127 / 156
第127話
地面に横たわせたブラッドの額に人差し指を当てると、埋め込んでいた真紅の鱗が浮き出てきた。それを胸の上に移動させ、意識を集中して魔力を徐々に込める。
頭の中で心臓が修復する様を思い浮かべる。すると、ブラッドの胸の部分が淡い光を放ち、無惨に空いていた穴がゆっくりと塞がり始めた。
焦っては駄目だ…。
レオンは一息に傷を塞いでしまいそうになる自分を叱咤した。焦ると僅かでも修復しそこねた部分から崩れてしまう。
それだけでない。一気に膨大な魔力を流し込んでしまえば、魔力を受け止めきれずにブラッドの躰全体が崩れてしまう恐れがある。
ブラッド…ブラッド……、戻って来い。
念じながら注ぐ魔力を少しずつ増やす。伴侶の証である鱗でブラッドの破れた心臓を修復し、ぽっかり空いていた穴も完全に塞いだ。
《まだじゃ。油断してはならぬ》
レオンの肩に止まっていた小鳥がブラッドの傍らに降りた。
《魂を呼び戻さねばならぬ……》
「躰を修復したら戻るのではないのか?」
《……小僧の魂は意識の深い所におるようだ。自分は死んだと思うておる。引っ張り上げねば眼を醒まさぬだろう。このまま意識を沈めたままでは死するかもしれぬ……》
「おばば……」
《危険じゃが……其方、小僧の意識に潜れ。捕まえて強引にでも連れ戻すしかなかろう。心が繋がっている其方にしか出来ぬ》
人の意識は広く深い樹海のようだ。
下手をすれば迷い、戻って来れなくなり自分も死ぬ危険性がある。
共に死ぬのも悪くないが……。
レオンはブラッドの頬に手を当てた。
ブラッドに広い世界を見せてやりたい。こことは違う空の色見せ、異国の文化に触れ、様々な経験を積んだブラッドはどんな風に成長するだろうか。もっとも、一番の理由はブラッドの色々な表情を見たいだけなのだが……。
必ず捕まえる。
レオンはブラッドの胸に両手を置き、固く眼を閉じて息を吸った。今度は魔力をブラッドの躰に巡回させるように流し込んだ。その流れに沿ってブラッドの意識の海にレオンは魂を潜り込ませた。
大荒れに荒れていた嵐は、いつの間にか静まっていた。
白い世界だった。
濃淡のある乳白色の海が一面に広がっていた。視界はきかなかったが不安は感じられなかった。柔らかく包まれているような、全てを受け止めてくれているような不思議な安堵感があった。
ブラッドの内面は何と深く暖かいのかと思った。
白は容易く汚れる。白い布に落ちた一滴の黒い雫は染みやすく広がりやすい。
けれどブラッドの内面の無垢な白さは、漆黒の染みすら浄化してしまい、どんな汚れも受け入れられる度量があるように感じられた。
初めてブラッドに会った日、彼が受けていた謂れ無い暴力を目の当たりし、レオンは激しい怒りを覚えた。何故、ひたむきに生きている少年に悪意を向け、理不尽な暴力を振るえるのか。
ブラッドの意識下の世界に広がる乳白色の海を進むレオンは、ふと理解した。
皆、ブラッドに甘えていたのだ。
彼らは無意識に『ブラッドなら受け止めてくれる』『ブラッドなら赦してくれるだろう』と身勝手に考えていた。
身分制度の世界では、個人ではどうにもならない事が多々ある。理不尽に貶められたり、搾取されたりする。
だが、その怒りや苛立ちを無闇に人には向けられない。行き場の無い感情を持て余して酒に逃げたり、自分より弱い者を虐げて鬱憤を晴らしたりするのが通常だ。黒ではないが灰色に近い日々。
そんな彼らの中で灰色にも染まらないブラッドは、彼らには眩しく……、いや、奇異に見えたのだろう。
自分達とは違う存在。
普通の人間にとって、仲間ではない異分子は彼らにすると排除の対象だったかもしれない。
なら、少しくらい苛めて憂さ晴らししてもいいんじゃないか……?
暴力に屈せず、理不尽にも俯かないブラッド。
いつしか彼らは、ブラッドは自分達の鬱憤や苛立ちを『理解して受け止めている』と都合よく思い込んでいたのかもしれない。
そんな身勝手な横暴を赦す気はレオンには針の先ほども無かった。竜人族にとって、最愛の者を傷つける者は万死に値するのだから。
けれど、今はブラッドを捜す事に集中しなければ……。
レオンはブラッドの醸し出す心地よい空気に包まれながら、眼を閉じて一番強く感じられる場所へと意識を向けた。暫くして眼を開けたレオンは、迷う事なく薄闇の底へと沈んでいった。
どれくらいの時間が過ぎたのか。
漸く底らしい場所に辿り着いたらしく、沈んでいくような感覚が緩やかになった。その足元に、薄ぼんやりと光る白い小山があった。
小山の前に降り立つと、それは滑らかで光沢のある白い竜が丸くなって眠っている姿だった。蒼龍のような身を守る鎧のような鱗ではなく、丸みを帯びた細かな真珠の粒を思わせる美しい鱗が仄かに光っていた。
閉じられた眼を縁取る長い睫毛と鬣が血のような赤だった。生命を表す赤。
「ブラッド……」
以前、ブラッドに魔力の循環を教えた時に感じた魔力だ。数多の竜から注がれた愛情という名の魔力。
そっと白竜に触れてみる。
絹のように滑らかで、ほんのり温かみがあった。
「ブラッド、俺だ」
白竜の赤い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。金色の縦長の瞳孔の中心は澄んだ翠だった。
白竜は何度か瞬いて焦点が合うと、レオンを見て驚いたように大きく眼を見開いた。
「俺が分かるか?」
レオンの問に白竜は一度眼を閉じて開いた後頷いた。
「良かった……」
白竜の鼻筋に額をつけてレオンはほっと息を吐いた。
「ブラッド、俺と一緒に戻ろう」
白竜は不思議そうに首を傾げた。
自分は死んだ筈だと。
「天の庭へ行くのはまだ早い……と言うか、俺が赦さん。どうしても、そちらに行きたいと言うのなら俺も一緒に行く」
それは駄目。
白竜は頭を激しく横に振った。
「じゃあ、一緒に戻ろう」
いいの?
白竜は眼を伏せて俯いた。
自分を始め孤児達は生まれた理由が欲しかった。どんな理由があったにせよ、親に捨てられたという事実が彼らの心に常に突き刺さっていた。
ところが、与えられた仕事をこなしながらも、どこか人の中に溶け込めない自分がいた事をブラッドは密かに自覚していた。孤児院でも港街でも城でも、どこかしら人と自分はズレていたように思う。
そんな考えが更に人の中に交じるのを躊躇わせ、何故か罪悪感を覚えた為、殊更ブラッドは仕事に没頭した。
神殿での教育のお陰で治療院や港街では重宝がられた。
しかし、城では頑張れば頑張るほどブラッドに向けられる眼は、何故か冷めたく厳しいものになっていった。それとは逆に竜達から向けられる好意はあからさまで、それが増々反感を抱かせる事となった。
失意の中で訪れた辺境では、思いの外充実した日々だった。初めて向けられた無償の好意や優しさ、そして労り。
心が暖かくなった。何度も涙が出そうになった。感謝してもしきれない、優しい人々。
彼らと会えなくなるのは淋しいけれど、短いが幸せな日々に満足しているのは本心だ。
ただ、レオンと旅をするのが楽しみだったけど……。
「一緒に旅をする約束していただろ?」
俯きかけていた白竜が、はっとして頭をあげた。
考えていた事が聞こえた?
レオンは微笑み、白竜の鼻先に唇を押し当てた。
ここ数年、笑った事などあったかな。
ふと、レオンは考えた。
竜仙境を出てから見つからない卵を捜して長い間彷徨っていた。
最初の頃は噂に振り回されたり、よく大金を騙し取られていた。どんな些細な情報でも無いよりは増しと、飛びついては騙されるというのを繰り返す日々だった。
嘘を見分けられるようになった頃には、レオン自身も荒んだ眼をするようになっていた。
そのせいか感情に乏しくなり、いつの間にか心から笑えなくなっていた
それでも竜の巣から落とされた卵を丁寧に保護し、大事に扱ってくれそうな所に売った後は、何となく酒が美味かった。死ぬ運命にあった卵を保護し、生かせた事に対する自己満足かもしれないが、僅かな充足感があった。
「一緒に旅をして、巣から落ちた竜の卵を探すんだろう? 俺はそれをとても楽しみにしているんだ」
白竜が瞬いてレオンを見た。
「石になってなくて良かったよ。たくさん魔力を注いで孵化してくれた竜種への恩返しをしよう、二人で」
二人で、旅をしようって約束した。
「ああ。雨上がりの二重の虹や夏の満天の星空、秋の濃い夕焼け。一人で見るより、二人の方がきっと美しいし楽しいだろう」
一緒に。
「そう、一緒だ」
白い鱗が震えた。
レオンの額に自分の額を擦り、白竜はゆっくりと純白の翼を広げた。
ともだちにシェアしよう!