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第135話

 ブラッドを抱えて天幕を出たレオンに気づいたアルベルトが、血相を変えて駆けて来た。 「ブラッド?! 大丈夫なのか?」  自分を呼ぶアルベルトの悲痛な声に、ブラッドは眼を開けようと必死に藻掻いた。   けれど疲れた躰は正直だ。気持ちとは反対に、瞼はぴくりとも動かない。更に、意識は今にも眠りの泉に沈もうとしている。 (アルさん……)  力無く、くったりとレオンに身を預けているブラッドの血の気の無い頬に、アルベルトはそっと手を当てた。 「…温かい…」  安堵の息を吐き、アルベルトはブラッドの頬を撫でた。 「ありがとう、ブラッド」  アルベルトは目を細めてブラッドを愛しげに見つめた。  末っ子のアルベルトにとり、ブラッドは目の離せない弟のようだった。多少ぞんざいに扱っても大丈夫な頑健な兄達とは違い、ブラッドは囲い込んで護ってやりたい存在でもあった。  油断から大怪我を負った自分を甲斐甲斐しく看病してくれた。当初の診断よりも早く竜騎士に復帰出来たのは、ブラッドの手当てのお陰だと確信している。  ユリウスの技倆もあるが、あれだけ深く斬られた傷が膿む事もなく、傷口が引き攣れずきれいに塞がったのだ。  奇跡だよ、とユリウスが言っていた。   「早く良くなるといいですね」  常にそう言いながら背中に薬を塗布していたブラッド。その素直な思いやりの気持ちが、治癒を早める効果があったのかもしれない。 「あの雨は君だよね? 俺達だけでなく、竜達も凄く元気になったよ。ありがとう」  頬を撫でていた指を絡めた。癖っ毛なのに、柔らかく指通りが良い。 「…ブラッドが、背中の傷痕を消せると言っているが……」  はっとしてアルベルトはレオンを見上げた。 「もう一枚くらいなら鱗を出せる。それを飲めば背中の傷痕は治せると」  アルベルトは微笑を浮かべて首を横に振った。 「暖かい季節はいいが、雨の日や寒い季節は痛むかもしれないぞ」 「いいんだ。これは俺の失態の証だ。この傷痕がある限り、俺はこれから先、慢心せずに前へ進める」  大きな失態をせずに今までこれた。実力はある。それは驕りではなく事実だ。  だが、それが慢心に繋がった。赤面して大声で喚き散らしたいくらい恥ずかしい。 「また…会えるかな?」 「時間はかかるが、必ず会いに行く、とブラッドが言っている」 「そう……。ユリウス先生とグレアムとマキシムが会いたがっていたよ」  アルベルトは名残惜しげに赤髪から指を離した。 「さよならは言わないよ。元気で、また会おうね」  レオンの腕の中でブラッドの口許が綻んだ。  ブラッドとレオンを見送ると、ローザリンデは胸の奥に出来た隙間を自覚した。    ブラッドの初対面の印象は、人の指示に唯々諾々と大人しく従うだけの無害な少年だった。他の見習いの少年らの仕事まで押し付けられても、一言も抗議すらせず黙々とこなしていた。  愚鈍で馬鹿正直。  だが、指示待ちで何も考えずにいたのではないと、直ぐに気がついた。  周囲をよく観察し、手が足りていない所を見つけては率先して仕事をしていた。要領も手順も決して悪くない。  それどころか、調教師が気がつかない部分を補ってさえいた。  竜騎士以外には執着がなく、気まぐれな気質の騎竜の機嫌を常に良くしていたのはブラッドだった。  どうすれば心地良く、そして健康的に過ごせるかを常に考えていたのだろう。  ブラッドが手掛けた竜舎はゴミ一つ落ちておらず、清潔で空気も澄んでいた。  賢い子だと分かった。  従者に欲しいと思った。  手元に置いて育てたいと思った。  フェリックスが先に目をつけていたのが業腹だったが……。  今はブラッドの平穏と幸せを心から祈ろう。最愛と出会えた…いや、再開出来た幸運を。  あれが終わってから。  この仕事を済ませてから。  邪魔を全て片付けてから。  等と色々と考えている内に、最高の人材となる筈だった宝物(ブラッド)を攫われてしまった。  フェリックスは連れ去られてしまったブラッド惜しんだが表情には出さず、クリスティアン王子に椅子を勧めた。  一番最初に目をつけたのは私なのに、次から次へと邪魔者が現れた。  内戦で失った優秀な人材を身分問わず掻き集めている内に、優秀な者を見出す事が楽しくなっていた。育てた者を戦で荒れた領地に派遣すると、期待以上の働きをしてくれた。    数年前、領政に忙殺されていたフェリックスは、国王直轄地の城代を任されてしまった。断ろうにも人手不足な上、軽々に任せられる人物がおらず引き受けざるを得なかった。  ところが、渋々訪れた港街には賢者と名高いクレーメンス老が育てた金の卵がゴロゴロいた。眼を輝かせて欲しい、と切望した者の殆どが街の運営に欠かせない要職についており、勧誘は泣く泣く諦めた。  それならばとフェリックスは優秀な人材を世に出る前に引き抜く為に、表向きは経験な信者の顔で、神殿や孤児院に多額の寄附をした。そして、神殿に詣でた際は、必ず養護院や孤児院を見学した。  ブラッドと邂逅する機会は生憎無かったが、賢者の弟子の中で最も優秀な者が孤児院を卒院した情報はちゃっかり得ていた。  街で重要な地位に着く前に何としても確保せねばと、フェリックスは治安維持を名目に自分の騎士団と金を投入した。  他国との貿易の窓口となっいる港街は、多民族の商隊で溢れていた。当然、行儀の良い商隊ばかりではなく、日々、何かしらの問題が起きていた。  大概は街の治安維持を担った警備隊で事足りたが、中には袖の下を受け取って悪事に加担する不届者もいた。  見目の良い者が多い国柄、国内では禁止されている奴隷売買を生業としている商人に目をつけられ、攫われる者が多数出ていた。特に子供の被害が多く、取り締まっても次から次へと現れるイタチごっこだった。  だが、何もしなければ被害者は増える一方だ。    あの日は、なかなか尻尾を出さない奴隷商から奴隷が一人逃げ出したという情報がもたらされた。フェリックスと騎士団が奴隷の少年を保護すると同時に、彼の代わりに連れ去られた少年がいるらしいと知った。  フェリックスは騎士団と警備隊を総動員し、目撃証言を集め、船が出航する寸前に件の奴隷商を捕えた。  そこで救出されたのがブラッドだった。  年齢のわりに幼い印象の少年だった。  怯えきって震えているほっそりした肩。    恐怖で強張っていた後の、安堵の幼けない笑顔。  嗜虐趣味の変態親爺にでも買われていたら大変だった。  フェリックスだけでなく、騎士団はブラッドを保護出来た事に安堵の息を吐いた。  ブラッドは少し会話しただけで、賢く教養のある少年だと分かった。更に、騎竜らの興味津々でありながら、愛情に溢れた接し方から伝承にあった『愛し子』ではないかと推測した。    優秀な上に『愛し子』か。    諸々が片付いたら自領に連れ帰るつもりだったのだが、次から次へと仕事が山積みとなり、同じ城にいるのに会いに行く暇が無い。  それらを順番に片付けている間に、今度は自ら狼(竜)の口に飛び込んで行くとは……!  まぁ、運命と言えば運命なのだろうな。  フェリックスは残念に思いながらも、ローザリンデと同様にブラッドの幸福を願った。  太い柱程ある水晶が淡い光を放ちながら縦横無尽に伸びている洞窟の奥で、深い湖の底で蒼竜が丸くなっていた。  尾を自分の鼻先までくっつけ、時折、薄っすらと眼を開けて腹部で横たわる赤髪の少年を愛しげに見つめた。  鼻で赤髪にそっと触れると、少年の口許が綻んだが眼は固く閉じられたままだった。  それでも蒼竜は満足げに眼を細め、飽く事なく寝顔を見つめ続け、やがて頬を少年に寄せて自分も眼を閉じた。           

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