147 / 156

第147話

 中庭でブラッドは木剣を振っていた。  レオンに比べて自分の躰の貧弱さが情けなく、鍛えようと思ったからだ。  大樹から広がった枝葉が初夏の陽光からブラッドを庇い、花壇の色とりどりの花が柔らかな芳香を漂わせていた。   「お方様、もう少し足を広げて腰を落として下さい。そのまま振り下ろしていると背中を痛めます」 「は、はいっ」 「剣を振り下ろす時、持ち手と同じ右足を出すように」 「はいっ。…左じゃなくて右なんですね」 「そのまま剣を振り下ろすと、左足を怪我してしまいす。あと、お方様、俺に丁寧な言葉遣いは無用です」 「は、はい…」  言葉遣いは、ゲオルグにもそれとなく注意されたが、雇用する側の立場になった事がないので苦手だ。  クルトに時々姿勢を直されながら木剣を振っていると、アンネリーが声をかけてきた。 「そろそろ休憩なさいませんか、お方様? 喉が渇いておりましょう」  額に浮いた汗を柔らかな布でアンネリーに拭われ、ブラッドは木剣をクルトに渡した。  四阿には飲み物と軽食が用意されており、籠の果物が爽やかな香りを放っていた。  ブラッドが席つくと、数歩離れてクルトが立ち、アンネリーは嬉しそうに微笑んで給仕を始めた。給仕を受ける事に慣れていないブラッドは、戸惑いながらアンネリーの淹れた茶を一口飲んだ。  柑橘と薄荷の爽やかな香りと涼しい口当たりが、火照った躰を鎮めてくれる。 「美味しい…。アンネリーさんが淹れてくれるお茶は美味しいですね」 「ありがとうございます。こちらの軽食も召し上がって下さいな。うちの旦那は強面の見た目のくせに、繊細な味付けの料理が得意なんですよ」  アンネリーの言葉にくすくす笑い、ブラッドは小さく切り揃えられたパンを手に取って一口食べた。  パンには檸檬の酸味と塩と蜂蜜が絡まった鶏肉と野菜が挟まれてあった。鶏肉は蒸してあり、さほど力を入れなくとも噛み切れるくらい柔らかかった。 「美味しいです! 全部食べちゃいそう」 「まぁ、ありがとうございます。うちの旦那が聞いたら喜びますわ。そちらの果物を挟んだ物も召し上がってみて下さいな。こちらのお屋敷で穫れた果物なんですよ」 「え? 果樹園があるんですか?」 「屋敷の西側に温室があるんです。お方様に色んな国の果物を食べて欲しいと、俺のじいさんが育ててるんです」  クルトが申し訳なさそうに琥珀の瞳を伏せた。 「お方様の好き嫌いも聞かず、押し付けがましいとじいさんには言ったのですが…」 「ヨアヒムは庭木の世話だけでなく、果樹の世話の技倆も最高ですよ、クルト。お方様がお飲みのお茶の茶葉もヨアヒムが栽培した物なのです」  ブラッドは目蓋を瞬いてクルトを見た。  クルトの瞳と同じ琥珀色の茶は、馥郁とした香りと喉通りの良いものだった。きっと丁寧に手入れをした畑と果樹園なのだろう。  アンネリーが勧めた果物を挟んだパンを食べた。 「!」  クリーム状のチーズと、甘い果物と酸味のある果物が絶妙の割合だった。噛む程に果汁が溢れ、甘い香りが鼻腔を刺激する。 「美味しいです! ……ぼく、美味しいしか言ってないですね…」  どう美味しいか伝えたいのだが、上手に言葉に出来ないのがもどかしい。  ぼく、語彙力が無い……  夕食後、レオンは執務室にクルトを呼んだ。ブラッドの稽古の様子を聞く為だ。  クルトは少し緊張気味に直立不動でレオンの質問に答えていった。   「ブラッドの剣の稽古はどうだ?」 「はぁ…、その…」 「率直に答えて良いのですよ。無礼には問いません」  決裁済みの書類の束を持ったゲオルグが言った。  クルトは庭師見習いだが、ブラッドの護衛でもあった。祖父であるヨアヒムは、庭師になる前は技倆の良い剣士で、魔獣討伐の傭兵として各地を放浪していた。怪我で引退し、庭師の仕事をしながら孫のクルトを鍛えた。  息子には剣士の才が無かった。    緊張しながらクルトは口を開いた。 「お方様が剣を持つのは…お止めになった方がよろしいかと思います」  クルトの言葉に、レオンとゲオルグはなんとも言えない表情で顔を見合わせた。 「お前も、そう思うか…」  レオンは溜め息を飲んだ。 「とても、よく頑張られておりますが、その、剣の才は…いえ、運動神経が、じゃなくて、えー…と…」  何とか言葉を選んでいるのだが、ブラッドの名誉を傷つけない適切な言葉が浮かばない。冷や汗を垂らしながらクルトはレオンから目を逸らした。 「そうですね。剣を持つにはお方様は優し過ぎる気質のようですし」 「分かったように言うな」  レオンが口を尖らせた。 「会って間もないですが、お方様の気質はよく理解しております。お優しく、全てを受け入れてしまう素直さ。そして、傲慢や虚勢とは無縁とお見受け致しました」 「…褒めてんだよな…?」  勿論ですとも、とゲオルグは胸を張った。   「あの愛らしさと天真さは国宝級です。しかも全くの無自覚。旦那様に出会うまで真っ更だったのが不思議です。大変な幸運でしたね、旦那様? それに、これからは旦那様がお護りなさるのでしょう?」 「当たり前だ」  ただ優しいのではない。  強く、優しいのだ。  武寄りではない強さを持つ者は稀だ。  けれど、どこか危うく歪な強さ…  眉間に皺を作り、きつく閉じた目蓋をレオンは開けた。 「取り敢えず、ブラッドの剣の稽古は体力作りに変更しよう」  クルトが頷いた。 「逃げ足と一撃目を避ける反射神経を鍛える方向で訓練しましょう」  その夜、ブラッドはレオンから剣を持つ事を禁じられた。  一方的な禁止に憤慨したブラッドの抗議はレオンの唇で塞がれ、程なくして甘い声になった。  レオンとしては『運動神経に難あり』とは口が裂けても言えなかったからだ。    翌日、ブラッドが寝台から出られたのは昼近くになってからだった。様子を見に来たレオンに枕を投げつけたが難なく避けられ、真っ赤な頬を膨らませた。  いつもはアンネリーに任せてあるブラッドの朝の支度をレオンが代わり、神妙な顔つきで甲斐甲斐しく世話をした。  もっとも、神妙な表情をしていると思っているのは本人だけで、口元は嬉しそうに弛んでいた。  ようやくご機嫌取りが成功し、自分の膝に座らせてブラッドの髪を櫛っていると、扉の向こうからゲオルグが声をかけてきた。  ゲオルグは仕事優先なきらいはあるが、レオンの私的な領域には、なるべく踏み込まないようにしている。私と公の線引をはっきりしている。  不用意に二人の甘い触れ合いの邪魔をして馬に蹴られるどころか、鋭い爪で引き裂かれたくはないのが本音なのだが。  ところが、珍しくゲオルグがそれを踏み越えてきた。  レオンもそれを解っていたから、不思議に思いつつも入室を許可した。 「どうした?」 「はっ…、その…」  珍しく言い淀んだのは、レオンがブラッドを膝に乗せたままだったからだ。  ゲオルグと目が合ったブラッドは、ハッとしてレオンの膝から降りようとした。その腰に腕を回して固定し、レオンはゲオルグに話すよう促した。 「その…お方様のお耳に入れては…」 「構わん。ブラッドに隠す事なんぞ一つも無い」 「はぁ…。では、お知らせ致します。先程、本邸の父…家宰から手紙が届きました」 「珍しいな。決済に何か不備があったのか?」 「いいえ。書類に不備はございません。その、至急、旦那様に本邸にお戻り下さい、と」  レオンは訝しげに眉を寄せた。 「戻らないと駄目なのか」  本邸には、あまり良い印象がない。本邸というより、皇都自体に足を踏み入れたくないのだ。 「はい。大至急との事です」 「…城から何か言ってきたのか?」  いいえ、とゲオルグは首を横に振った。 「旦那様個人の事でございます」 「俺の?」  本当に喋ってもいいのか、ゲオルグが目線で問う。  焦れたレオンが顎で促した。  嘆息を飲み込み、ゲオルグはブラッドに一瞬視線を向けてからレオンに戻し、諦めたように口を開いた。 「本邸で、旦那様のご子息がお待ちです」                           

ともだちにシェアしよう!