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第123話
ブラッドの唇が触れた部分を中心に、じんわりと心地良い暖かさが躰に広がっていった。
呪詛を血で体内から出すと同時に体温が失われていくようで、傷口に氷を押し付けられているように凍えていた。それが嘘のように消え、更に、ブラッドの舌が這うと怠さが軽減していく。
自分への労りと愛情が感じられ、それが望外の喜びとなり、新たな力が全身を巡り始め、蒼竜の青金石の鱗が輝きを増した。
傷口から血が溢れ出る様が痛々しくて、ブラッドは思わず舐め取ってしまった。
少しでも痛みが薄れ、傷が癒えるように祈りながら。獣の母親が仔の傷を癒やすように想いを込めて丹念に。
蒼竜の血は、鉄臭いどころかよく熟成された果実酒のような芳醇な香りを放ち、ブラッドを酩酊させた。
「ふぅ……」
零れた吐息が熱い。
心なしか躰も発熱したように火照ってきた。
頭がくらくらして、何も考えられなくなりそう……
でも、あと少し……
あと少しで何かが……
呪詛の毒素を含んだ血だが、ブラッドには最上の甘露に感じられ、夢中で味わった。ほんの数分でブラッドは蒼竜の胸を染めていた血を舐め清めてしまった。
それでも血が滲み出てくる傷口に唇を再び押し当てる。
すると、ブラッドの胸の中心が急激に熱くなった。まるで、躰中の体温を集めた熱の塊のようだ。痛みより熱さに驚き、思わず手を当てると、その掌に熱が移動した。
何となく握り込んだ手の中の熱が脈打っている。
疑問に思いながら恐る恐る手を開くと、血のように紅い、親指の爪程の球状の物が掌の上に転がった。
摘んで目線まで持ち上げる。
鱗だ…、心臓の上の……
真紅の真珠のような球体だが、鱗だと頭の隅で理解した。
心臓の真上にある護りの鱗。
愛しい人を災厄から護る大事な鱗。
ブラッドは紅い真珠の鱗を蒼竜の傷口にそっと当ててみた。
未だ血が滲んでいる傷口に、するりと真珠が吸い込まれた。それと同時に傷があった部分から紅い光が溢れ出た。
勢い良く溢れた光が傷口を覆い、その耀きが唐突に収縮すると、ぽっかり空いていた穴が綺麗に消えていた。
唯一、鱗が欠けていた部分に、青金石の鱗の中心に紅い鱗が一枚、ぴったりと嵌っていた。
ブラッドの鱗が蒼竜の心臓の上に嵌った瞬間、奥底から大量の魔力が溢れ躰中に漲った。
不快だった呪詛の気配は欠片すら無く、清らかな気が躰の隅々まで行き渡り、爪の先まで力が漲る。呪詛による怠さも、神経を逆撫でる不快さも清涼な水が押し流してしまったようだ。
レオンはブラッドを石切場の隅に置くと、怨嗟の昏い気を纏って迫り来る黒竜を迎え討つべく、高台の上で仁王立ちした。
黒竜と対峙する蒼竜を岩場の陰から見つめるブラッドの心は穏やかだった。恐怖も不安も寂寥感も感じられない。
細やかな波さえ立たない、月を映す凪いだ夜の湖のように……。
不思議だ…
レオンと離れても、ちっとも不安じゃないなんて……
ほんの少しでもレオンと離れると、二度と会えなくなるのではないか。暗闇に引き込まれてしまうのではないか。そう常に何か得体の知れない影に追われているような、臓腑を冷す恐れと焦燥感がつき纏っていた。力不足を嘆き、知恵の足らなさを嘆いて。
しかし、自分の鱗を蒼竜が受け入れた途端、漠然とした重苦しい不安が消えた。視界を覆っていた霧が晴れ、神経に絡みついていた黒い手も消えた。
伴侶の証である鱗の交換により、互いの心の結びつきが、より強固なものとなったのが感じられた。しかも、それを実感する事で、ブラッドの不安定だった精神が安定した。
鱗の交換は心だけでなく、魔力循環も安定させた。軸の不安定さが無くなり、自分が両足で地面にしっかり立っているのが分る。
魔力が滞りなく流れているからだけではない。レオンの熱い想いが躰を包んでいるのが分る多幸感…。
伴侶の証を交換する事で精神だけでなく、肉体にも変化があったのはレオンも同様だった。
竜人族でも取り分け皇族を中心に、高い魔力を保有する高位の貴族は、真の伴侶を得る事で強大な力を得る。それは完全体の竜種となる為の神聖な儀式。
戦士であれば尚更戦闘力が飛躍的に上がる。己の伴侶を、愛しい者を護る為に。
どれだけ黒竜が呪詛を取り込んで凶悪さを増そうとも、完全体となった蒼竜にはそよ風程度にすら感じられない。
呪詛の塊が刃となって黒竜から次々と発せられるが、片翼の羽ばたきで攻撃を霧散する。
焦れた黒竜が黒い炎を吐いたが、それも翼を羽ばたかせただけで消してしまった。
耳障りな声を上げ、黒竜は鋭い爪で蒼竜を引き裂こうと腕を上げた。その腕を掴んで蒼竜は黒竜を投げ飛ばした。
黒竜は投げられた勢いのまま、切り出した後の崖に背中を強かに打ちつけて地面に落ちた。
そこへ蒼竜が起き上がる間を与えず、容赦なく頭を踏みつける。
唸りながら睨みつける黒竜を蒼竜は冷ややかに見下ろした。
黒竜の内部深くに少年の人影が視える。
件の黒い一族の少年だろう。呪詛を引き込んで更に昏い色を纏っている。
呪詛の核を潰せば呪詛は形を保っていられなくなるだろう。右手を手刀の形にし、人影に狙いを定める。
一瞬、ブラッドの目の前で少年の命を奪う事が躊躇われたが、レオンは鋭い爪を黒竜に突き刺した。
鼓膜を直に引っ掻くような
素肌を大量の砂で擦られるような
腐臭を放つ汚泥を頭から被せられるような不快感と咆哮
悲鳴か?
怒声か?
息を飲んで見守っていたブラッドには、少年の…サイラスの悲痛な嘆き声に感じられた。
蒼竜が少年を鷲掴んで引き抜くと、黒竜は形を保っていられなくなったのか躰が崩れ始めた。熱を帯びた蒸気を上げ、黒い汚泥が地面に広かった。
汚泥は腐臭を放ち、意識があるようにうねうねと蠢くが、動きは徐々に鈍くなり、やがて止まった。
蒼竜はサイラスを無造作に地面に置いた。サイラスの皮膚は黒ずみ、所々鱗状にひび割れ、剥げ落ちて血が滲んでいた。
呼吸は弱まり、命の火が消える寸前なのが見て取れた。
人に戻ったレオンは、それを何の感情も無く見下ろしていた。
否、怒りはあった。
怒りの度合いがありすぎて表情に出なかっただけだ。蒼穹の瞳には絶対零度の怒りの凍てつく光があり、視線だけで斬り刻めそうだった。
一連の凶行の罪はサイラスだけの責任ではない。侵攻を決めた北方国。呪詛を撒き散らした術師。内憂外患の貴族。
それくらいはレオンも承知している。
だが、ブラッドに直接手を出したのはサイラスだ。それも、自分の身勝手な感情のままに。生まれた環境を嘆いて、健気に生きているブラッドに対して勝手に羨んで。
ブラッドが騎士や国政に関わる者であれば攻撃は妥当だ。しかし、彼は孤児で神殿で育っただけの一般人だ。
苛立ちをぶつける相手ではない。
それがレオンには赦せなかった。
一息に殺さないのは慈悲ではない。
ブラッドがそれを望んでいないからだ。 例え自分を殺そうとした者でさえブラッドは赦す。神殿の教えでもない。生まれ持った資質だからでもなく、ブラッドだからだ。
ブラッド自身、サイラスに対して怒りはあった。憐れむ気持ちもあった。しかし、それを表に出す事はしなかった。それはサイラスの生き方を否定する事になるからだ。
ただ……。
何故こんな事を?
疑問しかなかった。
サイラスの置かれた境遇はブラッドには分からないし、彼の心情を理解も出来ない。
けれど、大勢の人を不孝にして得られる幸せを幸せと呼んでいいのだろうか……。
ブラッドはゆっくりとサイラスに近づいた。
神官の勤めの中に、最期の言葉を聞くというものがある。死にゆく者が後悔なく旅立てるように。
神殿の孤児院で育った者は神官職の資格を保有している者が多い。成人後、神官となる者が少なくないからだ。
ブラッドも神官の資格を持っている。治療院で最期を迎える者の言葉を聞く為に、資格を取らざるを得なかったのが実情だが。
おじいちゃん神官様みたいには出来ないけど、せめて、最期の言葉は……
レオンの足元に横たわったサイラスは、狭まっていく視界の隅で、自分に近づいて来るブラッドに気づいた。
そうだ……
もっと…もっと近づいて来い……
腹の中が熱かった。内臓が溶けていくのが分かる。
死がそこまで来ている。
結局、自由になるには死しか無かったらしい。サイラスは無駄だに足掻き続けた己を嗤った。
実際は口の端を歪めただけだったが。
ブラッドも足音が近づいて来た。
来たな
ブラッドの足が汚泥を踏んだ。その瞬間、サイラスの眼が開かれた。
「俺一人で死ぬかよっ!」
サイラスが叫ぶと同時に太い槍となった汚泥がブラッドの胸を貫いた。
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