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第138話
「全く、呆れてものも言えぬわ」
雪のように真っ白で艷やかな髪を掻き上げ、妙齢の美女が冷ややかに言った。床まで伸びた髪は、美女が頭を軽く振ると、その動きに連動して意思があるかのように揺れた。
「すまなかった。つい、浮かれてしまった」
レオンは素直に謝罪した。椅子に座った己の膝に乗せたブラッドに対して。
「レオン…、あの、ぼく、一人で座れるよ?」
「俺がこうしていたいだけだ」
レオンはブラッドの躰に回した腕に力を入れた。
「でも、ひ、人前だし…」
「駄目か…?」
悲しげに問われ、ブラッドはそれ以上何も言えなくなった。
「今から甘やかしておると、この先苦労するぞ小僧。ほれ、そやつには構わず、先ずは茶を飲むが良い。薬草をたっぷり入れておいたぞ」
円卓に置かれた茶器からは、温かな湯気が立っていた。
しかし、波々と注がれた毒々しい紫の液体に怖気づいて、茶器を持ったものの口に運ぶ勇気がない。
「遠慮するでない」
美女がにこにことブラッドに飲むよう促す。
「ブラッド、大丈夫だ。毒は入っていない。おばばが淹れるお茶は、何故か全部この色になるんだ」
「え?」
(おばば?)
円卓を挟んで座っている妙齢の美女は、とても『おばば』と呼ばれるような年齢には見えない。それこそ年寄り呼ばわりなどしたら激怒しそうな若々しさだ。
「おばばは遠視の魔女と呼ばれている技倆の良い薬師だ。薬膳料理が得意なのだが…。まぁ、色は気にするな。それから、こう見えて千年以上は生きている」
「千……?」
「本当はヨボヨボの年寄りのくせに、有り余る魔力で若作りしているだけの、ほぼ妖怪ばばあだ」
「ふん。妾から見れば其方は、今だ卵の殻を引っ付けた小僧っ子ぞ」
美女がじろりとレオンを睨めつけた。
「妾の管理する魔力溜まりでなくば、小僧はもう百年は起きなかったぞ」
「その点は感謝している。本当に助かった」
レオンは素直に頭を下げた。
気心の知れた会話に、レオンのおばばに対する信頼が窺えた。
毒々しい色だが、茶器からは複数の薬草の香りがした。
息を吹きかけ、ブラッドは一口茶を含んだ。
「美味しい…」
香水茅の爽やかな香りが鼻腔に広がり、僅かな薄荷が胃に染み込み、躰の奥がじんわりと温かくなった。
口元を綻ばさせて茶を飲むブラッドを、レオンとおばばは慈愛に満ちた表情で見つめた。
長い眠りから目醒めたブラッドを抱き上げてレオンが水晶の回廊から出ると、外は鬱蒼とした森の中だった。回廊の出入り口らしい崖の亀裂から数歩離れると、ほうぼうから蔦が生き物のように伸びてきて、あっという間に覆ってしまった。
亀裂の隙間も見えない程、崖にびっしりと蔦が絡まったのを確認したレオンは、ブラッドを抱えたまま空に浮き上がった。仙境では魔力が満ちており、翼を出さなくても飛ぶ事が可能なのだ。
程なくして、レオンは小山程もある巨木と一体化した木造の家の前に降り立った。
その家は、膝下から背丈以上に伸びた様々な草花に周囲を覆われており、巨木には薄紫の小さな花が連なって下がり風に揺れて芳香を放っていた。
レオンはブラッドを抱いたまま躊躇いもなく、その家に入った。家の中は外見からの想像以上に広く、天井が高い。天窓から覗く枝葉の隙間からは、柔らかな陽光が差していた。
「ようやく目醒られたか白竜殿」
気配もなく現れた美女に白竜と呼ばれ、ブラッドは眼を瞬いた。
実際、ブラッドには竜身となっていた自覚が殆どない。どこか夢現で、自分が何をして何を喋ったのか、断片的でぼんやりとしか覚えていなかった。
ただ、『白竜』と呼ばれると何だかお尻の辺りがむず痒い。自覚の無い竜の名で呼ばれても自分の事でないような気がする。
ブラッドが名前で呼んで欲しいと頼むと、美女は首を傾げて妖艶に微笑した。
「ふむ……。まぁ、小僧はレオンと伴侶の鱗を交わしておるし大丈夫であろう」
彼女の言葉にブラッドは首を傾げた。
「魔力が強い魔女は、名前を呼ぶだけで相手を縛り付ける事が出来るんだ。だから、おばばのように魔力が強い魔女は、相手を渾名で呼ぶんだ」
「意識して呼ばねば縛れぬよ。安心おし。それに、小僧は仙境でも最強種の竜で、その上、滅多におらぬ特殊な竜じゃ」
他の竜と魔力の質が通常と異なる白竜は、魔術による縛りを受け付けない。術による拘束や呪いを無意識に無効化してしまうのだと、レオンが説明した。
「白竜は竜というより、精霊王や神に近いという方が正しいかもしれぬ」
「そんな…畏れ多いです…」
「いやいや、あれだけの呪いの汚染を浄化したのじゃ。あのままでは、数百年…千年は生き物どころか、草木の生えぬ不毛の地となっていたであろうよ」
人から発した憎悪が膨れ上がり、大地を汚染し、更にあらゆる生物を死滅へと向かわせたのだ。
それは少しずつではあるが、次元の異なる仙境にも影響が出始めていた。その発端の場所は、遠見でレオンに探し人いるかもしれぬと告げた場所だった。
遠視の魔女は使い魔の小鳥に意識を同調させ、人界へと転移した。
異界から異界へと転移するのは難しい事ではない。ましてや、レオンという高位の竜の確固たる目印があった。
だが、戦場に広る呪詛の瘴気に遠視の魔女は途方に暮れた。高名な魔女といえど、呪詛の浄化は不可能だった。
ところが、思いがけなく嬉しい誤算があった。
まさか、レオンと伴侶の鱗を交わし合ったブラッドが遥か昔に滅びたとされる『白竜』だったとは。
完全な成体の白竜ではなかったが、蒼竜の力を借り、汚染された広大な大地を浄化してしまった。その上、本人は無意識であろうが大地に祝福を与えていた。
数百年かけて元の森に戻るところを数日で甦らせてしまった。伝承の白竜でさえ成し得なたか分からない偉業だ。
奇跡と言ってもいい。
しかし、一歩間違えば、魔力の枯渇で死んでおたかもしれない。伴侶が…蒼竜がいたからこそ生き延びられた。
偶然なのか必然なのか。
遠視の魔女と呼ばれているが、そこまではさすがに見通せなかった。いや、視る事自体は出来る。が、無理に視なくてもよいと今は思う。
奇跡で良いではないか、と……。
「ところで、小僧、対価を頂こうかの?」
「対価?」
「おばば! それは俺が後で言い値で払うと言っただろう!」
いいや、と首を横に振り、おばばはブラッドに視線を合わせた。
「小僧、妾の管理する魔力溜まりを十年も独占したのじゃからな。その間、妾はその場を使えなんだ」
「はい…」
「生命の危機故、それは仕方がない。したが、妾の仕事が滞ったのも事実ぞ。そこからしか取れぬ薬の素材が多々あり、調合の出来ぬ薬があったのじゃ。それに対する対価は、其方に支払ってもらわねば物事の均衡が取れぬ」
「ぼくに出来る事であれば…。ただ、その、ぼくにはお金が無いので…」
「妾は金銭には困っておらぬ。ふむ、人間に渡した真珠。あれが良いの。あれを数粒くれぬか」
「真珠……」
北方国の王子に渡した大粒の真珠。
銀色に輝く美しい人。右眼を潰され、頬には無惨な傷痕があったが、それらは少しも彼の美貌を損なってはいなかった。
表面の傷は癒やしたが、内側に残っていた毒々しい穢れは祓い切れなかった。それならば、と浄化の力の塊でもある真珠を渡した。
その真珠を体内に取り込む事で、内側から穢れを浄化する事が出来るからだ。
だが……。
茶器を卓上に置くと、ブラッドはきつく瞼を閉じて両手を握った。意識を握った掌に集中する。
真珠を出した時の感覚を必死に思い出そうとした。
湯気が立っていた茶がすっかり冷めきった頃、ブラッドは薄っすらと瞼を開けた。
「…ごめんなさい……」
ブラッドはおばばに向けて両手開いた。
真珠は現れなかった。
あの時、どうやって真珠を出したのか全く思い出せない。竜身になった事すら覚えていないのだ。
「困ったの」
「すみません……」
ブラッドは肩を竦めて躰を小さくした。
どんなに真珠を出した時の感覚を思い出そうとしても、その前後の記憶が曖昧なのだ。思い出そうとすると頭に霞がかかり、その行為を何かが邪魔しているようだ。
「新薬の開発の素材に、白竜の真珠を是非とも研究してみたかったのだがの……」
そう言われると、益々躰を縮めるしかない。
「おばば、無理は言うな。それに、あれは白竜の…ブラッドの魔力そのものだ。それで薬が出来たとしても、真珠が無ければ続けて作れないだろう」
「ま、言うてみただけじゃ。では、髪を一房くれぬか」
「髪?」
そういえば眠っていた間にずいぶん伸びたなと、ブラッドは自分髪を触った。
癖っ毛で猫毛。絡まりやすく、櫛で梳かすとよく引っかかる。
「素材の研究をするだけじゃ。薬にはせぬよ」
「短く切るので、お好きなだけ。髪の毛なんかでいいんですか?」
「太っ腹じゃの! ありがたく頂こう!」
「切るのかっ?!」
おばばは満面の笑みで手を叩き、レオンは眉尻を下げて「似合っているのに」と嘆いた。
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