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第128話

 大きく息を吐いてレオンは眼を開けた。      深呼吸を何度か繰り返し、荒い呼吸を整える。汗が吹き出た背中は服が纏わりついていた。  魔力を一度に大量に消耗したせいだろう。両肩を押さえつけられているように疲労で躰が重い。  だが、確かな手応えは感じた。ブラッドの魂を取り戻したと。  横たわっているブラッドの全身を覆っていた、白い光が徐々に収まっていった。それでも、まだ仄かに神々しさが残っており幻想的で、触ると砂糖菓子のように崩れてしまいそうだ。  レオンは躊躇いながらも、そっとブラッドの頬に手を当ててみた。  幻ではない。  温かい…。    真っ白で色を失っていた頬に薄っすらと赤みがさし、生気が戻っていた。  二度と開く事はないと絶望していた瞼が震え、ゆっくりと開いた。神を信じた事などなかったが、今だけは無限に溢れる感謝を言葉に出来そうだ。  愛し子の帰還に森の精霊達が歓喜し、仙境の花々の芳しい香りを含んだ風が二人を中心に優しく渦巻いた。 《重畳》  風に乗って届いたのは緑の精霊王の声だった。  ブラッドを抱き起こし、レオンは肩に降りた小鳥に話しかけた。 「おばば、感謝する」 《うむ。だが、まだ魂が定着しきれておらぬ、魔力が安定したら大丈夫じゃろうが…》  レオンに躰を預けたまま、ブラッドは夢心地で周囲を見回した。  星明かりのみの森は暗闇に近かった。  その闇の中で、薄ぼんやりと光っているのは……自分?  光は、ぼうっと見ている間に完全に消えた。  胸の部分の服が破れていた。  どうしてだろうと首を傾げて、唐突に思い出した。自分を貫いた黒い槍と衝撃。怨嗟が込められた眼と呪詛。大量に溢れ出た血…。  あの時、不思議と痛みは無かった。  衝撃が大きすぎて現実と捉えられなかっただけかもしれない。死が目の前にあったのに現実とは思えず恐怖は感じなかった。  ただ、皆に……レオンに会えなくなる事だけが淋しくて……そうだ…淋しくて悲しかった。  眼を閉じると夜空より暗い。  そうすると思い出した。躰を貫かれ、自分は確かに死んだと……。  これは夢?  死に逝く者が見るという幸福な夢なんじゃ……。 「ブラッド……」  レオンが優しく名前を呼んだ。  何度か瞬きをし、顔を除き込んでいるレオンと視線を合わせた。気遣わしげな蒼穹の瞳に顔を強張らせた自分が映っていた。 「ぼく……」  声が出た。 「ぼく、生きて…る…?」 「ああ、生きているとも。お帰り、ブラッド」  レオンは微笑んで頷いた。   (何だか…泣いているみたいだ……)  ブラッドはレオンの頬に手を伸ばしてみた。引き締まった肌が汗でしっとりしていたが、涙が流れた様子はなかった。 「名前…呼んでくれたよね? レオンの声が聞こえた気がする……」 「ああ」 「夢を見てた、と思う……」  ふぅ、とブラッドは息を吐いた。少し喋っただけなのに、長く走った後のように息切れをしてしまった。 「無理して喋らくてもいい」  レオンはブラッドの手を握った。 「ほら、こうしてくっついていれば、思うだけで俺に通じる」 「うん…」  ブラッドは頷き、しっかりとレオンと視線を合わせた。 (ぼく、真っ白い林の中にいたんだ。そしたら上から綺麗なたくさんの色の花びらが降ってきて、ああ、そこに行くんだなって)  ブラッドの手を握っているレオンの手に力が入った。 (花びらを一枚取れたら天の庭に行けるんだな…って何故か分かって、ふわふわ浮いていた花びらを掴もうとしたらレオンの声が聞こえたんだ……)  本当に間一髪だったのだ。  レオンの背中を冷たい汗が流れた。 「掴んでなくて良かった…」  レオンは温もりの戻ったブラッドの唇を啄んだ。 「もう二度と俺を置いていかないでくれ」  ブラッドは真っ赤になって頷いた。  こんなに格好良くて綺麗で、しかも強い人が自分なんかを好いてくれている事が、未だに信じられない。   (そ、それでね、レオンの声に振り向いたら花びらが消えたんだ)  気がつくと林も消えており、ブラッドの耳にはコポコポと水の音が聞こえてきたた。ブラッドは水面をたゆたう一枚の葉っぱのように翻弄され流されていった。 (そしたら、目の前に真っ白い竜が眠ってて…、あ、これ、ぼくだって何でか分かったんだ)  そう思った途端、意識は白竜の中に吸い込まれてしまい、いつの間にか一緒に眠ってしまっていた。眠りが徐々に深くなっていくにつれ、個としての意識が薄れていくのを遠くで自覚している自分を感じながら……。  白竜と意識が完全に重なった時、レオンの声に心が反応し、一気に覚醒した。 (でも、起きたつもりだったんだけど、なかなか瞼が開かなくて……)  覚醒と夢の狭間で、自分を呼ぶ声が無ければ再び意識は沈んでいっていたと思う。 (やっと眼を開けたらレオンの顔があって、びっくりしちゃった。だから起きれたのかも)  ふふっとブラッドは笑った。   「そうか…」  愛しさが込み上げ、レオンはブラッドの唇に自分の唇を重ねた。角度を変えて何度か軽く啄み、レオンはブラッドを抱えたまま立ち上がった。  完全ではないが体力は回復した。いつまでもブラッドを夜風に晒させておいては躰に障るだろう。 (レオン?) 「ここからだと、砦に戻るより辺境伯軍の本陣が近い。戦闘は終わったようだし、経過を報告した方が良いだろう。俺も様子が知りたい」  本音は、辺境伯の天幕であれば広いから、そこでブラッドを休ませてもらおうと思っていた。ブラッドに甘いローザリンデの事だ。快く寝台を譲るか用意をしてくれるだろう。  竜身にはならず、背中に翼だけを出してレオンは空へと舞い上がった。  眼を魔力で強化しなくとも、竜人族の視力であれば森の中といえど、夜営の篝火を見つけるのは容易だった。  特に本陣周りは明るかった。  これは軍の大将の威光を示す意味が強いのだが、周囲を明るくして暗殺者を近寄らせない為でもあった。  本陣に向かいながら、レオンは訝しげに眉間に皺を寄せた。 (おかしい)  夜更けだが、大規模な戦闘の後は独特の雰囲気が漂っているものだ。戦闘後の気の昂ぶり、馬の嘶き、兵士の行き交う鎧の擦れる音すらしない。 (レオン、何だか変だよ……?)  争い事に不慣れなブラッドが気がついた異変。竜人族として完全に覚醒したせいかもしれないとレオンは思った。  肌に纏わりつく重苦しい空気。独特の臭気を孕んだ嫌悪感に満ちた空気でもあった。 (これ……覚えがある……)  何度も接した。何回も襲ってきた。だが言葉にしたくない。言葉にすると形作られてしまいそうだ。 「呪詛か…」  レオンが唸るように言った。  霧散させた筈だ。  それが、何故、こんなにも濃厚で広範囲に広がっているのか。 「レオンッ! あ、あれ…!」  ブラッドが指差した方を見た。  陣のあちこちに、黒い大きな染みが点在していた。篝火で出来た影ではない。影よりも黒い染みだ。  更に、その周りに肉片らしい物が飛び散った跡があった。 「馬鹿な! 北方軍の竜は全て無力化した筈だ!」  躊躇われたが、レオンはブラッドを抱えたまま本陣に降り立った。  一際明るい本陣の篝火に照らされ無数の兵士が倒れていた。 「辺境伯っ!」  一番大きな天幕に入ると、ローザリンデが床机にもたれかかって意識を失っていた。周りには数人の騎士が横たわっており、ローザリンデの近くにはラファエルが倒れていた。  怪我人や謀叛人を砦に輸送し、その後すぐに戦場に戻っていたようだ。 「伯爵様っ!! ラファエル様!!」  二人に駆け寄ろうとしたブラッドをレオンは押し止めた。 「レオン…?」 「不用意に触れるな」 「で、でも……」 「黒い…」  ローザリンデの苦痛に歪んでも美しい顔や、籠手を脱いだ手の所々に黒い染みのようなものが広がっていた。彼女だけではない。側で倒れているラファエルや騎士らも同様だ。  呪詛を受けた者の印……。 「…だからって、このままにしておけないよ。助けないと…」  ブラッドはローザリンデを床机から下ろして横にし、呼吸が楽になるように胸当てを外した。うつ伏せで倒れていたラファエルを仰向けにしようとしたが、さすがにブラッドの力では無理だった。  レオンがラファエルや他の騎士を並べて寝かせ、ブラッドが胸当てを外していった。 「多分、軍全体が同じ状況だろうが、俺達だけでは何ともならん……」 「でも……」 「お前の気持ちも分かる。だが、夜の間は動き回るのは危険だ。敵が潜んでいないとも限らない」 「分かってるけど……」  何もしないでいられない。  一体、どうして今更呪詛がかけられるなんて……。  ブラッドが唇を噛んで俯いた時、天幕が勢い良く開けられた。レオンが素早くブラッドを自分の背に隠した。 「いやはや、参ったねぇ」  レオンはあからさまに不快な表情をし、ブラッドは驚いて口を大きく開けた。 「おや、こんな所で会うとは奇遇だね」 「こ、侯爵様…」  乱れた金の前髪をかき上げ、フェリックス・フォン・オイレンブルクが笑いかけてきた。              

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