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第131話

「白い……竜、だと……?!」  ローザリンデは突如出現した白竜に、深い翠の眼を大きく見開いた。ラファエルも驚愕し、口を開けて白竜を見上げた。      通常、竜騎士が騎乗する竜は青銅色だ。竜人族が変化する竜は、黒、青、赤の順に高位貴族、緑が下位貴族。竜人族の平民は人間より頑強だが竜に変化は出来ない。  そして、中でも白は『存在しない伝説級』の竜だった。  戦闘に特化した竜とは形状が明らかに違う、優しげな輪郭のしなやかな身体つき。凹凸の無い、真珠の様な光沢のある純白の滑らかな鱗。それと対比的な真紅の鬣が白竜がブラッドだと告げていた。 「愛し子が竜に変化するなど…聞いた事が無いぞ」  呻く様に言ったラファエルにローザリンデは首を横に振った。 「いや、古い文献にはほんの数行だが記されておる。ただ、今日まで白竜が顕現したなど公式に記録はされておらぬ。だが……」  淡い光を放つ白竜は美しく、神々しい。  二人は、戦場にいる事を忘れて白竜に見惚れた。  躰の奥から湧き上がる感情が極限まで達したと思った瞬間、魔力が身の内から溢れ出し、自覚する間もなく竜に変化していた。  呆然として自身の躰を見た。レオンの蒼竜とも騎竜とも形状が異なっている。明らかに別種と分かる外見だった。 (これが……ぼく…?)  滑らかな鱗。  広げた翼も白い。  その広げた翼に魔力が急激に集まり始めた。  しかし、その魔力はレオンがブラッドに流してくれた魔力とはどことなく違ってるように感じた。大気中に漂う自然の魔力は希薄だ。それは本能が感じ取っていた。  気がつくと、躰が羽根のように軽い。翼を動かすと、躰がふわりと浮き上がった。躰の重みどころか重力すら感じない。  薔薇色に染まりつつある朝焼けの空高く、白竜は浮き立つ心のままに勢い良く上昇した。 (気持ちいい!)  意識していなかったが、幾重にも躰に巻き付いて絡まっていた綱が全て引き千切れてしまったようで、躰も心も羽毛のように軽い。 (これが自由?)  地上のローザリンデとラファエルが、あっという間に小さくなって見えなくなった。朝日が昇り始めた稜線が眼下にある。  空を突き抜けて何処までも上昇していきそうで、白竜は思わず躰をぶるりと震わせた。  自由とは恐怖と背中合わせなのかもしれない。  朝の冷気とは反対の、暖かな風が白竜の頬を撫でた。大丈夫だよ、と言われたように感じた。 (これって……)  精霊だ。    竜が飛ぶ為の魔力が大気中に希薄な今、白竜の浮力を支えているのは無数に集まった精霊達だった。真珠色に輝く白竜の周囲を精霊の淡い黄金色の光が無数に点滅していた。  大きく羽ばたき、白竜は心を落ち着かせて周囲を見回した。  朝露に濡れて輝き始めた筈の森は、どこかくすんで見えた。夜の闇を払い、新しい空気と入れかわる一時の清廉な気配が薄い。 (これが、穢れ……)  白竜の金の瞳には、当たり一面に広がっている呪詛の粒子が映っていた。人の眼には分からない程の細かな呪詛の粒子が木々に、地面に、河にと纏わりついているのが視える。  鱗を通して突き刺さる戦闘の荒々しい空気と血の臭い。そして、人々の昏い念。そこへ惹かれるように流れて行く呪詛の粒子。    制限無く広がり染み込み始めた呪詛を消さないと争いは止まない……。  先程までの浮き立つ心は霧散し、今はこの重苦しい呪詛をどうにかしないといけないと強く思った。  ここまで広範囲に負の念を撒き散らし、人々の躰と精神に影響を及ぼす呪詛を生み出した人間がいる事が、恐ろしく感じ信じられない。昏い、そして何処までも暗く重苦しい毒の塊のような呪詛。  人だけでなく、大地も大河も空すらも穢れが侵食していく……。 (そんなに世界が憎かったの? 全てを滅ぼしたいくらい?)  本来、怒りは人が思う程続かない。負の感情は精神だけでなく躰をも蝕むからだ。そして、稀に憎しみは時間と共に増幅する事がある。  また、隣人の喜びよりも、怒りや憎しみに共感する人間も多いのも事実。一つの呪詛を依代に、大勢の人間の負の感情が引かれ纏わりついて巨大な呪いの塊となっていった。  (どうして、ぼくに解るのだろう……?)  何故か白竜には一連の呪詛の成り立ちが視えた。だが、起因となった人物は漆黒が覆っており、顔どころか姿形が人間の形にではなくなっていた。 (早く消さないと人に戻れなくなる…!)  白竜は限界まで翼を広げ、天を祈るように仰いだ。  脳裏に辺境軍の兵士を庇いながら、自身に絡みつく漆黒の穢れに構わず次々と黒竜を屠っていくレオンが映った。 (ああ、あれ以上は穢れがレオンの躰の中に侵食してしまう)  白竜は躰の奥から湧き上がる灼熱の魔力を目一杯開放した。    強靭な竜人族といえど、極北の氷のように冷たい穢れに纏わりつかれると、さすがに凍えて手足が重い。しかし、白い息を吐きながらも、レオンは攻撃の力を緩める事なく大剣を振るった。   (くそっ! 湧くように出てくる。切りが無い) 「侯爵っ!!」  レオンは優美な剣技で白銀の鎧を返り血で染めつつあったフェリックスを呼んだ。 「いかがした、レオン殿。お疲れか?!」  騎馬をレオンに向けながら、フェリックスは飛んできた矢を剣で叩き落とした。 「十日ぐらい飲まず食わずで戦える。しかし、人族はそうもいくまい」 「ふむ。一旦、退くか」 「俺は黒竜相手に手一杯だ。侯爵は退却しつつ北方軍を引き付けてくれ」 「王子の軍は…」 「立て直したようだ。その王子に頼みがある」  双方の軍は疲労が頂点に達しつつある。通常の戦であれば、両軍が呼吸を合わせつつ互いに退却するところだ。しかし、北方軍には今だに黒竜がどこからともなく現れ増援される。  これではどちらも退くに退けない。  退きたくとも増援のお陰で退けない北方軍と、下手に退却すると背中から襲われる危険性があるオイレンブルク軍。  そして、援軍がいなくなった途端虐殺される王子軍。  最悪の拮抗状態だ。  僅かな手順の狂いでこちらも壊滅の危機だ。 「俺が全ての黒竜を引き付ける。王子には、この湧いて出てくる黒竜の源を叩いてほしい」 「確かに無限に湧いてくる黒竜の数はは異常だ。レオン殿は人為的と?」 「あの森の奥から湧いてくる。近くに術師がいる筈だ。数は分からんが相当いると思う」  レオンは剣先で森の一角を差した。 「成る程。王子にはすぐに使者を送る。しかし、黒竜をどう引き付けるのかな?」  レオンは口の端を上げた。 「俺を無視出来んようにするさ」  離れるように合図すると、レオンは蒼竜に変化した。金粉を散らした青い貴石を思わせる鱗がしゃらりと音を立てる。変化と同時に鋭い爪の脚の下では、既に二頭の黒竜が潰れていた。  蒼竜が牙を剝いて咆哮すると、一瞬、動きを止めた黒竜が一斉に襲いかかってきた。それらを一瞬で蹴散らす。爪で裂き、脚で蹴り上げ首を噛み千切って吐き出した。  更に同時に飛びかかってきた数頭を、尾を振って薙ぎ倒し、空中にいる黒竜を風の刃が真っ二つに斬り裂いた。 「何とまぁ無茶苦茶な…」  蒼竜の咆哮は『俺を喰らってみろ』という嘲りを含んだ挑発だ。戦闘力に自信があるからこそ出来る事だ。 「さて、蒼竜殿の戦い振りを見学している暇は無いな」  フェリックスは自らが使者となり、王子軍へと騎馬を走らせた。  混乱する戦場に花の香りを含んだ柔らかな風が吹き始めたのは、王子軍の精鋭がレオンの差した森の一角に到達した直後だった。        

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