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第120話

空気を切り裂く鋭い音に反応したのはレオンだった。 ブラッドに迫る矢が視界に入ったと同時に動いていた。剣で払い落とすには間に合わない。 レオンはブラッドの腕を掴んで引き寄せ、咄嗟に己の背に庇った。それと同時に弩の太い矢がレオンの胸を貫いた。 (しまった……!) しくじった、と思った。 「レオンッ!!」 庇われたブラッドの目の前に、レオンを貫いた鏃があった。 一瞬の出来事だった。 頑強な竜人族が矢で射抜かれたのだ。誰もが茫然となった。 「抜刀っ!!」 最初に我を取り戻したのはラファエルだった。 ラファエルの号令に騎士らは剣を抜いて構えた。アルベルトは負傷したレオンを庇う様に立ちはだかり、ジークムントは矢が飛んできた方に向かって誰何した。 「誰だっ!」 停戦合意の直後に矢が飛んできたのだ。誰もが北方軍が合意を破ったと思い殺気立った。 葉擦れの音と共に木々の間から顔を出したのは、竜の調教師見習いの少年だった。 「君は……?」 ラファエルは少年に見覚えがあった。 砦の騎竜の不調に応援として駆り出されていた調教師見習いの少年達の一人だ。ウォーレンに連れられて、他の見習いの少年らと共に砦を去った。 ……その内の一人が呪詛に関わっていた。 (この子もなのか……?!) 「レオンッ、レオンッ……」 ブラッドの悲痛な声にアルベルトが振り返った。 膝をついたレオンが咳き込み、口許を押さえた手の指の間から、黒い血が大量に溢れて滴り落ちた。瞬く間に地面に血溜まりが出来た。 眉間に皺を刻んで立ち上がろうとするレオンをブラッドが支えようとするが叶わない。 どうしよう……、どうしよう、ぼくを庇ったから……! 恐怖に手足の先から冷えて脚が震えた。膝に力が入らず立っていられない。 顔色を無くし、ただ震えるだけのブラッドを見てサイラスが口の端を吊り上げた。 (あいつに当たらなかったけど、あいつの男に当たったのか) サイラスは可笑しそうに鼻で笑った。 ラファエルは動揺を隠し、サイラスの他に潜んでいる者がいないか素早く辺りを見回した。兵士らしい影も、他から矢が飛んでくる気配も無い。 ジークムントはそっとレオンを見た。 頑健な竜人族が、弩とはいえ、まさか矢が刺さるとは思わなかった。 それは射抜れた本人も同じだった。 ブラッドを狙った矢を剣で払う間がなく、己の躰で弾けばいいと簡単に考えのだ。人型であっても、竜人族は皮膚と同化した鱗が鎧代わりとなる。 意識して気を操れば、戦斧の攻撃であっても擦傷すら負わずに弾く。 誤算だったのは、鱗一枚分の空白。 ほんの小さな空白に、偶然か神の悪戯か、矢が刺さったのだ。それが心臓を貫いた。 しかし、心臓を貫かれたくらいで竜人族は倒れたりしない。強力な生命力による再生速度が即死を上回るからだ。 だが、手足から力が抜け、立ち上がれないのは何故だ?! 鏃が胸を貫いた瞬間、心臓が破裂した。 破裂した心臓の破片が氷の礫となり、躰の内側からレオンを攻撃した。肺が破れ、内臓をズタズタにされ、レオンは堪らず膝をついて血を大量に吐いた。 真っ黒い血だった。 更に、生命力に溢れ熱い筈の血は氷水の様に冷たかった。氷柱を飲み込んだかと思う程、躰の内側から凍えている。 荒い息を整えようとするが、内側からの強烈な冷えと脱力感が邪魔をする。吐く息までも冷たい。 この症状は……。 (呪詛、か) 口内に溜まった血を吐き捨て、レオンはサイラスを睨んだ。 視線に気づいたサイラスが弩を構えたまま、左手を開いた。掌に一線の傷があり、そこから血が…真っ黒い血が滲み出ていた。その左手に黒い霧が微かに纏わりついているのが見えた。 どういった仕組みなのかレオンには見当もつかなかったが、彼の血に呪力が含まれているのは確かだ。 「へぇー、まだ生きてんの? 俺の血がついた矢が刺さったのに、しぶといね」 「…どういう事だ」 「俺の血、呪われてんの」 ジークムントの問いにサイラスは天気を問われて答えるように言った。 「黒い竜と同じなんだよ、俺。その血を直接打ち込んだんだ。もう、助からねぇよ」 ブラッドは思わずレオンの顔を見た。青白い顔で眉間に皺を深く刻み、呼吸は荒く、片膝をついたままだ。 「それに心臓を貫いた筈なんだけど、何でまだ生きてんの? 素直に死ねば?」 「レオンッ……!」 大丈夫だと言いたいが声が出せない。木枯しのような荒い息だけが吐き出される。 ブラッドにはサイラスが何を言っているのか理解出来なかった。だが『死』という言葉だけが、やけに鮮明に頭の中で大きく繰り返された。 心臓を貫いたって……? 竜人族は強いのに? 死んじゃう?! 「や、やだ、やだ……。レオンッ……」 懸命に支えようとしてくれるブラッドに、レオンは安心させるように微笑んだ。 それでもブラッドはレオン以上に顔色を無くして震えていた。 恐慌状態に陥ったブラッドの感情に引きずられたのか、騎竜達が騒ぎ始めた。翼を落ち着き無くばたつかせ、頭を振ったり唸ったりしている。 竜騎士が宥めようとするが、騎竜はその手を払い、苛立たしげに地面に尾を激しく叩きつけた。 (ブラッド、落ち着け。俺は大丈夫だ!) 額の鱗を通じて心話で語りかけるが、恐慌状態のブラッドにレオンの声は届かない。 どうしよう、どうしよう……。 レオンが死んじゃう。 ぼくを庇ったから…。 ぼくなんかを庇ったから! (ブラッド! ブラッド!) このままでは竜の暴走が始まってしまう。 ラファエルはどちらを優先させるか迷った。 元凶であるサイラスの捕縛か、ブラッドを落ち着かせて竜を宥めるか。 太古、竜の暴走によって国が滅んだというのはお伽噺ではない。辺境伯領に代々保管されている古文書に記された内容は史実だ。 騎士団の竜の数では、一国までとはいかなくとも、辺境領くらいは簡単に滅ぼしかねない。 徐々に興奮の度合いが高まっていくにつれ、竜の眼が赤く染まり始めた。竜騎士らは自分騎竜の名を呼んで宥めるが、興奮は収まるどころか増すばかりだ。 「ふぅん? 竜の愛し子の危機で竜が暴走するっていうのは本当らしいな」 サイラスが面白そうに呟いた。 「ブラッド! 前に出ろよっ。出ねぇとお前を庇ってる奴が死ぬぞ!」 『死ぬ』という言葉にブラッドの背中が震えた。 振り返った肩越しに、サイラスが構える弩がアルベルトに狙いをつけているのが見えた。 「ブラッド、聞いてはいけないっ」 アルベルトは自分の躰でブラッドの視界を塞いだ。 「お姫様みたいに騎士に庇われて、いい気になってんじゃねぇぞ」 立ち上がろうとしたブラッドの腕をレオンが掴んだ。 「どうした? 穴熊みたいに隠れてんじゃねぇ。先ずは、お前の前にいる優男から殺してやろうか」 サイラスは左手から滲み出ている血を鏃に垂らした。 「刺さらなくても、掠っただけであの世行きだ」 「ブラッド、出るな」 ジークムントが弩の射線を塞いだ。 深傷が奇跡的に癒え、再び共に戦う事が可能となったアルベルト。理不尽な暴力に晒されながらも慈悲を失わないブラッド。 この二人だけは自分を盾にしても護りたい。 片眼を細めてサイラスはジークムントに視線を移した。 「あんたでもいいか、侯爵家のお坊ちゃん」 「俺を知っているのか」 「国王の最も信頼する側近オイレンブルク侯爵様の愛しい弟君だろ? 兄貴には色々邪魔されたけど」 「俺は兄上が何をしていたかは知らん。けど、俺の兄上を出し抜こうなんて百年どころか千年早いね」 サイラスの口許から笑みが消えた。 「奴一人のせいで、手間隙かけた計画が台無しだ」 「そりゃ災難だったな。性格の悪さと頭の良さは天下一品なんで」 サイラスは左手をぐっと握った。そうすると新たな血が溢れ、鏃に滴り落ちた。 「あんたには、特別に俺の血をたっぷりつけてやろう」 濃さを増した黒い霧が、意思を持ち、蛇の様に矢に纏わりついていく。肌が粟立つ程の嫌悪感に、レオンは古い文献に書かれたものを思い出した。 (まさか……蠱毒、か……?!) 大量の毒蛇や毒虫を甕等の入れ物に閉じ込め、互いを喰い争わせ、最後に残った一匹を使って呪詛をかける禁術だ。成功よりも失敗の方が多く、手順を一つでも間違うと自分が蠱毒に呪われる。 しかし、成功すると呪いは強大だ。 偶然ではあるが、呪詛返しを他の身代りの子供とともに受け続けた結果、一人生き残ったサイラス自身が蠱毒の呪力を取り込んだ。 そのサイラスの血が滴る手に、黒い霧が方々からうねりながら集まってきた。黒い霧はのたうちながらサイラスの腕に絡みついていく。 最初は無視していたが、サイラスは纏わりつく黒い霧を煩わしそうに払った。 払われた霧は少しの間は薄まるものの、今度はサイラス自身に纏わり始めた。徐々に濃さを増し、全身を覆っていく。 「…まさか……」 アルベルトとユリウスが同時に呟いた。 不吉な既視感。 避難所で巨大な怪物と化した村人。 「畜生! うざいんだよっ!!」 どんなに腕を振り回しても黒い霧は纏わりつき、濃さを増していく。 「離れろっ。離れろよっ!!」 サイラスが焦った声で怒鳴ると、黒い霧が怯んだように離れた。 「何だ…、簡単じゃん……?」 ところが、離れたと思った黒い霧は、今度はサイラスの左手の傷口めがけて勢いよく集まり始めた。 「?!」 方々から黒い霧が蛇行しながら集まり、血に誘われる様にサイラスの左手の傷口に吸い込まれていく。 レオンと緑の精霊王が極限まで散らした呪詛が、再び集まりつつあった。

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