139 / 156
第139話
肩ほどで髪を切ったブラッドは、レオンが用意した服を身に着けた。一目で上質と分かる服で受け取るのを躊躇ってしまったけれど、いつまでも裸で布を纏っているだけなのも心許ない。
着心地が良く肌触りも良い。
絹の中でも最高品質だと分かる。光沢はあるが光り過ぎない上品さ。落ち着いた若草色のチュニックが、ブラッドの赤毛を引き立てていた。
おばばは稀少な白竜の髪の毛が手に入ったと、ほくほく顔で奥に引っ込んでしまった。どんな研究をするのか気になったがブラッドは黙する事にした。
「腹は空いていないか?」
ブラッドの跳ねた髪を指で梳いて整えながらレオンが訊ねた。
おばばの毒々しい色の薬草茶のお陰か空腹は感じなかった。ブラッドは「大丈夫」と答え、改めてレオンを見上げてみた。
十年間眠っていたと言われたが、レオンは全く変わっていなかった。年を取ったようには全く見えないし、ブラッドに向けられた蒼穹の瞳は記憶のままで、優しく慈愛に満ちていた。
けれど…輪郭が少し鋭敏になったような気がする。青年特有の危うさが無くなり、若干、落ち着いた雰囲気が加わったよう気がする。
「ブラッド?」
声にも何だか艷やかさが増したように感じる。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
眉を顰めて心配顔になったレオンに、ブラッドは慌てて首を横に振った。
「な、何でもないよっ」
「そうか? 少しの違和感でもあったら言えよ? 長く眠っていたんだからな」
ブラッドは手を握ったり開いたりしてみた。動きに違和感は無い。
レオンの膝から降りて立ってみた。
そっと歩き出す。
ひんやりした床の感触に裸足だった事に気づいた。
十年眠っていたわりに筋肉が萎えた様子も無い。自分の躰を支えられるし、ぐらつく様子も無い。
思い切って飛び跳ねてみた。
着地と同時に軽い目眩を感じ、躰から力が抜けてしまい、その場にしゃがみ込んでしまった。
「ブラッド!」
レオンに再び抱き上げられ、軽く睨まれた。
「無茶をするな。魔力溜まりにいたといえど十年眠っていたんだ。どんな作用があるか分からないんだぞ」
「うん…。ごめんなさい…」
「気分は悪くないか?」
「ちょっとびっくりしただけ…」
具合が悪いとかではなく、背が伸びた事で平衡感覚がついてこなかったらしい。
それでもレオンの腕の中にすっぽり抱え込まれてしまうのだから、思っているより背は伸びていないのかもしれない……。
「ぼくが眠っている間、レオンはどうしていたの?」
まさか、ずっと傍にいたのだろうか。自分の回復に付き合って魔力溜まりの水底から出られなかったのだろうか。長い間、自分の傍に縛りつけていたのだとしたら…。
そう思うと胃の上辺りがキュッと縮む。
「気にするな」
レオンはブラッドくせっ毛の赤髪を優しく撫で、つむじに軽い音を立てて口吻をした。
「お前の症状が落ち着いた頃から、俺は何回か外に出ている」
「そうなの?」
レオンは口元を綻ばさせて頷いた。
伴侶の鱗を交換しているお陰で、どんなに遠く離れたとしても……例え大陸の端と端に離れたとしてもお互いの居場所が分かる。それは境界を挟んだとしても、だ。
そうでなくては伴侶を得た竜人族は、一時たりとも互いに離れられない。だが、呪縛に似た愛する者への執着は、それは竜人族にとって寧ろ祝福。
腕の中にある愛しい幸い。
それを実感出来る多幸感。
手放す事など想像すらしたくない。
研究に夢中になると昼夜を問わず籠もりきりになるおばばは放おっておく事にし、レオンはブラッドの質問に答える形で十年の間の出来事を語った。
大地の完全な浄化は勿論、人々の体内に蓄積された呪詛の穢れは、白竜の鱗を煎じた薬湯を飲む事で解消された。騎竜も同様に与えられると、以前よりも鱗は輝きを増し、鬣も艷やかになった。
卵から孵ったばかりの小竜は特に瀕死状態だったが、今では成竜の半分まで成長し、少々ヤンチャな竜となった。最近は火の性質が顕著になり、口から小さい火を吹くまでになった。
まだまだ人を乗せて飛ばせる事は出来ないが、早くも相性の良い相手が現れた。
「その小竜、今は辺境伯領にいる。辺境伯からは、いつでも自由に会いに来てくれとの事だ」
「雛竜の世話をしてみたかったなぁ…」
「それくらい、これからいくらでも機会があるさ」
「レオン…」
「俺と旅をするんだろう?」
「うん!」
嬉しくなったブラッドは体勢を変えてレオンに抱きついた。
育てられなくなった竜の卵を探して保護をする。そして様々な国を二人で旅をするのだ。未知の景色を見るために。
「あ、そうだ」
レオンは思い出したように声を上げた。
「辺境伯だが……」
「伯爵さまがどうかしたの?」
「ああ。あの紛争の後、ローザリンデ辺境伯とオイレンブルク侯爵が結婚したんだ」
「けっ……こんって……? 結婚っ?!!」
北方国軍を退け、紛争後の賠償やら周辺住民の保護やらを突貫で片付けて王都に戻ったフェリックス・フォン・オイレンブルク侯爵を待っていたのは、山と積まれた令嬢の釣書きだった。
国王への報告を終え、漸く執務室に移動したフェリックスは柔和な微笑みを張り付けたまま、執務机に積まれた釣書きの山から眼を逸らせた。
冷えた視線で問われた秘書官は背を伸ばし、野蛮な北方国軍を退けた英雄であるオイレンブルク侯爵への婚姻の申込みであると答えた。
内戦では一貫して国王を支え、突如侵攻してきた北方国軍を退けた英雄。更に、未だ決まった婚約者のいない美貌の貴公子である。
政治的にも容姿的にも、フェリックスは明るい将来が確約された結婚相手として最優良物件なのだ。
「取り敢えず、このままでは仕事が出来ない。これは片付けておくれ」
「は…。では、閣下の控室に置いておきましょう…か…?」
フェリックスの切れ長の目が細められ、室内の温度があからさまに下がった。書類を抱えて部屋に入ろうとした役人の足が止まり、秘書官の背中に汗が流れた。
「この塵は厨房の焚き付けにでもしてくれないか」
「は…その…しかし……」
釣書きの中には公爵家などの高位貴族のものもある。一概に全て片付けてしまって良いとは思えないのだが、目の前のフェリックスが醸し出す空気が鋭い刃となり、今にも秘書官の首を斬り落としそうだ。
「直ちに片付けます!」
秘書官は偶々通りかかった役人を巻き込んで、いくつかの山となっていた釣書きを抱えて部屋から逃げるように出て行った。
すっきりした机上には新たに書類が積まれたが、フェリックスは清々しい顔で仕事に取りかかった。
同じく紛争の後片付けを大方済ませ、辺境伯の館に戻ったローザリンデに待っていたのは婚約の申込みの山だった。
辺境伯であるローザリンデは他領に嫁ぐ事は出来ない。その為、高位から下位貴族の次男、三男以下からの入婿の申し出が殆どであった。
ローザリンデに釣り合う年齢が大半だったが、中には成人したばかりの少年や、連れ合いを亡くして当主を引退した、かなり年上の者もいた。
家宰から淡々と語られる内容に口元を引き攣らせ、ローザリンデは鎧を脱がずに音を立てて長椅子に腰を下ろした。
「年寄りはまだしも、成人したばかりの子供だと?! 馬鹿にしておるのかっ! 私は小児性愛者ではないぞっ!!!」
戦場では自軍を鼓舞し、敵方を威圧する怒号だが家宰にはそよ風程度。
「それはお館様の責任でございます」
「何だと?」
「なりふり構わず可愛らしい赤い子栗鼠を連れてらしたのはお館様でしたな」
「む」
「愛らしいだけでなく、賢く気遣いの出来る子栗鼠でした。あのまま居れば、管財人を任せられる人物になったでしょう。お館様の慧眼には頭が下がります」
自信の無さを憐れんだ部分はあったが、賢さをたたえた瞳と命に対して真摯に向き合う姿勢に強く惹かれた。上手く育て上げればクレーメンス師と同等の…いや、それ以上の賢者になり得たかもしれない。
そう思うと、みすみすレオンに渡してしまったのが惜しい。
「しかし、あからさまに子栗鼠を連れて来たお館様を見て、辺境伯は少年がお好みらしい、と噂を立てられたのは詰めが甘もうございましたな」
「ぬぅ…」
「入婿を申し込んでこられた方々のご容姿ですが、皆様、赤髪もしくは赤に近い髪色でございますよ」
「…私はブラッドが可愛いだけで、赤髪の子供が好きな訳じゃなーーーいっ!!!」
叫んだ後、ローザリンデは肩を大きく上下させて息を吐いた。
ともだちにシェアしよう!