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第153話

 室内に充満していた重苦しい威圧感が霧散した。    唐突に躰が軽くなり、リーンハルトは苦しかった呼吸が楽になった。密かに安堵の溜息を吐き、リーンハルトはブラッドに感謝した。  よく分からないが、ブラッドの執り成し(?)でレオンの怒りが収まったようだ。  リーンハルトの視線に気づいたブラッドが悪戯っぽく片目を瞑った。  途端、顔が熱くなった。  心臓が跳ねて不規則に鳴っている。  秀麗な容貌に子供っぽさを残した不均衡さ。そこへ、レオンに愛される事で加わった艶っぽさ。  少年期に入りたてのリーンハルトには、少し刺激が強過ぎたようだ。 「お前の出自を知っている者は何人いる」  レオンの問いにリーンハルトは首を横に振った。 「子爵は詳しい事は知りません。母はどこかの子息に弄ばれたと思っております」  ふむ、とレオンは顎に指を当てて僅かに思考し、顔を上げた。 「お前の出自の事は絶対に他に漏らすな」 「はい……。その、この身は」 「暫くはヴォルフガングの下に付き、従僕としてブラッドに仕えろ」  己で処するのでお気になさらず、と続けようとしたリーンハルトを遮ってレオンが言った。 「え…? 閣下?」 「ここでの仕事を終え次第、俺とブラッドは屋敷へ戻る。それまでにヴォルフガングから従僕としての仕事を学べ」 「は、はい…」  急な展開に戸惑いつつリーンハルトは椅子から立ち上がり、左胸に手を当てて膝を着いて頭を深く下げた。 「不肖の身ではごさいますが、閣下と奥方様に誠心誠意お仕えいたします」 「剣は使えるか?」 「は…、いえ、その、殆ど自己流なので…」 「ヴォルフガング、剣も使えるようにしろ。ブラッドの護衛を兼ねられるように体術もだ」 「はっ」  ヴォルフガングはレオンに一礼し、リーンハルトに立つよう促した。 「どこで出自を探られるか分かりません。これからはリーンと呼びましょう」 「は、はい!」  抑揚は無いが厳しい教師の口調に、リーンハルト……リーンは背を伸ばした。 「それから、閣下の事はお館様、奥方様はお方様とお呼びするように」 「はい」 「宜しくね、リーン」  レオンの膝の上でブラッドがニコニコと手を振った。 「これで満足か?」 「ありがとう、レオン。大好き」  レオンの表情から険しさが消えた。  元々、リーンハルトを死なせるつもりは無かった。自分の子供でない事は自分が良く知っていたからだ。鱗も本物だった。  ブラッドはリーンハルトに対して、最初から好意的だった。  神殿育ち故の無垢な部分と、荒くれ者の多い港街で仕事を得て生き抜いてきた強かさをブラッドは持っている。そのブラッドが全く警戒していない。  危機管理意識の薄いブラッドだが、人を見る目は確かだ。  また、万が一、リーンハルトの出自が外に漏れれば確実に殺される。レオンの子供であるという危険性を知ったブラッドは、出立前にリーンハルトの身の安全を願っていた。  従僕にし、常に一緒にいる事でブラッドと同様にレオンの保護下に置かれ、安全は保証される。 「ねぇ、レオン。リーンハルト…リーンはレオンの子供じゃないけど、全くの無関係でもないよね?」  披露目用の衣装から簡易な部屋着に着替えたブラッドは、言葉尻は疑問符だったが確信はあったようだ。  着替えはレオンが手伝った。…が、複雑な仕様に繊細な布が破れそうになったのを見かねてリーンが手伝った。レオンの厳しい視線を背中に受け、なるべく肌に触れないように気をつけて。  ブラッドの支度が済むと、ヴォルフガングはリーンを伴って部屋を退出した。   「何故、そう思った」 「うーんとね…」  顎に指を当ててブラッドは小首を傾げた。着替えた事で気持ちもゆったりとしたのか、ブラッドは椅子に座っていたレオンの膝の上に乗って寛いだ。 「リーンの魔力……レオンに似てるけど、どこか根本が違う気がする……」 「俺の魔力に似てるけど違う、か……。俺と顔立ちは似てるとは思わなかったのか?」  ブラッドは考え込むように眼を眇めた。 「うーん…、似てるかなぁ?」  頭をレオンの胸に凭れかけさせ、ブラッドは、リーンの静かな、それでいて何からも諦めきった瞳を思い出した。  未来へ向けて希望に胸を高鳴らせ、根拠の無い自信に満ち溢れている筈の少年期に似合わない老成した表情。夢を諦め、生を諦め、未来を諦めた覇気の無い瞳。  その瞳を見た瞬間、ブラッドは訳もなく涙が溢れそうになった。胸の奥が締めつけられ、喉の奥から迫り上がる塊。歯を食いしばらなければ嗚咽が漏れてしまいそうだ。  抱き締めて、大丈夫だと告げたいと思った。  髪を梳き、背中を撫でて熱を分けてあげたい。  ブラッド自身孤児として辛い日々があった。暴力、暴言、蔑みの視線。  辛かった。悲しかった。枕を濡らし眠れぬ夜もあった。  けれど、一度も自分が不幸だと思った事はない。新しい知識を覚え、様々な人々と出会う忙しい日々。    育ててくれた人。  教育を施してくれた人。  優しくしてくれた人。  辛くとも、充実した毎日。    そして、得た最愛の人。     「髪の色は似ているんだけど…瞳は全然違うし、魔力の波も似てるけど、レオンの魔力とは少しも重ならないと思う」 「ああ…、そうだな」  レオンが赤髪に唇を落とし、白い頬を指でなぞると、ブラッドは気持ち良さそうに目を細め、躰から力を抜いた。  背中を預けきる無条件の安堵感。 「いつか……」 「うん?」 「いつか、リーンにも…大事な人ができると…いい…ね……」 「ブラッド?」  完全に躰から力が抜けたブラッドから、規則正しい寝息が聞こえてきた。  落ち着いていたように見えていたが、やはり気を張っていたようだ。緊張が解けて眠くなったのだろう。  夕食まで、まだ時間がある。  レオンはブラッドを壊れ物のように、そっと抱え直した。  陽差しが夏の匂いと共に強くなった頃、リーンはヴォルフガングから従僕としての合格を得た。  漸く、手を震わせずに茶を淹れる事が出来るようになった。色も味も香りも安定して淹れられる。  所作の合格を得るのは、大袈裟ではなく命懸けだった。足の運び、指の動き、視線の位置、お辞儀の角度。  叱責の度に目に視えない刃で斬られた。  槍で貫かれた。  何度死んだか分からない。  可笑しいな。  死ぬ為に公爵邸に来た筈なのに、生きている事に安堵している自分がいた。      明るい昼下がり。  四阿でリーンは熱い茶を淹れてブラッドの前に置いた。  どんなに暑い日でもブラッドは熱い茶を好んだ。  茶請けの焼き菓子に目を輝かせ、茶のお代わりを頼むブラッドをリーンは可愛いなぁと思った。  しかし、ただ可愛いだけではないようだ。  ブラッドはリーンの淹れた茶を最初から毒味無しに飲んだ。胆力があるのか、素直なだけなのか、疑う事を知らないのか…。  四阿の角にいた騎士が動いた。  護衛としては未だリーンは合格を貰えていない。  ブラッドを庇うように騎士が立った。  奥向きを管轄する年嵩の女性の使用人が礼を取った。 「お方様にお客様を案内いたしました」 「そのような先触れは無い」  ブラッドと会おうとする者は、徹底的に精査する決まりになっている。レオンの許可無しに城外の者を近づけさせる訳にはいかない。   「身元の保証は……」 「下がりなさい。無礼ですよ」  使用人の前に出たのは、豊かな明るい金髪を腰まで伸ばした若い女性だった。切れ長の水色の瞳が騎士を通してブラッドを真っ直ぐ見ていた。 「お初にお目にかかります、お方様。ヴォルフガング伯父様の姪のエヴァンジェリン・バッハシュタインと申します」 「ヴォルフガングさんの?」 「ええ。バッハシュタイン侯爵の三女で、レオンハルト様の正当なる妻ですわ」            

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