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第151話
ブラッドは大慌てでレオンの膝から降りようとして、腰を掴まれて動きを封じられた。
「レ…レオンッ?!」
椅子の上に片膝を立て、レオンはブラッドを抱え込んだ。腕の中からレオンを見上げると、穏やかだった表情が硬質なものになっていた。
せっかく消えていた眉間の皺がさっきよひ深い。
半眼になったレオンの鋭い視線を受け、ヴォルフガングの傍らの少年が硬直した。ゴクリと息を飲み込み、少年は佇まいを正した。
肩までの青みがかった素直な黒髪を項で纏め、金茶の大きな瞳が真っ直ぐレオンを見つめていた。握った両の拳が僅かに震えている。
緊張と畏怖。
レオンが醸し出す威圧感に圧され、へたり込みそうになる足に力を入れて踏ん張っているのが分かる。
眼を逸らした途端、真っ二つに斬る。
殺気を孕んだ視線がそう語っている。
ブラッドは口を挟まず、二人を交互に見た。
「お連れ致しました、お館様」
レオンは無言で頷いて次を促した。
「あっ、あの、リーンハルト・ベックシューマッハですっ。御目通しをお赦し頂き、ありがとう存じます公爵閣下」
緊張のせいか若干掠れた声で少年が名乗った。
レオンが眉を顰めた。
「…ベックシューマッハ……子爵か」
「…はい。母はベックシューマッハ子爵家当主の娘ですが、お…私は公には認知されていないので、庶子です」
レオンの顔から一切の表情が消えた。
そうすると、一流の芸術家の手によって彫られたような、彫像めいて整い過ぎた硬い容貌になる。
眼差しに冷ややかさが増した。
極北の溶けない凍てついた蒼い氷のように。触れた途端、蒼い炎に包まれて凍ってしまう程に。
冷ややかな、怒り。
何に対しての怒り?
誰に対しての苛立ち?
ブラッドは、そっとレオンの顎を指でなぞった。視線は少年…リーンハルトに向けたまま、意識だけが自分に向いたのは分かった。
「レオン、ぼくも挨拶していい?」
「…何でだ」
漸く視線が動いてブラッドに向いた。表情は硬かったが、瞳から剣呑さが消えていた。
「だって、レオンの息子さんなんでしょ? だったら、ぼくとも家族だよね」
レオンは言葉に詰まり、ヴォルフガングは片眉を上げた。リーンハルトは真っ青になってブラッドとレオンを交互に見た。
「初めまして。ぼくはブラッド」
ブラッドが真珠のように白い頬を上気させて笑いかけると、リーンハルトは顔を真っ赤にさせて狼狽えた。
「はっ、初めましてっ…じゃなくてお初にお目にかかり光栄でございますっ。お、奥方様っ」
「ふふっ。緊張してる? それとも……レオンが怖がらせたかな?」
「えっ?! あのっ…そのっ…」
「ブラッド……」
眉間の皺を深くし、レオンは前髪を掻き上げた。腕の力が緩んだ隙にブラッドは膝からするりと降りた。
リーンハルトの右手を両手で取り、少し屈んで視線を合わせる。
「ブラッド!」
レオンの纏う空気が剥き出しの刃に似た殺気に満ちた。
立ち上がろうとするレオンを眼で制し、ブラッドはリーンハルトに向き直った。
「怖いお父さんだよね~。父親が子供を脅したら駄目だよ」
「…ブラッド、離れろ」
声が地を這った。
リーンハルトが躰を強張らせた。声一つで滅多斬りされた感覚に襲われ怖気立った。全身の毛穴が開き、汗が吹き出た。
頭上から伸し掛かる重圧感が半端ない。
呼吸をしようにも肺が膨らまず空気が入らない。酸欠で視界が狭まる。
「レオンってば、大人気ない」
ブラッドが唇を尖らせた。
片眉を跳ね上げ、レオンは嘆息を吐いた。
途端、リーンハルトに伸し掛かっていた重圧が霧散した。浅い呼吸を繰り返し、吹き出た額の汗を手の甲で拭った。
「大丈夫だよ。落ち着いて」
耳に心地良い声音。
握られたままの右手から仄かに暖かな波動が流れ込んできた。
「ゆっくり息を吸って……吐いて……吸って……吐いて…。そう、上手だよ。繰り返して」
ブラッドに言われるがまま呼吸を何度か繰り返すと、手から流れ込んできた暖かな波動が全身に広がった。体温を失っていた手足の先に感覚が戻ってきた。
「うん、落ち着いたね。もう大丈夫」
にっこり笑ってブラッドはリーンハルトを抱き締めた。
「ブラッドッ!! 離れろっ!!」
唐突な行為に、リーンハルトは今度こそレオンに真っ二つに斬られたと思った。
「あまりお館様をおからかいにならないで下さい、お方様」
茶を淹れ直しながらヴォルフガングが言った。
「ふふっ。大丈夫です。本気で怒ってなんかないよね、レオン?」
再びレオンの膝に乗せられたブラッドはにっこり笑って見上げた。
レオンはブラッドの腰に回した腕に力を込めた。苛立ちは感じられない。
ブラッドが座っていた席に着座を許されたリーンハルトは、正面の仲睦まじい二人に赤面して俯いた。
そっと顔を上げると、さっきまでの殺気が嘘のように、慈愛に満ちた眼差しでレオンはブラッドを見つめていた。
コホン、とヴォルフガングが軽く咳払いをした。
「お館様、問題は解決しておりませんよ」
長い溜め息の後、レオンは視線をリーンハルトに向けた。
「…どうして、ここへ来た」
抑揚の無い声だったが、リーンハルトの肩が跳ね上がった。
「はっ…母が…、亡くなる前に私の父親が閣下だと教えてくれました。それから、自分が死んだら閣下を訪ねろと」
「死んだのか…」
「はい。元々躰が弱く病がちでしたので」
「そうか…」
僅かに目を伏せ、レオンは思案げに顎に手を当てた。
「母を…覚えておいでで…?」
躊躇いがちにリーンハルトは訊ねた。
「ベックシューマッハ子爵領に大量の魔物が溢れた時、討伐の要請を受けた事がある」
リーンハルトの中に誰かを見ている。
いや、レオンの視線はリーンハルトを通り越して誰かを見ていた。無表情だが、僅かに瞳が揺れている。
それは誰かに対しての懐かしさ?
憐れみ?
それとも悲しみ?
胸の奥に湧いた感情は何?
チリチリと…キリキリと…煙に燻されているような…焦燥?
「俺の子と名乗る意味を知っているのか」
硬く厳しい声だった。
リーンハルトは躊躇いもなく頷いた。
「閣下はお子を持つ事を赦されておりません……」
「そうだ。俺は子を持つ事を赦されていない。仮に子が生まれたら、俺の手で殺さなくてはならない」
「はい」
「レオンッ?!」
「お前は、俺に子殺しをさせる為に来たのか」
抑揚の無い声に含まれた感情は…。
「いいえ」
きっぱり否定し、リーンハルトは頭を横に振った。
胸元から、きっちり畳んだ手巾を取り出し、リーンハルトは丁寧に開いた。真っ白な絹の手巾に包まれていたのは。
星屑のように金粉が散りばめられた青金石の鱗。
「これをお返しに来ました、公爵閣下」
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