117 / 156
第117話
額に熱を感じる。
レオンの魔力だ。
眼を閉じて精神を集中すると、足元が、水の上をたゆたっている様に心許ない感覚に包まれた。目眩とは違う。気分は悪くない。寧ろ、気分は高揚している。
竜の魔力の中は、水中を漂うみたいで心地好い。
それでも足元の不安定さに戸惑っていると、唐突に額から熱が溢れ出た。熱が水面の波紋の様に全身に行き渡ると、心許なかった足元に地面を感じた。
ふわふわしていた躰を支える力強い手。背中には無条件で安心して寄り掛かれる熱。
眼を開けなくとも誰か分かる。
レオンの魔力が、頼りない自分の魔力に重なり、全ての騎竜に流れて行くのが瞼を閉じた眼で視えた。
(凄い)
自分の拙い魔力操作を補助しながら全ての騎竜の魔力回路を正常に整え、更に自身の魔力を上乗せして与えているのだ。
(レオンの魔力って、凄く綺麗だ…)
魔力に色があるとしたら、レオンの魔力は竜になった時のキラキラ光る蒼い鱗の様だとブラッドは思った。
蒼穹の瞳。紺碧の海。力強くうねりながらも、反面、包み込む様な静けさがあった。
それはレオンの優しさだとブラッドは思った。
ところが実際は違う。
ブラッドが魔力回路を整えているからこそ、愛しい者が少しでも悲しむ事の無いようにと細心の注意を払いながらの補助なのだ。
そうでなければ指一本すら動かさなかっただろう。意識していないが、竜人族の高位の者特有の冷徹さがレオンにはあった。
「そろそろ良いだろう」
レオンの声でブラッドはパチリと眼を開いた。
ぐったりしていた騎竜が首を真っ直ぐ上げ、羽ばたきを繰り返していた。魔力を翼に集め、飛ぶ為の運動を始めたようだ。
「もう少ししたら飛べるだろう。元々竜種は呪いや穢れに強い。時間はかかるが浴びた穢れは薄まるだろう」
レオンの言葉にブラッドは満面の笑みを浮かべた。
「また飛べるんだね。良かった…」
呪詛の穢れが完全に無くなる事はない。
しかし、太古の神話の時代から存在する竜には、呪いや穢れに対する耐性が生来備わっていた。時間をかけて耐性を上げていけば、長い寿命を全う出来るだろう。
だが、人間は違う。
表面上の穢れを取り除いたとしても騎士に復帰出来るか分からない。
アルベルトは特別だった。
親しい者。好意を持った相手であるアルベルトの呪詛の穢れをブラッドは無意識に取り除いてた。
レオンはブラッドに告げるべきか迷った。
それは、呪詛を受けた者に代わり、自分が肩代わりするようなものたからだ……。
「ねぇ、レオン」
ふいにブラッドがレオンに振り向いた。
頬を紅潮させ、額を両手で押さえて上目遣いにレオンを見上げる。
「どうした?」
「あ、あのね、ここにレオンの魔力を感じたよ?」
「ああ」
「ぽかぽかして暖かだった…。それに…」
「うん?」
「レオンの魔力、竜の時の鱗の色みたいだった。夜空の星みたいにきらきら光ってて、凄く綺麗だった」
「そうか。ブラッドには俺の魔力の色はそういう風に視えたのか」
レオンはブラッドの頬に手を添えて嬉しそうに微笑んだ。その慈愛に満ちた微笑みに、ブラッドは真っ赤になったが眼は逸らさなかった。
逸らせなかった。
「おでこにレオンの鱗があるから視えたのかな?」
「そうだな。その鱗を通して竜達に魔力を分けていたから視えたのだろう」
「あ、あのね」
重大な決意を告げるようにブラッドは乱れそうになる息を整えた。
「ぼくの、鱗、レオンに貰って欲しい」
「ブラッド……」
眼を瞠ってレオンはブラッドを見た。
「どうすれば、鱗をあげられる?」
鱗の交換。
それは求愛の受け入れであり、番の証。
詳しい説明も無しに己の鱗を愛しい者の額に埋め込んだ。竜人族では鱗の譲渡は求愛の印であり、手を出すな、という威嚇でもある。
人間でその慣習を知っている者がいる筈もないが、レオンはブラッドに自分以外の手がつく事すら厭ったのだ。
人間が知らないだけで、人界には仙境の者が数多くいる。漸く見つけた宝が、他の竜人族どころか他種族に奪われるのを防ぐ為に。
竜人族の血を引くローザリンデには一目で意図を分かられたが。
狭量だと嘲笑されると思ったが、ローザリンデは笑わなかった。竜人族の求愛が命懸けなのを熟知していたからだ。
成人し、愛する者が出来た時、竜人族の誰もが心臓の真上の鱗が一つ赤く輝く。その部分の鱗は硬く、滅多な武器も鋭い爪も牙も通さない最強の盾だ。
そして、想い合う者同士の鱗の交換は、最愛の相手を護る最強の楯ともなる。相手への想いが強ければ強い程、盾は頑強となる。
今、レオンの心臓は無防備だった。鱗が無くとも最強種である竜人族を傷つけられる者がいないからだ。
それを知れば、ブラッドは鱗を返そうとするだろう。だからレオンは説明もせずに鱗をブラッドに与えた。
例えブラッドから鱗を貰えなくとも、大事に抱え込んでしまえばいいからだ。
だが、竜人族の風習を知らないブラッドが思いがけず本能で鱗の交換を申し出た。
それはレオンにとって望外の喜びであり、今までの人生で最大の贈り物であった。
レオンは堪らずブラッドを抱き寄せた。
抱き締められるまま、ブラッドはレオンの腕の中に躰を預けた。疲労は心地好かったが体力は限界のようだった。
本当は眠りたかったが、まだ事態は収拾がついていなかったからだ。
ラファエルは鋭い視線をバルデン子爵に向けた。
自分を大物と思い込んでいる小物。
ローザリンデはバルデンを一片の感情もなく、そう評した。
己の頭で考えて事を成せる器量も無い。無害であり有害。
領地経営より遊興を優先し、領内の荒廃が進んだ。
王都から領地に帰る事は稀で、耕作地の土地改良や自然災害の復興には見向きもせず、租税は増やす一方。結果、税が払えず借金奴隷となったり、借金のかたに耕作地を売った流民が増えた。
生活が出来なくなった流民は難民となり、大勢が辺境領に流れて込んだ。ローザリンデは流民を保護し、開拓地を与えたり職を斡旋したりした。
しかし、決して豊かと言えない辺境領では大勢の流民を賄えきれず、フェリクスが治める広大なオイレンブルク侯爵領に引き取って貰っていた。
それをバルデンは『辺境領では他領の領民を拐い、奴隷として働かせている』と王都で悪意をたっぷり含んだ噂をばらまいた。
国境を守護しているローザリンデは、噂を払拭する為とはいえ、簡単には王都を訪れる事が出来ない。噂を気にする性格ではないが、貴族間の足の引っ張り合いは熾烈だ。些細なきっかけで失脚する危険もある。
ただ、噂程度で国境守護を邪魔されたくなかった。
ラファエルの手元には、王都の遊学時代の学友からの情報がいくつも届いていた。ローザリンデの為に何とか時間を作り、王都へ行かせたかった。だが、噂と同時に北方軍の動きが活発になり、辺境領を離れられなくなった。
王都に兵の増援を求めたが、辺境領に関する噂のせいか断られた。
兵力としては無害だが、国境守護には足を引っ張る有害。
どこまでが計算でどこまでが偶然か。
災害はあくまでも自然によるものだ。
しかし、王都で遊興に耽り、短期間に領内を荒廃させたのは果たして偶然だろうか。
ラファエルの殺気を含んだ視線から眼を逸らし、バルデンは額から流れる汗を落ち着き無く袖で拭いた。
反対にディビッドは両脇から押さえられているものの、ふてぶてしい態度は崩さない。憎々しげにラファエルを見上げているが、どこか余裕があった。
そこへ力強い羽音ともに一羽の鷹が舞い降りてきた。
気づいたジークムントが右腕を上げると、鷹はすいっと止まった。逞しい脚に括り着けられた筒を取る。
「鷹?」
ユリウスが首を傾げた。
「我が領では伝書鳩ではなく鷹を使っているのですよ」
ジークムントが筒の蓋に刻まれたオイレンブルクの紋章を見せた。
筒から取り出した用紙をラファエルに差し出す。受け取り、一読したラファエルは表情を緩めた。
「ディビッド・フランクリン子爵、貴殿方らの計画は成し得なかったようだ」
ラファエルの言葉にディビッドだけでなく、バルデンも顔色を無くし、息を飲んだ。
ともだちにシェアしよう!