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第124話

「えっ…?」  漸く落ち着いた自分の騎竜の鞍をつけ直していたジークムントは、何かに躰を引っ張られたような感覚に顔を上げた。まるで衣服を剥ぎ取られ、冷たい水に放り投げられたような心許なさに胸騒ぎを覚えた。 (何だ…?!)  隣で同じ様に自分の騎竜の鞍の位置を直していたアルベルトが茫然とした表情で手を止めていた。   「アル……」  アルベルトがジークムントを見た。 「ジーク、お前も何か感じたのか…?」  ジークムントは頷いた。  見回すと、竜騎士らが不可解な顔で手を止め、腕を擦ったり、互いを見たりしていた。 「ジークムント!」  呼んだのはラファエルだった。  振り返ると、強張った表情で指で円を描いた。察したジークムントはぐるりと騎士団を見回した。  不可解な表情をしているのは竜騎士だけで、他の騎士やユリウスの表情は変わらずに移動の為の作業を続けている。    竜騎士だけが気づいた異変。    その意味は一つ。 (ブラッドに何かあったのか……?!)  冷や汗が一気に吹き出た。  ローザリンデは本陣の天幕から飛び出した。 「団長っ!」  後を護衛騎士や小姓が慌てて追った。 「いかが致しましたか?」  護衛騎士が訊ねたがローザリンデは無言のまま眉間に皺を寄せ、日が傾きかけた空を凝視した。背中を不快な汗が流れ、手足の末端が冷えていく。  ブラッドの……愛し子の加護が唐突に、強引にもぎ取られるように消失したのが分かった。  部隊のざわめきが竜騎士を中心に広がっていく。騎竜が落ち着きのなく嘶き、苛立ったように翼をばたつかせていた。 《リィン!》  頭の中に響いたのは愛騎竜のグリューンの切羽詰まった声だ。   《ブラッドがっ……、ブラッドの鼓動の音が聴こえなくなったわ!》  ブラッドは首を傾げた。  サイラスに近づこうと小走りに進んでいたのに、腹部に衝撃を受けると同時に見えない手に足を掴まれたように動けなくなってしまった。 「ブラッドッ!!」  悲鳴に似たレオンの叫び声に、ブラッドは大丈夫と言おうとした途端、口から大量の血が溢れ出た。 「あ…あれ…?」  血が滴り落ちた地面が黒い。  自分の影ではない。  更に腹から黒い棒が生えて地面に刺さっていた。  …違う。地面に刺さっているのではなく、地面に広がっている黒い影から伸びているのだ。ブラッドが両手で掴んでも余りある太さの槍が鳩尾に刺さり、背中から先端がはみ出でいた。 (抜かなきゃ…)  抜かないと進めない。  ブラッドが槍を掴むと、自分の腹部から流れ出た血で手が滑った。   (困ったな……)  力が血と共に流れ出ているようだ。  突然の凶事に茫然と立ち尽くしていたレオンは、腰の剣を抜くとサイラスの背中に突き立てた。  短く呻いてサイラスの眼から光が消えた。口元は歪んだ笑みの形のままで…。   それと同時に黒い影が霧散し、ブラッドに突き刺さっていた槍も消えた。  支えが無くなり、倒れ込むブラッドをレオンが素早く抱きかかえた。 「ブラッド…ブラッド……!」  ブラッドの額に埋められている鱗が、淡い赤い光を発していた。その光は、ブラッドが瀕死の状態である事をレオンに伝えていた。  レオンはブラッドを抱きかかえ、自分の魔力を体温が無くなりつつあった小柄な躰に全力で注いだ。竜人族でも皇帝に連なる上位種の魔力には、多少の傷は自己回復力で癒せる力がある。  ブラッド自身も四大公爵の血筋だ。  魔力が足りれば自己回復出来る筈だ。   だが、注いでも注いでも魔力が大量に溢れる血と共に流れ出てしまう。 「ブラッド…、俺を見てくれ。頼む……!」  視線を合わせ、魔力と共に生命力も注ごうとするが、それは注がれる相手と意識が繋がっていなければ半減してしまう。鱗を交換しているからこそ可能な方法なのだが、受け取る相手との相互意識が繋がらなくては完全でない。 「ブラッド、頼む! 俺を見てくれっ」  蒼白な顔で眼を閉じていたブラッドの瞼が薄っすら開いた。澄んだ翠の瞳がレオンに向けられた。  しかし、瞳にレオンは映っていなかった。見えていないようだった。 「レ……、ど……」 《レオン、どこ?》  声が出せず、ブラッドは心話で話しかけてきた。 「ここだ。眼の前にいる。…だから、俺をしっかり見てくれ」 《…見えない…よ……。ごめんね……》 「謝らなくていい。今は、眼を開けて俺を…俺だけを見てくれ…。頼む」 《ごめ……ん……》 「ブラッド!」  弱々しい呼吸を繰り返す、血で紅く染まった唇にレオンは自分の唇を重ねた。 《俺の命を全部やる。だから、死ぬなっ》  底の抜けた桶のように、注いでも注いでも満ちる気配がない。 《ブラッド! ブラッド! 俺を一人にしないでくれっ》  心話で懇願するが、途切れ途切れでも返してくれていた心話の返答がない。唇をそっと離し、ブラッドの頬を撫でてみた。  雪のように白くなった肌には、まだ、微かに温もりがある。しかし、額の鱗の光が薄く儚いものとなり始めた。  それは、残酷にもブラッドの生命の終わりを告げていた。  弱く打つ鼓動がゆっくりとなっていく。  ごめんね  ちょっと……眠くなってきちゃったんだ  少し眠って、起きたら、ちゃんとレオンを見るから  今は…ちょっとだけ……眠らせて……  鼓動がひとつ……ひとつ……と、弱く打つ。  とくん  とくん……  と…くん……  鼓動が聴こえない。  額の鱗は、もう、光らない。  グリューンが悲鳴に似た咆哮を上げた。  その後に続いて騎竜が啼き声を上げた。 「グリューン!!」 《私達の愛し子が……、ブラッドが死んでしまったわ!》  グリューンの言葉にローザリンデは息を飲んだ。  否定の言葉を発しようにも、竜騎士の本能がブラッドの生命の気配が消えたのを告げている。半身をもぎ取られたような喪失感。そして空虚感。 「何故だ…。貴公がついていながら……」  みすみす死なせるとはっ!  ローザリンデの新緑の瞳が濃くなった。  怒りか、苛立ちか、失望か…。  頭を両手で抱えて、奥歯を噛み締めた。  レオンだけに怒りをぶつけるの正しくない。己の差配はどうだったのか省みる。  ブラッドの意志を尊重し後援を許可をしたが、自分は無意識に竜の愛し子の力を利用していなかったか…。戦場になど出さずに砦の奥深くに閉じ込めておけば…。 《リィン!》  グリューンの切羽詰まった声にローザリンデはハッとして頭を上げた。頭を振って無意味な思考を追いやる。 「グリューン?」 《災厄が…来るわ……》 「災厄……」  呟いたローザリンデは竜公女が残した文献を思い出した。  真の災厄は竜に非ず。  古の昔、愛し子を亡くし、悲しみと怒りのまま竜族の暴走で国が滅びたとある。  しかし、真実は竜族ではなく、伴侶を奪われた竜人族の暴走だった、と。    かつて、人間と竜人族がまだ共に暮らしていた太古の昔。竜人族の強大な力を無力化する為に、竜人族の王の伴侶である愛し子を奪った事があった。  人質とし、竜人族を意のままにしようとしたが、それが竜王の逆鱗に触れた。伴侶を奪われ、烈火のごとく激怒し、我を忘れた竜王の暴走で大陸中が災厄に見舞われたのだ。  竜王の支配下にある竜族は、怒りの感情に引き摺られ人々を襲った。更に竜王の強大な魔力は天候にも影響を及ぼした。  巨大な竜巻が建物ごと人々を巻き上げ、落雷がいくつもの柱となって落ち、強風が吹き荒れ、真夏に拳大の雹を降らせた。長雨で河が氾濫し、穀物の実りは少なく、いくつもの国が滅んだ。  だが、幸いにも愛し子の執り成しで竜王の怒りが解け、人間は滅びずに済んだ……。  薄紅色に染まりつつあった空に、黒い雲が冷たい強風とともに急激に広がっていった。      伴侶の鱗を得たレオンの魔力は古の竜王に匹敵していた。  声にならない慟哭が空に響いた。            

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