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第142話
「お方様のお部屋はこちらになります」
『伴侶』でなく名前で呼んで欲しいと頼んだら『お方様』と呼ばれる事になった。
名前呼びは、何故かレオンが頑なに頷かなったからだ。その様子に執事は薄っすらと笑いながらブラッドに耳打ちした。
「自分以外の者に、ご伴侶様のお名を呼ばれるのがお嫌なのですよ。ただの嫉妬でございます。お心が狭いですね」
ブラッドは真っ赤になってレオンを見上げた。執事の言葉が聞こえていた筈のレオンは否定しなかった。
どちらにしても、何だかこそばゆいのだけど……。
昼食後、アンネリーに案内された部屋は湖に面した東側の二階だった。大きな窓の外にある露台からは、陽光を反射して輝いている湖が見えた。
落ち着いた薄緑の壁には、雷を纏った青い竜の図案が織られた壁掛けが掛けられていた。西側の扉を開けると寝室に繋がっており、天蓋付きの大きな寝台があった。
「こちらの内扉は旦那様のお部屋でございます」
南の扉の前にアンネリーが立ちながら言った。
「旦那様のお渡りの際は、こちらからいらっしゃいます」
「お渡り……?」
「はい。いつお渡りになられても良いように、私が腕によりをかけて準備をお手伝い致します」
「準備……」
「ええ。気負う必要はございませんよ。私が全て用意致しますから、どうぞご安心下さい」
アンネリーはブラッドを安心させるように、にっこりと笑った。
ありがとうございます、と小さく返しながら、ブラッドの頭の中には疑問符だらけだった。
お渡り?
準備?
何の??
昼食を食べ終わった途端、ゲオルグによってブラッドはアンネリーに預けられ、レオンは有無を言わさず執務室に押し込められた。
「旦那様のお帰りを今か今かと心から待ち侘びておりました」
執務机に紙の束を積みながらゲオルグが言った。
「家宰の権限で出来るだけ決裁は済ませてあります。ですが、当主直々の決裁が溜まりに溜まっております」
眉間に深い縦じわを作り、レオンは執務机の書類とゲオルグを交互に睨んだ。戦場で敵兵を容赦無く斬り伏せる際の殺気を孕んだ視線を、ゲオルグは無表情でそよ風のごとく受け流した。
「睨んだところで書類は消えませんよ。さぁさぁ、さっさと読んで署名をして領主印を押して下さい。決裁が済んでない為に滞っている案件が山のようにあるんですからね」
「何だ、その案件というのは」
「読めば分かりますよ」
ゲオルグの冷ややかな口調に、レオンは片眉を跳ね上げた。
何か言おうと口を開けたレオンの前に、ゲオルグが書類の山からいくつか束を抜いて差し出した。
「最優先事項です」
乱暴に掴み取って目を通す。
災害による土木事業と療養所施工に関する書類だった。領地を離れていた間に起きた自然災害と、そこから発生した疫病による被害状況が詳細に記されてあった。
竜人族と言えど、平民は竜身にはなれない。躰は頑健だが、人族と同じように病気に罹患もする。
また、魔力もそれ程高くなく、寿命も貴族の半分程度だ。それ故、平民は庇護の対象なのだ。
「最低でも机上に積んだ分は済ませて下さいね」
「…俺を待ってないで、領主交代を皇宮に要請したら良かっただろう」
「旦那様がご健在であらせられるのに、ですか?」
「俺は…」
「家宰である父を始め、我々がお仕えしているのはレオンハルト様です。……旦那様がリリエンタール領の領主となられる以前の国の直轄時代は、領主代理による増税に次ぐ増税で民は疲弊していました。国へ納める税の他に管理費という名目で、年々値上りしていたのです。残念ながら、我々にはそれを止める権限はありません」
父から聞いたのですがね、とゲオルグが小さくつけ加えた。
「幼いながらも領主となられた旦那様が、荒廃した領地を必死に治めれられていたのを、父を始め、私を含めて皆知っております」
「ふん……」
「社交さえ無ければ、今頃は名領主として名を馳せていたかもしれませんね」
そうかな…。
ゲオルグの言葉にレオンは懐疑的だった。
毎年、社交の季節になると、あちこちから招待状が届くのが心底厭だった。
名門であるリリエンタール公爵家を継いだ小僧を見てやろうという蔑みを含んだ好奇心が見え見えだったからだ。
領地運営を円滑にする為には、隣接する領主との交流は必至だった。
だが、成人前から領主として社交場に出ていたレオンを、人々はあからさまに軽視した。認知はされが、皇帝から『捨てられた可哀想な皇子のなりそこない』と。
後ろ盾も無く、子を持つことを禁止された一代限りの公爵。レオンが死ねば領地は帝国に接収される。
婚姻を結ぶ利益もない。
だが、レオンは美しい子供だった。
悪戯心を起こす者が出ない筈がない。
誰がレオンを最初に手に入れるか。
方々で賭けがされ、男女に関わらず面白半分にレオンを誘惑し始めた。
竜仙境では、千年近く大きな戦も無く平和だった。強大な魔力を保持する皇帝の影響で、皇都のみならず周辺の領地では、辺境のように魔物が出ない。
その為、退屈に膿んでいた者達とってレオンは最高の退屈しのぎの贄だった。
故に、それらに辟易したレオンが若くして厭世的になったのは仕方のない流れだった。
そして、手に入れられる筈だった卵が捨てられた事を知った途端、地位も領地もどうでもよくなった。
全てを捨てて卵を探す旅に出た。
追手は無かった。
レオンの気持ちを慮ってくれていたのかもしれない。
印が足りないとか、証人がどうとか言ったが、多分、レオンが必ず卵を探し出して戻って来ると信じていたのだろう。
山と積まれた書類は忌々しいが、レオンは嘆息を吐いてペンを取った。
「終わらせてしまわないと、お方様とご一緒の夕食は諦めないといけませんね」
レオンは唸り声を上げた。
日暮れまでに、猛烈な勢いで書類を片付けたが、さすがに全ては無理だった。
レオンは執務机に残った分を無視し、ブラッドと夕食を共にした。
給仕をするゲオルグは柳眉を逆立てていたが…。
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