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第134話
北方軍から先触れの使者が到着したとの報告で、ラファエルは急ぎ本陣を出た。
従者を一人だけ連れて緩い坂を下っていく途中で、軽装のフェリックス・オイレンブルク侯爵と会った。北方国との交渉はローザリンデの天幕で行う旨を告げ、ラファエルは交渉人を迎える為に足を速めた。
本陣の天幕の出入口の幕は大きく開けられていた。敵意が無い事の意思表示だ。
中央に円卓を設置し、白銀の鎧を纏い座したフェリックスの右にローザリンデが、ジークムントは護衛役で二人の後ろに立った。アルベルトは竜騎士とはいえ身分は平民な為、外で他の騎士らと待機していた。
ブラッドを抱えたレオンは、フェリックスの強い要請で幕内にいた。国同士の交渉の場だから遠慮すると断ったが、フェリックスはブラッドを抱えたまま座れるよう長椅子まで用意させた。
そうまでされて断っては侯爵の顔を潰す事になる。レオンは渋ったが、結局は座った。
『銀色の熊さん』に興味があったからだ。
騎士がラファエルの到着を告げると、その直後に北方国の代表を伴ったラファエルが入って来た。
(ふむ…)
ローザリンデは表情に出さずに交渉人として訪れた人物を静かに観察した。
月の光を集めたような銀髪を肩で揃え、氷河を思わせる水色の瞳の秀麗な容貌の青年だった。歳はジークムントと同じか、少し上のように見えた。
ブラッドの真珠色とは異なる、雪花石膏のように白く滑らかな肌は硬質な印象を与えていた。一見、線の細い浮世離れした美貌の青年だが、足音を立てない歩き方からよく鍛えられた戦士である事が伺える。
右眼を銀糸で薔薇を刺繍した黒い眼帯で覆っており、頬から顎にかけて二本の抉られた線があった。未だ血が滲み出ているその傷は悲惨なものだったが、青年の美を欠片も損なっていなかった。
鎧は身に着けず、上下を白でまとめた服装の意味をローザリンデらは降伏と受け取った。
青年が唯一連れていた従者は長身で、北方や中央では、あまり見かけない赤銅色の肌をしていた。遥か南の砂漠の民に多い肌の色だ。
だが、頭髪は砂漠の民に多い黒髪ではなく、金髪で瞳は濃い緑だった。その瞳は青年を気遣わしげに一途に見つめていた。
「お初にお目もじ致します。クリスティアン・バンティクル・ハーヴェスト=モレーン第三王子です」
北方国の第三王子クリスティアンは、ゆったりと優雅に、そして最上級の礼をした。
フェリックスは鷹揚に頷いた。
ローザリンデは、ブラッドの言った通り確かにきれいな銀色だと思った。
「フェリックス・オイレンブルク侯爵です。今回の会談を仕切らせて頂きます。委任状はこちらに」
「我が国の国王陛下、並びに宰相閣下の署名と国璽の確認を」
ローザリンデは委任状を円卓に広げながら、そっとレオンを見た。
表情には出していないが警戒をしているのは分かった。
第三王子の容貌は優しく、戦より文学や芸術を好み、白く形の良い手は剣より楽器を奏でる為に見えた。背は低くない。背後の青年が長身で体格が良いので細身に見えてしまうのだろう。
醸し出す雰囲気や仕草には王族らしい気品さがあった。それなのに、ローザリンデは歴戦の戦士と対峙しているように緊張していた。
それはレオンも同じなのか、警戒し、俊敏に動けるよう、さり気なく長椅子に浅く座り直した。
(成る程)
レオンは、第三王子が近づいて来る気配を天幕の外から感じていた。ラファエルの後ろから天幕に一歩入った途端、全身の肌がざわりと粟立った程の圧迫感。
(精霊の加護持ちか)
人の身で珍しい。
しかも、精霊の中でも最強種だ。
(森の王の加護持ちとはな)
森に棲まう獣の中に、稀に寿命以上に生きる種が生まれる事がある。森の狩人と呼ばれる狼や大鷲、賢者の梟などだ。
中でも『森の王』と呼ばれているのが熊だ。
優秀な狩人でもあるが、時に凶暴となる。
警戒心を隠そうとしないローザリンデとレオンとは反対に、フェリックスは親しげに微笑んでクリスティアンに席を勧めた。
「かたじけない。ですが…その前に……」
クリスティアンは長椅子に座るレオンに正面を向けた。
咄嗟に動こうとしたジークムントにフェリックスは片手を上げて制した。
いつでも剣を抜けるようジークムントとラファエルは柄を握った。
緊迫した空気を意に返さず、クリスティアンはレオンの足元に片膝をついて深々と頭を下げた。背後の従者が続いて、同様に膝をついて頭を主以上に下げた。
「慈悲の方に深い謝意を」
クリスティアンは胸に交差した両手を当てて謝意を示した。
「御手を取っても宜しいか」
レオンの眼を真っ直ぐに見てクリスティアンは訊ねた。王族特有の尊大さは無く、ひたすらに真摯な瞳だった。
レオンが返事をする前に、腕の中でブラッドが薄っすらと眼を開けた。
「ブラッド…?」
閉じようとする瞼を懸命に開けて、ブラッドはクリスティアンの顔に左手を伸ばした。
ブラッドには、目の前で巨躯を神妙に丸めている銀色の熊が見えていた。銀の粉をまぶしたようにキラキラと輝く美しい毛並みの熊だ。
見事な巨躯を懸命に小さくし、ブラッドを怖がらせないようにしてくれている。
頭を撫でると、思いの外、銀毛は柔らかく艷やかでさらりとした指通りだった。
その美しい銀色の熊は右眼から顎にかけて大怪我をしており、眼球は潰れて血が溢れていた。
「ど…し……、あ…め…」
声を発するのがひどく難しい。
(どうして、雨に当たらなかったの…?)
熊の潰れた右眼を撫でながら、ブラッドは無意識に心話で話しかけた。
「私には、あなた様の慈悲を受け取る資格がありません」
精霊の加護持ちだからか、クリスティアンにはブラッドが頭に直接話しかけられても慌てた様子は無かった。
(でも、痛そう…)
「このくらい、何の罰にもなりません」
(罰……?)
「私は愚かにも…私の強欲と見通しの甘さで、我が国は竜を失いました。竜の愛し子であらせられるあなた様の慈悲を受けるなど、分不相応です」
クリスティアンの後ろで従者の青年が眉間に深い皺を刻んで唇を噛み締めていた。
(よく分からないけど…、ごめんね、ぼくの力が足りなかったみたいで)
「いいえ!」
頭を振ると、右眼から更に血が溢れた。その血がブラッドの手についた。
「御無礼をっ…!」
クリスティアンは血を拭く為に慌てて手巾を懐から取り出した。
だがブラッドはそれに構わず、その手を潰れた右眼から顎にかけての傷をなぞるように数回撫でた。
すると、滲み出ていた血は止まり、抉れていた部分の肉が徐々に盛り上がり、ぴたりと塞がった。滑らかな頬からは傷のあった痕跡すら無くなっていた。
はらり、と黒い布が落ちると潰れていた眼球が元通りになって、左と同じ氷河色の瞳が現れた。
「主……」
従者の青年が信じられないものを見るようにクリスティアンを凝視した。
クリスティアンは自分の頬に手を当てた。抉れていた傷の感触が無い。左眼を覆ってみた。無くした筈の右眼にブラッドの小さな手が見えた。
クリスティアンは謂わず自分の血がついたブラッドの手を両手で宝玉のように捧げ持ち、手の甲を額につけ、それから口づけた。
「白の御方。……言葉にしきれぬ感謝を何と伝えたら良いか……」
クリスティアンはブラッドを白の御方と呼んだ。それは、ブラッドが白竜だと知っての事だろうが、レオンは何も言わなかった。
(傷は治せたけど…、まだ、躰の中に黒い汚れが残ってるから……)
ブラッドは自分の掌をクリスティアンの手に重ねた。
「白の御方……?」
クリスティアンの掌に親指の爪ほどの大きさの真珠が三粒あった。
(これを飲んで。黒いのが消えるから)
クリスティアンは真珠とブラッドの顔を交互に見た。ブラッドはにこりと微笑むと、再び眼を閉じて眠りについた。もう起きていられないようだった。
「…白竜の真珠は、全ての穢れを浄化する宝珠だ」
途方に暮れた表情のクリスティアンに、ブラッドの代わりにレオンが説明した。
「王子の身の内の穢れは、白竜の真珠でなければ浄化出来ないとブラッドが判断したのだろう」
「穢れ…」
「一つは王子に。一つは、王子の大事な人にとブラッドが言っている」
肉体は体力の限界で眠ってしまったが、僅かに覚醒している意識がレオンに伝えてくる。
「残り一つは……」
「どう使うかは王子の判断に任せる、と」
レオンは抑揚なく続けた。
「この真珠は清浄の塊だ。薬にも毒にもなる」
救いとするか裁きとするか。
クリスティアンは真珠を握り締めた拳を胸に当て、レオンに大きく頷いた。
「白の御方、心を砕いて下さり、誠に深く感謝致します」
今一度、クリスティアンは深く頭を下げた。
それを機に、レオンは立ち上がった。
真珠を作った事で、ブラッドの回復しかけていた魔力が一気に減ったのを感じた。表情には出さなかったが、いよいよ猶予が無くなってきた焦燥感で胸の奥がちりちりする。
「侯爵、辺境伯。ここからは部外者はおらん方がいいだろう。それに、ブラッドを休ませなくてはならん」
言外に限界と別れを告げた。
「そうだね。眼が醒めたら、頑張ってくれてありがとうと伝えてくれるかな」
フェリックスが立ち上がってブラッドの頭を撫でた。ローザリンデも続いてブラッドの頬を愛しげに撫でた。
「ご馳走を用意しているから、いつでも館に寄ってくれ」
ジークムントはブラッドの頬を指で突付いてからレオンを睨むように見た。
「ブラッドを…頼んだ」
「言われなくとも」
片頬で笑い、レオンはブラッドを抱いて天幕を出た。
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