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第137話

 躰を包み込む力強い腕。  菫色の薄明かり。    時折、コポコポと音を立てて浮上していく気泡。 (えっ?)  はっきりと覚醒したブラッドは、思わずレオンの胸にしがみついた。 (み、水の中?!)  視界の端を極彩色の布がひらひらと流れていく。何となく眼で追うと、綺麗な布切れだと思ったものは、小石程の大きさの尾ひれの長い魚だった。  秋の紅葉が舞うように泳いでいく小魚の群れ。海の底を思わせる藍色の大鯰。  更に紫や真紅、黄色や青の光沢のある蝶が飛んでいる。 (えっ? 魚がいるから水の中だよね?)  長い尾を靡かせて空色の大きな鳥が頭上を旋回しており、背ビレを揺らして近づいて来た丸い小魚に頬を突かれ、ブラッドは思わず口を開けてしまった。  コポリ、と大きな泡が出た。しまったと思ったが、鼻と口には水ではなく空気が入ってきた。 「ぼ、ぼく、息をしてる?!」  夢を見ているかと思ったが、魚に頬を突かれた感触で目が覚めている事を自覚した。 「ブラッド、落ち着け。ほら、先ずは深呼吸してみようか」 「えっ? だって水の中だよ? どうして息してるの? おっ、溺れちゃうよ?!」  レオンはくすりと笑って、ブラッドの唇に自分の唇を食む様に重ねて息を吹き込んだ。 「んっ…」    そのまま軽く噛んで吸い上げ、ちゅっと音を立てて唇を離す。  大きな眼を何度か瞬きをし、ブラッドはレオンを見上げた。  魚が泳いでいるのに鳥が飛んでいる。  蝶もいる。  唇を離した時、音が聞こえた。ちょっと恥ずかしかったけど。  つまり、空気がある、という事だ。 「レオン…ここは…?」   「ここは仙境の魔力溜まりと呼ばれている場所だ」 「魔力溜まり…」  レオンはブラッドを抱き上げ、底を軽く蹴った。ゆっくり浮上していくと、微かに水中にいるような抵抗を感じる。  けれど呼吸はできる。 「仙境では、時たま濃い魔力の溜まり場が出来るんだ。例えるなら…霧や雲みたいなものだな。それが水のように見えるんだ」 「魚が泳いでるし…蝶々も鳥もいるよ?」 「あれらは魔力を好む魔物だ」 「魔物?! あんなに綺麗なのに?」 「魔物と言っても精霊や妖精に近いな。限りなく清浄な場に集まるモノ達だ」 「精霊や妖精…」  浮上していく二人の周りを極彩色の魚が泳ぎ、頭上を尾が長い鳥が旋回しており、自分達を誘導しているように見えた。    やがて、魔力溜まりから出ると、レオンは水晶の柱が乱立する回廊に降り立った。  そこは魔力が巨大な水晶の結晶となった洞窟だった。仄かに青白い光を放ち、天井や床からと縦横無尽に水晶が伸びていた。  それらは、白濁しているものや七色だったり、向こうが透けて見える程の、濁りの全く無い透明なものなど様々だった。  ここには極彩色の魚はいなかったが、色とりどりの蝶が乱舞し、掌より大きな蜻蛉まで飛んでいる。  蜻蛉や蝶に見惚れていたブラッドは、鏡のように滑らかな水晶に映った自分の姿を見て眼を瞠った。  くせのある猫っ毛の赤髪が背中まで長く伸びて揺れていた。更に顔が大人っぽくなっているような気がする……。  思わず自分の顔を撫でてみる。そこで、水晶に映っている自分が、裸に薄衣を纏っているだけだと気づいた。   「レオン…、あの、ぼく、ふ…服を着てない……」 「ブラッドは、大分、寝坊したからな」 「その、寝坊って…どのくらい…? 寝坊したら服を着てないって…??」 「ああ。最初の予想よりは短かったが…」  レオンは微笑み、 「五年ちょっと、だ」 「五年っ?!」 「最初の予想は十年くらいだった」 「十……」  立ち止まり、レオンはブラッドを見下ろした。 「…本当は百年くらいを覚悟していた。もしかしたら、それ以上かもしれないとも。それくらいブラッドの魔力は底をついていたんだ……」  長い睫毛が苦しげに伏せられた。自分がレオンを悲しませてしまったらしい事に、ブラッドは申し訳無さに胸が締めつけられた。  けれど、それと裸なのが繋がらない。 「あの、ごめんね。ぼく、レオンに迷惑をかけてしまったみたいで…。でも、その、どうして、は…裸なの、かな?」  ブラッドの問いに、レオンは表情を一変させ、にっこり笑った。 「五年の間に背が伸びて、服が小さくなって窮屈そうだったから脱がせたんだよ」  そんな嬉しそうに……。 「大丈夫。俺しか見てないから」  見たんだ…。  同年代の平均的な同性の成育より少々遅れていたブラッドは、眠っていた五年の間に身長が伸びていた。     純粋で濃密な魔力が躰を満たした事で、成長を阻害していた魔力詰りが完全に取り除かれたからだ。  幼さを残していた丸みを帯びていた顔立ちからは幼さ消え、滑らかな頬には精悍さが加わった。肌艶も良くなり、ふっくらした唇は健康的な血色を取り戻していた。  ブラッドは気がついていないが、薄衣から伸びている脚は、一層白く艶めかしく輝いてレオンの眼を楽しませていた。  ひらひら飛んでいた青い蝶がブラッドの鼻に止まった。 「あ…」  どうしたら良いか分からず固まってしまったブラッドに代わり、レオンは息を吹きかけて蝶を追い払った。 「こいつらは質の良い魔力を好む。ブラッドの魔力は透明で質が良いから吸いに来たんだろう」  眉間に皺を寄せてレオンが答えた。 「レオン?」 「図々しい奴らだ」  苛ついたように言いながら、レオンはブラッドの鼻の頭に唇を落とした。そのまま吸い上げ、軽く噛んだ。 「ひゃあっ」  背中から腰にかけて震えが走った。痛みよりゾクゾクした感覚に戸惑い、ブラッドはぎゅっと眼を閉じた。   レオンの唇は鼻から額に、こめかみから頬を通って耳朶を食んだ。軽く吸い、更に耳殻を舌でなぞった。 「ふぅっ…、うっ…んん……」  鼻から抜けるような声を上げてしまい、ブラッドは真っ赤になって首を竦めた。レオンの唇から逃れる事も出来ず、ブラッドは熱い吐息に躰を震わせた。  鼓膜を刺激する水音に躰の奥が切なさを感じ始めた。そこから気を紛らわすようにブラッドは更にぎゅっと眼を瞑り、声を押し殺してレオンの胸にしがみついた。  その様子に気を良くしたレオンは、ブラッドの形の良い耳を存分に味わい、最後に熱い息を吹きかけてから唇を離した。  甘い拷問に全身から力が抜け切ってしまったブラッドは、くったりとレオンに躰を預けて熱い吐息を吐いた。  微々たる量とはいえ、魔物がブラッドから魔力を吸おうとしたのが気に食わなかった。だが、自分に躰を預け切ったブラッドの様子に、レオンの気分は上向いた。  無意識に躰の熱を出そうと半開きになったブラッドの唇に誘惑され、レオンは自分の唇を寄せた。 『妾の管理する魔力溜まりは連れ込み宿ではないぞ!』  回廊に女性の声が響き、ブラッドはハッと眼を開けた。  見上げると、白い小鳥がレオンの頭を突いていた。 「チッ…」  レオンは盛大に舌打ちをした。     

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