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第112話

勢いよく放り出されたブラッドは、受け身を取る間もなく地面に叩きつけられ転がった。 「ブラッド!」 拘束されていた手を振りほどき、ユリウスはブラッドに駆け寄った。体重の軽さが幸いしたのか打ち身は思っていたより軽かったが、頬や掌に擦り傷があり血が滲んでいた。 「何て酷い。痛いでしょうに……」 乱れた髪を整えて頬についた砂を払うユリウスに、ブラッドは大丈夫だと微笑んだ。ユリウスには言えなかったが、城で働き出してから少々の暴力は日常茶飯事だった。 暴力に慣れた訳ではないが、痛みを痛みとして考えないようにしていたせいか、少し鈍くなってしまっていたようだ。 「竜の愛し子殿にお願いがあるのだが」 頭上から声がした。 見上げると、妙に愛想の良い顔をしたバルデン子爵が立っていた。詰所での、眉をひそめて汚物でも見るような蔑んだ表情と違っており、ブラッドは知らず背筋が震えた。 自分に暴力を振るった相手だろうと、これまで人に対して不快感を覚えた事は無かった。 だが、今、心の奥から湧き出してくる仄暗いものは何なのか…。嫌悪感という始めての感情に戸惑い、ブラッドは無意識にユリウスの服を握っていた。 「君は竜にとって特別な人間なのだそうだな?」 上機嫌な笑顔に得体の知れない怖さを感じたのも初めてだ。 神殿を出てから様々な業種の、色々な人々に出会った。優しい人、仕事に厳しい人、神殿育ちを蔑む者もいた。騙そうとしたり、暴力で従わせようとした者もいた。 けれど、誠実に仕事に取り組んでいると何処からか助けの手が差し出された。危機を救ってくれる手があった。 満面の笑顔でなくても、仏頂面でも内面の優しさや思い遣りが滲み出ていた。 それが子爵の笑顔からは感じられない。 「…あの、ぼくは…特別ではありません。何か勘違いをなされているのでは…」 ないでしょうか、と続けようとしたブラッドの頬に衝撃が走った。ユリウスに抱えられてなければ吹っ飛んでいただろう。 熱く腫れ上がった頬を押さえ、ブラッドは茫然とバルデンを見た。 先程までの愛想の良い笑みは消え、路傍の石でも見るような眼がブラッドを見下ろしていた。 「愛し子だからと優しくしておればつけあがりおって、お前のような下賎な者は大人しく従っておれば良いのだ」 バルデンが合図をすると後ろに控えていた兵士がブラッドの髪を掴んで引き立たせた。 「ブラッド!」 「先生も大人しくしておった方が身のためですぞ」 髪を掴まれ、悲鳴を上げる事も出来ずに引き摺られるラッドの眼に、投網に覆われた騎竜らが飛び込んできた。翼や手脚に投網が絡まっており、身動きが取れていない。更にぐったりと首を垂れ、力無く地面に横たわっているようにも見える。 「ひ、酷い…」 自分の痛みを忘れて、ブラッドは振り返ってバルデンを見た。 「この竜どもに命令して貰おうか」 「命令?」 「私の指示に従うように竜どもに命令するのだ。何でも、竜騎士になるには竜と絆とやらを結ばねばならんらしいが、こやつらは私の言うことをきかんのだ。獣のくせに生意気な事にな」 竜騎士と騎竜は互いに命を預け合う存在だ。 竜騎士としての資質と、何より騎竜との相性が合わなければならない。それは一長一短に築けるものではない。しかも、 心と心の結びつきは命令されて成立するものでもない。 ジークムントやアルベルトの竜への接し方を見れば、短い間の付き合いしかないブラッドでさえ分かる。 「そ、そんな事、ぼくには出来ません…」 「私に逆らうな!」 怒りのまま剣を抜き、バルデンはブラッドのこめかみを柄で殴った。小柄なブラッドは踏ん張り切れずに吹っ飛んだ。 その様子に、ぐったりしていた騎竜らが悲鳴のような声を上げてもがいた。 「ほう……、やはり竜の愛し子というのは本当らしいな。小僧、お前を痛めつけた方が竜どもも言うことをきくかもしれん」 「…竜を…、解放してください……」 「平民風情が私に意見するか」 剣の柄で打たれたこめかみの皮膚が裂け、血が溢れ出て意識が遠のきそうになった。それでも何とか立ち上がり、ブラッドは訴えた。 「竜達は弱っています。手当てをしてあげないと……」 「私に意見するなと言っただろうがっ!」 再び剣を振り上げ打擲しようとしたバルデンから、ユリウスはブラッドを庇うように抱え込んだ。打とうとした相手がユリウスだと分かったが勢いは止まらず、バルデンは剣の柄をそのまま背中に叩き込んだ。 ユリウスは呻き声を上げ、崩れ落ちるように地面に膝をついた。 「先生っ」 痛みを逃そうと荒い呼吸を繰り返し、ユリウスはブラッドに微笑んだ。 「こ…、このくらい……、平気、ですよ…」 (ほ、本当は痛くて苦しいけど、大人ですからね。痩せ我慢くらい出来なくてどうします) 薬草取りに夢中になって崖から落ちたり、川に落ちて流されたり猛獣と遭遇したりと、ユリウスは優雅な見た目に反して行動的だ。骨折を免れているだけで、打撲や裂傷はいつもの事だ。 但し、その後にラファエルの雷が落ちるのだが。 (ブラッドを庇っての名誉の負傷です。これならラファエルも怒らないでしょう) 「先生……」 ブラッドは泣きそうになるのを必死に堪えた。 (どうして、みんな、ぼくを庇ってくれるの? 何の役にも立っていないのに……、何も出来ていないのに…… ) 「素直に言うことをきいておれば良いのにな」 バルデンが合図をすると、大きい桶を両手に下げた兵士が十数人現れた。彼らは詰所の周りに桶の水を撒き、更に建物にも掛けた。 覚えのある滑った臭いにブラッドとユリウスは、はっと息を飲んでバルデンを見た。 「油……?」 呟いたブラッドに、バルデンがニヤリと笑った 「小僧、もう一度言おう。私に従うよう竜に言いきかせろ」 松明を持った兵士が建物をぐるりと囲んだ。 「貴様の大事なお友達が焼き死ぬか、竜に命令するか、お前が選ぶのだ」 蒼白になってブラッドは騎竜と詰所を交互に見た。こくり、と上下する喉と顎が震えていた。その首を一筋の汗が流れた。 バルデンは眼を細めてブラッドの白い首筋に見惚れた。大人になりきっていない少年特有の硬質さと、妙齢の女性のような官能さがあった。 (埃で薄汚れておるが、なかなか見目が良いではないか。竜を従わせたら寝所に呼ぶのも良いか……。竜の愛し子を飼うのも一興か) 無意識に舌舐りをし、バルデンは眼を細めた。 (それにしても、捕縛した騎士が小僧にとって大事とは、あの得体の知れない連中の言った事もあながち嘘ではないと言うことだな) 月の無い夜に現れた、灰色の外套を頭から被った者を思い出した。嗅いだ事のない薬草の匂いと陰気な気配を纏わせた『黒の術者』と名乗った者達の指示は、面白いほど的中した。 北方軍の侵攻、辺境伯軍の展開、別動隊の動き、全てが子爵に告げられた事と一致した。 (王弟殿下の親衛隊が直轄地に来たのも、私の運が上向いた証拠だ。これを機に我らの派閥が中央で盛り返すのだ) 内戦時代、現国王とは反対の勢力についていたバルデン子爵は元は伯爵だった。 荒事が得意ではないバルデンは、軍を所有してはいたが、積極的に戦には参加していなかった。 内戦後、バルデンは誰某に唆されただけで、国王に逆らう意思は無かったと涙ながらに訴えた。処罰は子爵への降格と、多額の賠償金の支払い、そして中央から辺境の地への領地換えで命は失わずに済んだ。 旗色をはっきりさせていた者は、戦で敗北が確定すると自刃したり、裁判で死刑になったり投獄された者が多数いた。 バルデンは内戦処理が終わるまで、新しい領地で頭を低くして大人しくしていた。いつか必ず中央に返り咲くのだと。それまでの辛抱だと心の奥底で自分に言い聞かせて。 契機が訪れたのは半年前の事だった。 密かに連絡を取り合っていた保守派の貴族の間に、王弟を国王にと望む声が多くなり始めた頃でもあった。現国王を退位させ、王弟を即位させるのだ。革新的な国王よりも、貴族的な考えの国王の方が我らには都合が良い、と……。 反対する者もいたが、バルデンは美味い汁を再び吸うために賛成側についた。積極的に推し、王弟が国王の座についた暁には、以前よりも旨味のある地位につくのだと。 それに、王弟に自分の功績を訴えれば、報償として貴族位も上がるかもしれない。 保守派の指導者である高貴な人物からの書状を携えた使者が、下賎な術者なのは気に入らなかったが、再び中央に返り咲くまでの辛抱だ。 (奴らの言う通り、竜の愛し子も手に入った) 軍隊に竜騎士がいるかいないかで戦力が大きく変わる。辺境伯ごときが竜騎士団を所有しているが気に入らない。 高貴な自分こそが持つのに相応しいではないか。 「さぁ、小僧。竜に命令しろ」 兵士の持つ松明が建物に向けられた。 一歩でも動いたら、ちょっとした拍子に油に引火してしまいそうだ。火は、あっという間に建物を嘗めるように覆うだろう。 (中にはアルベルトさん、グレアムさん、マキシムさんが……。アルベルトさんは縛られて動けないし、二人は大怪我をしている……。どうしたらいい? 竜に命令なんて出来ない。ぼくにはそんな力は無いし……) 何故、そんな勘違いをしているのかブラッドには分からなかった。だが、ブラッドの返答次第でアルベルトらの生死が決まってしまうのは分かった。 (どうしたら……) 何も出来ない。何の力も無い自分が歯痒かった。 ブラッドは唇を噛み締めた。 (助けて……。レオン、助けて!) ぼくには、何も出来ない……!

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