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第132話

 仄かな花の香りの風に気づき、ふと、蒼竜は動きを止めた。一瞬、芳香を堪能するように眼を細めると、蒼竜は咥えていた黒竜を不快げに首を振って放り投げた。  花の香りを含んだ風は優しいにもかかわらず、戦場に充満した血臭を瞬く間に消し去ってしまった。兵士らの怒号が途絶え、武器を打ち合う音が消え、騎馬は脚を止め、土煙が薄れ、戦場を支配していた戦いの殺伐とした空気が静かに鎮まっていった。      ポツリ、と騎士の頬に水滴が落ちた。 「雨…?」  仰いだ空は早朝の澄んだ青が広がっていた。  けれど、雲ひとつ無い空から水滴がポツポツと落ちてくる。やがて、水滴は雨となって戦場だけでなく、辺境の山々にまで降り始めた。  優しい、優しい絹糸の束のような繊細な雨だった。  北方軍を誘き寄せる隊の殿を努めていたフェリックスが、微動だにせず空を仰いでいる蒼竜に気づいた。黒竜を踏みつけたまま、一心に何かを見つめている蒼竜の視線を追って、フェリックスも空を仰ぎ見た。  澄み切った青空に、大きく翼を広げた一頭の竜がいた。しかも白い竜だ。 「白…竜?」  フェリックスを護る為に周囲を固めていた護衛騎士らも気づいて空を見上げた。驚愕に言葉を失うが、美しく優美な姿の白竜に感嘆の息が漏れる。  白竜に魅了され、思わず漏れた溜め息が徐々に戦場全体に広がっていった。  白竜など、お伽噺や伝説でしか語られない幻の存在だ。人間界では幻獣と言われる程だ。  白竜の属性は『聖』  全属性を持つと言われている、竜種全てを支配する竜帝すらも持ち得ない稀有な属性だ。更に、清浄な場にしか現れないとされている聖なる竜。  それが血臭漂う戦場に顕現するとは。  その純白の躰の陰から、ちらちら見える赤い鬣。 「まさか、ブラッド……?!」  竜に変化出来るようになったのか?  しかも、白竜だって?!  いつも余裕たっぷりなフェリックスの口を大きく開けた珍しい表情を、護衛騎士らは白竜に見惚れて見逃してしまった。  蒼竜が眼を細めて見上げた空で、白竜はゆっくりと優雅に翼をはためかせた。そうすると清浄な魔力が大気中に広がり、それが雨粒となって降りそそぐ。  山に、大地に、大河に。  そして、戦場に。  蒼竜の足元に重なって倒れた黒竜にも。  蒼竜に襲いかかろうとした黒竜の動きがぴたりと止まった。石像と化したように微動だにしない。  更に、雨に濡れた黒竜の黒い鱗がぱらぱらと剥がれ落ち始めた。石のようにごつごつしていた鱗は、秋の落葉のごとく風に舞い上がり、あっさりと塵になった。  黒い鱗が剥がれ落ちると、竜特有の青銅色の鱗が現れた。  両国の兵士は唖然として成り行きを見守るしかなかった。凶暴な黒竜が、このまま普通の竜種に戻るのではないか、と期待して。    大地に染みた漆黒の呪詛が、黒い水蒸気と化して立ち昇り始めた。呪詛は塵となって薄まるのではなく、虹色に反射する雨の中で白く変わり、徐々に透明になっていった。  青銅色に戻った竜は蒼竜を囲み、殊勝に頭を垂れた。蒼竜は睥睨したが、無言で恭順を受け入れた。  蒼竜の厳しい眼の中に憐れみの光があった。これからの竜の運命を知っているからのように。  蒼竜に頭を垂れたまま、竜達の輪郭がぶれ始めた。やがて竜達は雨に打たれ、うっとりとした表情で眼を閉じ、ゆっくりと大地に溶け込むように消えていった。 (慈雨、か……)  蒼竜は…レオンは再び空を見上げた。 『聖』属性の白竜が持つ力は『癒し』のみ。身を護る硬い鱗を持たず、鋭い爪で反撃する思考すら持たない。  白竜の『癒し』は森羅万象に干渉する。  通常の病だけでなく、傷を癒し、干ばつや流行り病で汚れた大地などの浄化に特化している。更に、仙境では『癒し』の効果は激的に跳ね上がる。  それ故、種族問わず時の権力者に狙われ、容易く狩られ、激減した経緯がある。  レオンとしては秘匿しておきたかったのが本音だ。  今降っている癒しの雨は、白竜の特性というより、ブラッドの心そのものだとレオンは思った。どんなに傷つけられても、相手を憎んだり反撃するなど毛程も思いつかない。愚直なまでに真摯に向き合い受け入れる懐が深く広い。  悪意を持って傷つけようとする者にとっては、それが恐怖に感じられたのかも知れない。ブラッドに対する執拗な暴力が、それを物語っている。  懐の広さを嫉妬するより、得体の知れないものと対峙するに畏れに等しいからだ。  死ぬ寸前までいたぶられたのに、愚痴や泣き言を一言もこぼさなかったのを思い出した。  もっとも、妬み嫉みなどの人が当然持つ負の感情を持たない歪さが、白竜の特性とも言えるのは皮肉な事でもある。  それにしても、と蒼竜は嘆息を吐いた。  妬み嫉みを根幹に行った呪詛など、究極の身勝手な悪意ありまくりの行為だ。他者の生活を脅かし、土地を穢し、大勢の人々を苦しめた。  それを超常的な力を持たないとされる人間が成し得てしまうとは。負の感情とは重く恐ろしいものだ……。   (それでもブラッドは赦すんだろうな)  北方軍の進攻が無ければオイレンブルク侯爵家の従者となり、重用され、ゆくゆくはそれなりの役職に就く未来があった。  そして、自分はブラッドを探し当てた。戦に関わる事なく、自分と竜の谷を巡り、はぐれた卵を保護して旅をする筈だった。  けれど、それは遅くない。  戦が終われば、二人で旅に出るのだ。  蒼竜は確実に訪れる未来を想い、蒼い翼を広げた。  ぼくに何か…何か出来ないか……。  何とかしたい。    白竜の視界には穢れで傷ついて悲鳴を上げている世界が広がっていた。このまま穢れを放置しておいてはいけない。  これは、この世界に存在してはならないもの。歪みの因子となる、排除しなくてはならないものだ。  消さなくてはならない。  その思いに突き動かされるまま、白竜は……ブラッドは躰の奥から湧き上がる魔力を躊躇いもなく開放した。  風が届けた悲痛な声なき声。  それは見えない刃となって白竜の心を切り裂いた。血が吹き出し、体温が奪われ、手足が冷えて動かなくなってしまいそうだった。  この痛みは大地が、森が、空が、そして人だけでなく、自然界に宿る精霊の痛みでもあった。  白竜には『聖』属性故に、自然界の荒廃を己の痛みとして体感してしまう。特に穢れには顕著に反応してしまい、嫌悪よりそれを悲しみとして捉える。 『癒し』は性質であり、本能でもある。  己の魔力が続く限り穢れを浄化し、荒れた土地を本能のまま癒そうとしてしまう。その上、癒しきるまで魔力の放出を自分の意志では止められないのだ。  呪詛は強力で、広範囲に及んでいた。白竜だけでは浄化しきれない程に。  魔力が尽き切るまでは癒やしたい。  精霊達が支えていてくれている内に。  けれど、徐々に浄化の魔力が尽きかけてきた。そうすると精霊達は自分の魔力を浄化に回して始めた。  ブラッドの癒やしたいという気持ちの方へ精霊達の意識が引っ張られるからだ。精霊は愛し子の望みを最大に叶えようとする。  上空の白竜の躰が傾いた。 (落ちる…っ。でも、まだ…、まだ足りない!)  ここで浄化をしきれないと、穢れが少しでも残ると生態系に影響が出てしまう……。  浮力が完全に消え、力無く落下し始めた白竜の躰が途中で止まった。  墜落の衝撃を覚悟して閉じた眼を開けると、白竜を下から蒼竜が支えていた。  蒼竜は白竜を背中で支えながら空高く浮上し始めた。 《俺が支える! お前は満足するまで慈雨を降らせるがいい》 《レオン……!》  触れた所から蒼竜の魔力が白竜に流れ込んでくる。熱く、力強い魔力だ。  蒼竜の逞しい躰に支えられ、白竜は最後の魔力を振り絞った。  白竜の『慈雨』は国境や両国の兵士に関係なく降り続いた。  呪詛に倒れた辺境軍の兵士や騎竜らを癒し。  身勝手からではあったが、家族の幸せを思い呪詛に与して命を失い、輪廻の輪から外れて彷徨うしかなかった魂を救い上げ。  北方軍の呪詛師らの呪術の力を消し。  やがて、静かに雨は止み、白竜は蒼竜の背中で力無くくったりとし、意識を失った。              

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