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第114話

「何という無茶をするんだ!」 アルベルトは煤で汚れたブラッドの頬を拭きながら叱った。 意味も無く危険に飛び込むような子でないのは分かっているが、今にも焼け落ちそうな建物に入るなど言語道断だ。無謀にもほどがある。 「ご、ごめんなさい……」 涙目なのは煙のせいなのだろうが、潤んだ瞳で見上げられ、何故か叱ったアルベルトの心がチクリと痛んだ。 室内の煙が濃くなり呼吸がしずらくなった。アルベルトはグレアムとマキシムに合図をし、ブラッドの肩を抱いて床に膝をついた。呼吸が少し楽になり、眼への煙の刺激も少し減った。 「ぼくが中に入ったら、消火をしてくれるんじゃないかと思って……」 どんなに頼んでも動いてくれなかったバルデンが、竜を支配出来ると思い込んでいる竜の愛し子が炎の中にいたら消火するのではないかと考えたのだ。 三人は確かにそうかもしれないと思った。 外からは炎が爆ぜる音に混じり、世話しなく行き交う鎧を纏った足音や水を掛ける音が聞こえる。 扉はブラッドが入ったと同時に焼けて脆くなった梁が落ちて塞がっていた。それを槍で崩して何とか道を作ろうとしているようだが、炎の勢いと熱風で近づけない。 「ブラッド……、君の考えは素晴らしいが、撒かれた油の量は計算違いだったようだよ……」 ブラッドが詰め所に飛び込むのを止められなかったユリウスは、生きてきて今まで出した事の無い大声で叫んだ。 「火を消して下さいっ!! 竜の愛し子が死んでしまいますよっ!! 」 護衛騎士と兵士らが一斉にバルデン子爵を見た。 彼の指図無しで動いたら、それが正しい行為であっても後に問題行動として処分の対象となる可能性があるからだ。 この場の最高責任者は子爵である。例え自ら炎に飛び込み死亡したとしても、全責任はバルデンが被る事になるのは明白だ。 「な、何をしておる! 火を消して小僧を…愛し子を救い出さんかーーーっ!!」 血の気の無い顔でバルデンは叫んだ。 皆が井戸に向かって駆け出したが、如何せん井戸は一つで汲める桶は限られている。炎の勢いに対して、とても数が足りない。 しかも油を撒いた為、勢いは増すばかりで黒煙は濃くなってきた。手の施しようがないのは明らかだが、何もせずに傍観していると確実に首が飛ぶ。 しかし炎は益々勢いを増し、熱風で誰も近づけなくなった。 「ブラッド……、アルベルト…マキシム…グレアム……。どうか…どうか無事で……」 ユリウスは祈るように額の前で手を組んだ。 大事な人を病で亡くし、医師になる決意をしてからユリウスは神に祈る事を止めた。 祈ったところで失くした命は帰ってこないし、病や怪我は治らないからだ。 だが、竜の愛し子の誕生が稀で難しいのを知っているユリウスには、ブラッドが具現化した奇跡そのものに見えた。たくさんの竜の無償の愛情をその身に受けて長い時をかけて誕生したのだ。 奇跡そのもののブラッドが簡単に死ぬ筈が無い。 「…太陽神よ。あまねく命に降り注ぐ光りと慈悲と御身の御力を賜らん事を赦し願い賜らん……」 炎に朽ちかけた詰所を前に兵士らは、いつの間にか消化作業を諦め立ち尽くしていた。それでもバルデンは兵士に動け、何をしている、誰か炎の中に入って連れてこいと喚いていた。 ユリウスは騎士が戦前にする祈りの言葉を唱え終えると、兵士から水が入った桶を奪い取り頭から被った。 頬に張りついた濡れた一房の髪を払うとユリウスは燃え盛る詰所に向かって駆け出した。 誰もユリウスを止めようとしなかった。否、動けなかった。 炎に飛び込んだユリウスが炎に巻かれて死ぬのを容易に想定出来た。 ただ見送る兵士達の間を走るユリウスがたどり着く直前に、炎の勢いに耐えられなくなった建物はついに轟音と共に崩れた。 火の粉が舞い上がり、熱風がユリウスの頬を叩いた。 「そんな……」 「何て事だ……」 茫然とするユリウスの背後でバルデンが膝から崩れ落ちて呻いた。 「わ、私のせいじゃない! 小僧が勝手に飛び込んだのだ。小僧が死んだのは、私のせいじゃないぞっ」 誰もが冷ややかにバルデンを見ていた。今、口を開いたら、その人物が全ての責任を被せられるのは分かっていた。今までも些細な事で失職したり文字通り首を跳ねられた者が多数いたからだ。 「…まだ…間に合うかもしれない……」 炎から救い出し、直ぐに手当てをしたら間に合うかもしれない。 ユリウスが炎の勢いが衰えない瓦礫の山に向かって歩みを進めた時、一陣の風が吹いた。風の勢いに思わず閉じたを開けると、目の前に蒼い壁が出現していた。 深い海を思わせる紺碧の壁だった。 立ち止まったユリウスは聳え立つ目の前の壁をよくよく見た。深い青に金粉を散らした様な鱗の壁だ。 (え? 鱗??) 見上げると、王者の風格の蒼竜が青みがかった金の瞳でバルデンの兵士らを睥睨していた。 言葉は発していなくとも蒼竜から滲み出ている怒りは皮膚が痛い程感じられた。今にもその鋭い爪で引き裂かれるかもしれない恐怖に、彼らは見上げる事も出来ず俯いて気配を消そうと努力した。 「蒼い……竜……? レ…オン…? レオンですよね?! ブラッド達があの火の中にいるんですっ。助けて下さいっ!!」 蒼竜がユリウスを見た。 「火を…火を消して下さいっ」 ユリウスは蒼竜の脚にしがみついて叫んだ。 四大属性を持っている竜人族なら出来る筈。 早く消してと繰り返すユリウスの胸に蒼竜は鼻先を押しつけた。分かっている、とでも言っている様だ。 「レオン……」 蒼竜は空を見上げ、僅かに眼を細めた。 スン、と鼻を鳴らすと辺りに冷たい風が吹き始めた。濡れた躰を震わせ、ユリウスが小さくくしゃみをした。 すると、蒼竜が申し訳なさそうな表情で風から庇うようにユリウスを片翼で覆った。 「レオン?」 蒼竜を見上げたと同時に大粒の雨が滝のように降り始めた。翼で覆って貰わなければ立っていられない程の強い雨だった。 現に鎧を纏っている騎士や兵士は勢いに立っていられず片膝をついたりしている。 唐突に降った強雨は、唐突に降り止んだ。 蒼竜が翼を収めると、あれだけ勢いよく燃えていた炎は消え、燻りさえ無かった。 ハッとして、ユリウスは瓦礫を退かそうとした。 「まだ、間に合いますっ。レオン、手伝って下さいっ」 真っ黒に焼けた梁を持ち上げようとしたユリウスの腕を掴んで止めた者がいた。バルデンの兵士が勝手をさせまいと思ったのだろう。 ユリウスは苛立って振り払おうと腕を動かしたがびくともしない。 「火傷は時間との戦いなのです。処置が早ければ早いほど生存率が上がるのです。邪魔をしないで下さい!」 「落ち着け、ユリウス」 「落ち着いてなどいられませんっ。あの火の中にいたのです。早く助け出して治療を……えっ?!」 聞き覚えのある低い声にユリウスは思考が一瞬停止した。 「…全く、お前はいくつになっても落ち着きがないな」 振り返ると、澄んだ水色の瞳が頭一つ分上から呆れたように見下ろしていた。 「ラファエル!?」 嘆息をついてラファエルはユリウスの腕を離した。 「何をしていたんですか?! 何処にいたのですか?! 関所にいないし、訳の分からない輩があなたの代わりにいるし、グレアムとマキシムは刺されるし、アルベルトは捕まってるし、ブラッドは火の中に飛び込むし……って、そうです! この下に皆がいるのです。早く助け出さないと。何を突っ立っているのです? 早く手を貸して下さいっ 」 「だから、落ち着けと言っている」 ラファエルはユリウスの頭をガシッと掴んで瓦礫とは反対の方を向かせた。 竜身から人型に戻ったレオンが歩く先に、ラファエルが率いていた分隊の騎竜が次々と降り立った。その先頭にいたラファエルの騎竜の鞍上に小柄な影があった。 「まさか……」 影はユリウスに向かって大きく手を振った。 「先生ーーっ」 レオンの手を借りて竜から降りた小柄な影が駆け寄って来た。ユリウスは自分の胸に飛び込んできた細い躰を力一杯抱き締めた。 「…良かった……ブラッド!」

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