を吐いた。 躰の内側から溢れる凍るような寒気は治まらないし、頭痛は酷くなる一方だ。背中を流れる冷や汗が体力を削り取る。更に思考も散漫になりがちだ。 それよりも、とアルベルトはそっと視線をブラッドに向けた。 (何で俺だけがここに連れて来られたんだ? それに、どうして関所にブラッドとユリウス先生がいるんだ? 二人は砦に戻った筈なのに。護衛のグレアムとマキシムはどうしたんだ?) 時間が経つにつれ、どんどん顔色の悪くなるアルベルトに駆け寄りたいのをブラッドは必死に堪えた。 初めて会った時、アルベルトは背中に剣で斬られた大きな傷を負っていた。その時も大量出血による貧血と激痛で顔色は死人のように青白かった。 だが、今はそれよりも白い。 生気が抜けてしまっているようだ。 (アルベルトさん……) 握った拳を震わせていると、それにそっと温かな手が重ねられた。 「ユリウス先生……」 「大丈夫ですよ。見た感じ、大きな怪我は無さそうです。それに彼は騎士です。日々鍛えていますからね。私達よりずっと躰は丈夫で体力があります」 ブラッドの髪を優しく撫で、ユリウスは安心させるように微笑んだ。 「何を勝手に話をしているのだ!」 バルデン子爵が苛立たしげに足を踏み鳴らし、ブラッドとユリウスに向き直った。 「そろそろ彼を治療しても良いでしょうか?」 怒声に躰を震わせたブラッドを庇うように前に出たユリウスはにっこり笑った。度々砦に出入りしたり、戦に従軍した事のあるユリウスには多少の怒鳴り声など小鳥の囀ずりだ。 「それとも、まだ彼とお話が?」 「ふん。下賎な者を治療しようなどと物好きな。だが、今だけは赦しましょう。あなたは私の医師なのですからな、あまり汚れに触らんようにして頂きたい。私まで汚れてしまうのでな。ああ、縄は解かないように」 ユリウスは首を傾げただけで返事はしなかった。 (私はあなたの医師になるなどと返事をした覚えがありません) 貴族らしからぬ粗暴な仕草と足音を立ててバルデン子爵は従者を一人残し、他を引き連れて詰所を出た。 戸が閉まると同時にブラッドはアルベルトに駆け寄った。 「アルさん!!」 アルベルトの頬に手を当てると、ゾッとする程冷たかった。真冬の吹雪に長時間晒されたようだ。 「何があったのですか、アルベルト。大きな怪我は無いようですが」 バルデン子爵の従者がいるため縄を解く事は出来ないが、ブラッドはアルベルトが楽になれるように壁に凭れさせた。額の冷たい汗を手巾で拭い、頬と同じく冷えている躰を少しでも温めようと擦った。 ブラッドの気遣いが嬉しかった。 じんわりとだが、氷の塊を飲み込んだように冷えていた躰が温かくなってきたように思えた。嘆息を吐いてアルベルトは詰所に連れてこられた経緯を話した。 部下がどうなったのか気になったが、先ずは自分が動けるようにならなければと思った。 「湯を沸かして薬を煎じたいのですが」 ユリウスの言葉に従者は無言だった。無言を肯定と捉え、ユリウスは暖炉に火を起こす準備を始めた。 「アルさん、起きているのが辛いようでしたら、ぼくの膝に頭を乗せて横になりますか?」 「……いや、大丈夫だよ。ブラッドのお陰で大分躰が温まってきたよ。それに、ブラッドに膝枕してもらったなんて、レオンに知れたら殺されるよ」 「そんなこと無いよ。レオンは優しいから」 くすりと笑ったブラッドに、アルベルトは心で答えた。 (優しいのはブラッドにだけなんだけどね) それにしても、とアルベルトは冷えた手を両手で擦っているブラッドを見つめた。アルベルトの視線に気がつかないブラッドは手だけでなく、脚も擦った。冷えて強張っていた躰が温まって解れていく。 (不思議だ……。ブラッドの手が触れると厭な冷えが消えていく) 重苦しく吐き気を伴う冷えと強張りが、春の陽気で氷が溶けるように消えていくのだ。ブラッドの掌から溢れ出た、暖かな白い光りのようなものが躰を巡っていくのが心地好い。 思わず眠ってしまいそうになり、アルベルトは頭を振って眠気を払った。 「アルさん?」 「あ、ああ。大丈夫だよ。何でもない。ブラッドの手が気持ちよくて眠っちゃいそうだよ」 「疲れているんですよ。本当は、もっと楽な姿勢にしてあげたいんだけど……」 ブラッドは悲しそうに眼を伏せた。 そこへ薬草を煎じた茶を木の杯をユリウスが持って来た。 「これは躰の疲れや怠さを緩和させる薬草茶です」 縛られたままで自力で飲めないアルベルトにユリウスが木の匙で飲ませた。簡易的に濃く煮出したとろみのある薬草茶はえぐみが強かったが、アルベルトは文句を言わずに差し出されるまま飲んだ。 その間もブラッドはアルベルトの躰を擦り続けた。少しでも躰に体温が戻るように祈りながら。 大きめの杯いっぱいに入った薬草茶を飲み終え、ほっとひと息つい時、唐突に戸が乱暴に開けられた。 兵士が数人がかりで意識の無いグレアムとマキシムを抱えて入って来た。彼らは無言のまま二人を床に放り投げた。 「なっ……!」 「グレアムさんっ! マキシムさんっ!」 ブラッドとユリウスは、ぐったりとしたまま動かない二人の側に寄った。ユリウスが手当てをしたとはいえ、腹を剣で刺されたのだ。再び出血しかねない乱暴な扱いにユリウスが兵士を睨んだ。 「怪我人に何て事をするんですか!」 兵士は無表情のまま、今度はブラッドの腕を掴んで強引に立たせた。 「なっ、何を……」 二人から引き剥がされ、ブラッドは戸惑った表情でユリウスとアルベルトを見た。 「ブラッド!」 「ブラッドに乱暴するな!」 縛られて動けないアルベルトとユリウスに剣を突きつけ、兵士はブラッドを担いで詰所を出た。 「ブラッド!!」 追いかけようと立ち上がったユリウスに残っていた従者が剣を突きつけた。 「先生っ」 「何を……」 従者は無言でユリウスに剣を突きつけたまま外に出るよう促した。

ともだちにシェアしよう!