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第133話
慈雨が止むと、辺りは瞬く間に一面白い霧に覆われた。
視界がきかない中、両国の兵士らは不思議と迷う事無く自国の陣営にすんなりと辿り着いた。
暫くして徐々に霧が晴れると、戦闘で荒れていた大地に、色とりどりの小さな花が咲いて風に揺れていた。
ゆっくり落ちてくる意識の無いブラッドをレオンは空中で受け止めた。繊細な硝子細工を扱うように慎重に、そして丁寧に。
愛しい愛しい宝物だ。
抱き上げたブラッドの呼吸は浅く弱々しかった。更に低い体温と青白い顔。全ての魔力を出し切ったのだろう。生命を維持する余力が無い。
レオンはブラッドを抱いたまま林の中に降り立った。
ブラッドの唇にレオンは自分の唇をそっと重ねた。柔らかい唇は氷のように冷えており、全く反応が無かった。
レオンは角度を変え、何度もブラッドの唇を啄んだ。軽い音を立てて離れては、啄む。呼吸を確かめるように、自分の熱を移すように唇を重ね合わせた。
淡い光の精霊達が心配そうに二人の周りを浮遊していた。精霊も魔力を極限までブラッドに注いでいた為、与えたくとも魔力が殆ど残っていなかった。
漸く唇に体温が戻ってきた頃、ブラッドの白い頬にも赤みが差してきた。長い睫毛が細かく震え、ゆっくり瞼が開いた。
焦点の合わなかった瞳が、何度か瞬きを繰り返すとレオンと視線が合った。
「…レ……オン……?」
吐息の混じりの声だった。
「無理に話さなくてもいい。今は何も考えずにゆっくり休め」
「う…ん……」
《ごめんね。何だか…凄く眠くて……眼を開けていられないんだ……》
魔力を使わなくても念話が通じた。互いが触れ合っている事と、レオンの魔力に包まれているからだ。
末端まで冷えていた躰が、じんわり温かくなってきたのをブラッドは感じた。
《ぼく、ちゃんと出来たかな……?》
ブラッドの問いにレオンは頷いた。
「呪詛も穢れもきれいに浄化されている。穢れていた魂も、全て洗われて天の庭へ昇っていった」
《良かった……》
ブラッドはほっと息を吐いた。
呪詛返しで魔物と化した者の魂は穢れてしまっていた。理に背き、穢れた魂は輪廻の輪から外れ、永遠に昏い森を孤独に彷徨う。
欲をかいたとはいえ、家族を思っての行為だった。愛する大事な家族に少しでも楽な生活をさせてやりたい一心だった。
ただ、それだけの事だったのだが、重く過酷な罰となってしまった。
その魂が救われ、穢れが浄化され、傷ついた者達が癒やされた。血に染まり、戦で蹂躙された大地は、今、季節を問わない花畑となっていた。
(白竜の本能か……)
清浄を好み、傷ついたものを放っておけない性質上、穢れを浄化し、傷を癒やし続けてしまう。それは命懸けの行為だった。
ましてや、白竜として覚醒めたばかりの未成熟な個体のブラッドには、それは命と引き換えとなる危険な行為だった。精霊とレオンの魔力の補助があって出来た事だ。
《レオン…、ありがとう…》
ブラッドはレオンの胸に額をつけた。
《でも、まだ、終わりじゃない…》
全ての穢れが完全に浄化が成された訳ではない。それは、浄化を行ったブラッドがよく分かっていた。
《伯爵様の所に連れて行ってくれる……?》
レオンは頷くと、ブラッドを抱えたまま辺境軍の本陣に向けて駆け出した。
「兄上ーーっ! 団長ーーっ!」
自分の隊を率いたジークムントは、騎竜の上から、天幕の外にいたフェリックスとローザリンデに手を振った。
鎧を脱いで身軽になったフェリックスは上空の弟に手を振り返した。ジークムントの横の騎竜では、アルベルトが安堵の表情で浮かべていた。
「兄上、団長、ご無事で」
騎竜から降りるとジークムントは二人に駆け寄って負傷していないか眼で確認した。
「アルベルト君も無事なようで良かったよ」
フェリックスはにっこり笑ってアルベルトの肩を軽く叩いた。
「は、はい。ありがとうございます」
「兄上、俺の心配は?」
「お前は頑丈だから、殺しても死なないだろう?」
「ええー、冷たいなー。ひどくないですか、団長?」
「侯の仰る通り、お前は頑丈だからな」
ローザリンデは鎧を纏ったままだった。二人を見比べ、表情を曇らせたジークムントにフェリックスは安心させるように笑いかけた。
「大丈夫、負傷はしていない。鎧は汚れたから従者に清めさせているだけだよ」
返り血と土埃の汚れを大急ぎで清めさせているのは本当だ。
常に身綺麗にしているフェリックスにとって、戦場だからと汚れたままなのは高位貴族としての矜持が赦さない。
ましてや、この後に北方軍との会談が控えている。
今回の戦の大将は辺境伯であるローザリンデだが、この場では、彼女より爵位が高いフェリックスが会談を仕切る立場になる。血や土埃で汚れた鎧のまま会談に臨むのはいただけない。
「あの、団長。ブラッドはこちらに来ていませんか…?」
アルベルトが周囲を見回しながら訊いた。
自分達から危険を遠ざけようと囮となったブラッドの身が心配だった。蒼竜が直ぐに後を追って行ったが、あれからどうなったのか全く分からない。
笑顔で精一杯頑張ってくれるブラッド。
可能なら、あらゆる危険から遠ざけておきたいとアルベルトは庇護欲全開で思ってしまう。
「レオン殿と一緒の筈だから、大丈夫だろう」
アルベルトに応えながら、ローザリンデはふと眼を細め、背後を振り返って何かをじっと見つめた。
「団長…?」
「…こちらに向かっているようだ」
魔力が近づいて来る気配を感じた。
表情には出さなかったが、ローザリンデは戸惑っていた。今まで魔力をこんなに鮮明に感じた事など無かった。
戦いの中で複数人相手に太刀筋を読んで応戦したり、飛んでくる矢を気配だけで剣で叩き落とすくらいは出来た。それは地道な訓練と経験からの為せる技だ。
だが、今まで竜人族の血が薄まった人の身で魔力を感じた事は無かった。
(あの雨か……)
染み入るような慈雨。
幼い頃に亡くした母の温もりに似た優しい雨。それを浴びた直後から、ローザリンデの躰の奥で、封印の扉の鍵が開いた音がしたような気がする。それは竜人族の力の欠片の開放かもしれない。
ローザリンデの言葉から程なくして、ブラッドを横抱きしたレオンが林の中から現れた。
「ブラッドッ!!」
アルベルトが顔色を無くしてブラッドの名を呼んだ。見るからに意識の無い様子でぐったりとレオンに身を預け、瞼は固く閉じられていた。
「大丈夫だ」
レオンが短く言った。
「でも…」
「天幕で休ませよう。寝台を用意させる」
ローザリンデの申し出にレオンは首を横に振った。
「眠っているだけだ。ただ…、今のブラッドは魔力が枯渇してて冬眠に近い半覚醒状態で、俺の魔力で命を繋いでいる。だから、俺から離れると数百年は覚醒めない事になる」
「冬眠…? 数百年?」
アルベルトはブラッドとレオンを交互に見た。
「じゃあ、今は? まさか、数十年は目醒ないとか言うんじゃないよな?」
ジークムントが低い声で訊いた。
「数日か、数年か、数十年かは分からん」
「そんなっ…!」
震える指でアルベルトはブラッドの頬にそっと触れた。通常より体温は低いが温もりが感じられた事に、ほっと安堵の息を吐いた。
「ブラッドの体内の魔力は、ほぼ空だ。だが、それを補充すれば自ずと目醒める」
「それじゃあ……」
「だが、俺の魔力だけでは足りん。だから、魔力が満ちている仙境へ連れて行く」
それは唐突な別れの宣言だった。
「ブラッド……」
滑らかな白い頬を掌で撫でると、ブラッドの固く閉じられていた瞼がぴくりと動いた。皆が見守る中、ブラッドはゆっくりと瞼を開いた。
何度か瞬きをしたが、瞼は直ぐに閉じようとしてしまうらしく、ブラッドはレオンの腕の中で身動いた。
「ブラッドが、手を出してくれと言っている」
「手?」
アルベルトはブラッドの頬を撫でていた手を離した。躊躇いつつその掌を上に向けると、ブラッドが胸に置いていた手をアルベルトの手に重ねた。
「ブラッド……?」
アルベルトの手には親指程の大きさの純白の鱗が十数枚あった。
「これは……?」
「呪詛の影響が残っている者に、この鱗を煎じて飲ませてくれ。そうすれば浄化される。竜にも有効だ」
「白竜の鱗、か」
ローザリンデがブラッドの赤髪をそっと指で梳いた。くせっ毛のわりに柔らかく指通りが良い髪だ。
「そのような稀少な物を頂いても良いのか?」
「未熟でごめんなさい」
ローザリンデがレオンを見た。
「ブラッドが、謝っている」
「……」
「本来の白竜の力であれば、もっと広範囲に浄化と癒しを出来た筈だ、と」
ローザリンデは首を横に振って、ブラッドの髪をくしゃりとした。
「いいや。本来であれば、我々だけで事を収めなくてならなかったのだ。ブラッドを巻き込んでしまったのは我々だ……。その上、命懸けで皆を救ってくれた。謝られるなど……我々の方が額ずいて感謝し、赦しを請わねばならぬ」
「それはやめてくれ、とブラッドが焦っている」
レオンは口元を緩めてブラッドを見ると、薄っすらと瞼を開けたところだった。
「レ…オン…」
吐息のような小さな声だった。
「どうした?」
「きれいな……銀色の熊さん…が…来る…よ」
「銀色の熊?」
レオンとローザリンデが首を傾げて顔を見合わせた。
そこへ、北方軍の使者が到着したとラファエルが告げに来た。
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