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第125話
腕の中で徐々に生命が失われていく躰を抱き締め、レオンは愛しげにブラッドの顔を見つめた。頬を撫で、鼻筋を指で辿り、唇にそっと触れてなぞる。
閉じられた瞼は開くことはなく、二度と自分を映さない。
色を失った唇は二度と自分の名前を呼ばない。
かつて、レオンは生きる意味を見いだせず虚無に過ごしていた。
一代限りの公爵家の当主として、教育と武道の厳しい訓練を幼い頃から課され、忙しくも淡々とこなす日々。
同年代の子供達が親の庇護の元で伸び伸びと健全に養育されている頃、レオンは名門リリエンタール家の当主としての振舞いを求められていた。
更に、皇帝への忠誠を叩き込まれるのと同時に、叛意の疑いを持たれないよう気を配らされた。まだ幼い躰に鎧を纏い、紛争や魔物討伐などの要請に応え、常に前線に身を置いてきた。
皇位継承権は無くとも皇帝の直系である故に、血筋だけは純粋に皇族だ。
宮廷に上がれば、リリエンタール家におもねようとする者。レオン自身を冷ややかに見下す者。聞こえよがしに嘲笑する者。幼い当主を操ろうと画策する者と様々だった。
成人すると、今度はその血筋や容姿に惹かれ、男女問わず群がってきた。
うんざりしたレオンは宮廷に上がるのをやめ、夜会も高位家格の合議にも出席せず、魔物討伐は領内のみだけ行った。
社交も招集命令も一切無視し、館にも戻らず歓楽街で遊興にふけった。身分を偽りって賭場の胴元になったり、娼館の用心棒紛いな事もした。
だが、どんな享楽に身を置いても、心には常に乾いた風が吹いていた。
感情の昂りもなく無為に年月が流れていった。
生きながら死んでいる。そんな日々に転機が訪れた。
唯一、心から自分を案じてくれた従姉からの思いがけない贈り物だった。
皇族に近い貴族ほど複数の卵を産む事を忌み嫌う。
従姉は妊娠が判明すると同時に、医師に胎内の卵が二つだと告げられていた。その事実は世間的には伏せられ、対外的には出産した卵は一つと発表された。
もう一つの卵はレオンに届けられる筈だった。
だが、それを知った従姉の祖父が激怒し、卵は深い谷底へ捨てられてしまった。
結婚どころか、血を分けた子を持つ事すら禁じられていたレオンにとって、自分の…自分だけの魔力で孵化させ、育てあげる喜びが手に入る筈だった。
空っぽだった胸の奥に灯った、ささやかな希望という明かりは一瞬で消えた。
否、消された。
卵の所有権も抗議も、行方の情報の要求も一切通らなかった。皇帝の血統や公爵家の名には、何の力も…欠片も無かった。
婚約者がいると承知しながら母に執着し召し上げた皇帝は、彼女が産んだ子供…レオンには全く興味が無かった。既に正妃が産んだ男児がおり、レオンは後の争いが起きないよう皇位継承権を含め、全ての権利を剥奪されていた。
唯一欲したものすら手に入らない。
それなら、俺がここにいる意味は?
生きる意味などあるのか?
その夜、レオンはリリエンタール家の紋章が刺繍されたきらびやかな衣装を脱ぎ捨て、一振りの剣のみ帯び、竜仙境を出た。
自尊心の塊の筆頭公爵が、己が住まう竜仙境に卵を捨てさせるとは思えなかった。
蔑み、忌み嫌っている人界に捨てさせただろうとレオンは推察した。
従姉の魔力の微かな残滓を纏う卵を探すレオンの長い旅が始まった。
十数年が過ぎた頃だった。手がかりも無く人界で卵を探して彷徨うレオンの元に、風の精霊が短い伝言を届けた。
伝言は筆頭公爵家の元侍従からだった。
卵を公爵の命で捨てたのは自分だ、と。
命令とはいえ卵を捨てた事を長い間悔いていたと告げてきた。
捨てられる卵を哀れに思い躊躇った侍従は、たまたま山で出会った猟師に大金を渡し、人目につかない場所に捨てるよう依頼した。
中身が分からないよう布で分厚く包み、粗末な籠に押し入れ、その上から縄で幾重にも巻いた物を、決して中を見てはならないと言いきかせた。
猟師は侍従のただならぬ鋭い眼光と腰の剣を見て、顔を青くして頷き、金の入った革袋を手にすると逃げるように去った。その山の何処に捨てたのか、別の山に移動したのかまでは分からない。
今まで言えなかったが、筆頭公爵家の侍従を引退した身なので告白してきたらしい。
躊躇ったと言いつつ、単に自分の手を汚すのを厭い、結局は公爵の命令に逆らうなど恐れ多くて捨てたのだな、とレオンは嘲笑った。
レオンは侍従が猟師と出会った山を中心に、円状に捜索の範囲を広げていった。その頃から、竜の谷で育てられず放置されていた竜の卵を売る仕事を始めた。
孵化出来ずにただ腐っていくより、人の手に渡した方が生き延びる確率が上がるからだ。
孵化の対象外の卵を拾って売るのが竜の卵売りの主な仕事だ。険しい山間の竜の谷は危険が伴うが、一度の売買でかなりの大金が手に入るので、借金の返済に苦しむ者や困窮している地域の者に人気だ。
ところが、いつの頃からか捨てられた卵だけでなく、巣の中の卵を盗って売る者が出始めた。
愛情深い竜は己の卵を取り返す為に人里を襲うようになり、危険視された竜は討伐対象となり、退治された。
竜騎士が竜を討伐するという本末転倒の悲劇がしばしば繰り返された。それを憂いた卵売りを中心にギルドが発足された。
竜の卵を採取する為の規則と規約。
売買に関する契約内容の統一化。
そして、それらを破った際の罰則の徹底。
北方国で見境なく竜の卵を購入しているらしいと噂を聞いたのは、ギルドが軌道に乗って安定してきた頃だった。
卵は必ずしも孵化するとは限らない。魔力込めが間に合わず、孵化に至らず死んでしまう事も多々あった。
中には、既に死んでいる卵を売りつける詐欺をする者もいた。
そうした者はギルドの制裁を受けたり、二度と卵売りが出来ないよう手配書が各国に配られた。
しかし、北方国では手配書に書かれた者からも高値で卵を買い漁っていた。当然、北方国には卵売りが殺到した。
そんな中、北方国へ卵を売りに行って戻って来ない者がいるという噂が出始めた。 数回訪れた者。一度だけの者。売りに行ったまま、一向に国に帰って来る気配が無く行方知れずになったと家族からギルドに訴えが出された。
不審に思ったギルドは調査員を何人も送り込んだが、彼らも戻って来なかった。調査員は腕の立つ者ばかりだった。
そこでレオンも調査に加わる事になったのだが、北方国に向かう前に採取した卵を売りに寄った城でブラッドに出会った。
最初は、働き者の少年だなと思った。くせっ毛の赤髪が所々跳ねて愛らしいな、と。
だが、ふと懐かしい気配がするのに気がついた。
従姉の魔力の似ている。
しかし、それは長年探し続けていての願望が見せた幻かもしれないとも思った。疲れているから勘違いしたのかもしれない。だが瞳を見て、もしや、とも思った。
レオンは逸る心を抑え、冷静になれと自分に言い聞かせた。
その夜、ブラッドが暴漢に襲われ騎竜達が大騒ぎをした。
激しい暴力に曝された上、凌辱されかけたブラッドを発見し、レオンは躰中の血液が沸騰した。例え行方不明の卵でなくとも、レオンはブラッドを庇護するつもりだった。
ところが、ブラッドの傷から滲み出た血から、竜人族特有の香りが立ち上がったのだ。その上、薄っすらと従姉に似た魔力まで感じられた。
間違いない。
レオンは、今すぐにでもブラッドに正体を明かしたかった。
けれど、このまま北方国へ連れて行っても別の危険に曝す事になる。護り切ってみせると思いつつも、ブラッドを危険に近づけたくない。
レオンは事実上ブラッドを庇護しているフェリックスに、北方国の内情を探ってくるのを交換条件にブラッドを引き取る誓約を交わした。
貴公子然とした容貌ながら、なかなかの食わせ者であったが。
全てが片づいたら二人で旅に出ようと約束していたのにな…。
日が落ち、群青の空に宵の明星がぽつりと輝き始めた。
重苦しい雲が立ち込めたと同時に何本もの稲妻が空を裂いた。
冬を思わせる凍えそうな強風が吹き荒れ始めた。木々が大きく揺すられ、巻き上げられた土埃が顔を叩きつけ、眼が開けられない。
「グリューン! どうなっているのだっ?!」
《リィン…!》
初めて聞いた悲鳴のようなグリューンの声だった。
《もう……、と、べ…な……》
上空を飛んでいたグリューンが翼を折畳んだ状態でローザリンデの眼の前に地響きを立てて落ちた。
「グリューンッ!!」
力無く四肢を投げ出し、首を懸命にローザリンデに向けようとするが、思うように動けないのか藻掻くだけだった。
グリューンに駆寄ろうするローザリンデの背後に次々と騎竜が落ちる音が響いた。
「いかがしたのだ、グリューン?!」
頭を自分の胸に抱え込み、グリューンの頬を撫でる。
《魔力が……》
意識が薄れ、閉じられようとする眼を懸命に開けてグリューンはローザリンデに告げた。
《魔力が、全て、公子に……レオンに吸い取られて……》
「どういう事だ?!」
《止め、て…。魔力の暴走……。この、ままでは、古の…死の都……と…同じになる……》
竜の暴走により人々が死に絶え、千年かけて死の都は復興したと言伝えられている。
だが、どうやってレオンの暴走を止めれば良いのか。
《全て、の…魔力が……、レオンに…引き寄せ、られて……、大地の魔力が枯渇…》
腕の中でグリューンは完全に意識を失った。冬眠状態の動物のように呼吸が浅くなり、反応が無くなった
ローザリンデはぎりりと奥歯を噛んだ。
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