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第154話
三人の侍女を引き連れて四阿へやって来たエヴァンジェリンは、目を丸くしているブラッドを見下ろした。
直ぐに言い返さない愚鈍さに、彼女は内心呆れ果てていた。
本来であれば、リリエンタール公爵家の奥方として社交に勤しむ立場の筈。それなのに、のほほんとお茶を飲んでいるとは。
沸々と怒りが込み上げてくるのをエヴァンジェリンは感じた。
伯父であるヴォルフガングが侯爵家の家督を弟である父に譲り、リリエンタール公爵家の家宰を務める関係で、エヴァンジェリンは幼い頃から公爵邸への出入りを赦されていた。
大人に対しては冷淡なレオンだが、幼い女の子には優しかった。洗練された仕草と自分だけに向けられた柔らかな微笑み。
憧れが恋に変わるのに、そう時間は要さなかった。
微妙な立場にあるレオンの盾になり、力になりたい。いや、絶対になってみせる。
エヴァンジェリンは淑女教育だけでなく、あらゆる学問を修めた。それこそ血の滲む努力をした。
レオンの隣に立っても見劣りしないように…。
反論一つしないブラッドの呑気さに自尊心が怒りに転化した。
(レオンハルト様の伴侶を名乗っているくせに、今現在の当家の危機に何て呑気なんですの!)
苛立ちを隠しもせず、エヴァンジェリンはブラッドを睨んだ。
自分に向けられた悪意に対する鈍さ。
それがブラッドの最大の美徳であり欠点だった。嫌悪するより、相手の良いところを探す方に重きを置いているからだ。
それ故、攻撃に対する初動が遅れがちになる。
だからといって相手の感情に無頓着な訳ではない。自分に向けられた怒りの感情は分かる。
しかし、何に怒っているのかが分からない。
ブラッドは小首を傾げてエヴァンジェリンを見上げた。
美しい女性だ。
意志の強さを表す知的な水色の瞳。細く整えられた眉。笑みの形が似合いそうなぽってりした紅い唇が、今は引き締められていた。
きつく閉じる事で、激情のままブラッドを詰るのを堪えているようだ。
ブラッドは何だか申し訳なくなった。
感情のまま喚き散らすのは淑女らしくないから堪えているのだろう。
(綺麗な人だなぁ。でも、正当なる妻って何だろう? 伴侶と妻って、どう違うのかな?)
「何か仰ったらどうなんですっ?!」
つい、考え事に集中してしまったブラッドに、とうとう焦れてエヴァンジェリンの怒りが爆発したようだ。
「レオンハルト様の伴侶としての矜持はありませんの?!」
「矜持、ですか……?」
(困ったな…)
どう答えて良いか分からない。
求められている答えが何なのか分からないからだ。
それに、謝ったら益々怒りそうで、ブラッドは取り敢えず彼女に席を勧めた。
エヴァンジェリンは内心眉を顰めた。苛立ちのまま断るのは短慮だし、感情のまま乱暴に腰を降ろすのは淑女失格だ。
彼女は努めて優雅に席についた。
ブラッドの視線を受けて、リーンはエヴァンジェリンに琥珀色の紅茶を淹れた。南国の果実を干して茶葉に混ぜた、ほんのり甘い香りの紅茶だ。
紅茶をブラッドが一口飲むと、エヴァンジェリンも飲んだ。
感情のまま大声を出してしまい渇いた喉に、紅茶は優しく染みた。ふわりと鼻孔をくすぐる甘い果実の香りは、苛立った精神を静めてくれ、つい一息に飲み干してしまった。
(美味しいわ)
思わず声が出そうになった。
(淑女らしくない)
赤面しそうになり、エヴァンジェリンは小さく咳払いをした。
「珍かなお茶ですのね」
「ありがとうございます。南国の甘い果実を干して砂糖漬けした物を細かく刻んで調合した紅茶です。薄荷が少し入っているので、甘い香りが後を引かずすっきりしてるでしょう? 冷めたい水で時間をかけて淹れても美味しいんですよ」
次に置かれた茶器からは白桃の香りが立っていた。若葉色の緑茶だ。
「……随分と、色々な異国のお茶を揃えておいでですのね」
「ぼくの趣味…かな?」
エヴァンジェリンはブラッドに対して、公爵夫人としての義務も果たしていないのか。異国の高価な茶葉を取り寄せて道楽をし、無為に浪費しているだけなのかと当て擦ったつもりだったのだが。
「花壇の一部を借りて、様々な効能の薬草を育てているんです。薬草と相性の良い茶葉とを合わせて、効能ごとにお茶を作るのが好きなんです」
育ての親である神官と、優秀な医師のユリウスから教えられた薬草の知識で薬草茶を作っているうちに、様々な茶葉と果物を合わせると独特のえぐ味が軽減される事に気づいた。
効能のみに重点を置いて調合するより、美味しく飲んで躰に良い方が楽しい。
「…あら、そうですの。自ら土を耕すなんて酔狂ですわね。平民のよう…あら、ごめんなさい。レオンハルト様の伴侶になられる以前は、平民の間で働いておられたんですってね」
くすり、とエヴァンジェリンの侍女達から笑いが漏れた。
護衛騎士により四阿の席に着いた主に侍る事を阻まれ、不満を抱えていた侍女らが、ブラッドを貶む事で溜飲を下げたようだ。
護衛騎士が睨むと、つん、と顎を上げて侍女らは顔を背けた。
その一部始終をブラッドの給仕をしながらリーンは静かに見ていた。
(お館様がここにいなくて良かった……)
最愛の伴侶に対する態度を見た主の激怒が恐ろしい。護衛騎士も分かっているようで顔色が良くない。
ブラッドだけが分かっているのかいないのか、にこにこと焼き菓子を勧めている。 ブラッドが料理人と一緒に作った、柑橘の果物の皮を練り込んだ焼き菓子だ。
「美味しそうですわね……じゃなくて!」
ブラッドの醸し出すほんわかした雰囲気に飲まれそうになったエヴァンジェリンは、軽く咳払いをして居住まいを正した。
「レオンハルト様の伴侶の鱗、わたくしにお渡し下さいませ」
「レオンの鱗を……?」
「ええ。レオンハルト様とわたくしとの結婚は皇帝陛下の勅令ですの。レオンハルト様の鱗を持つ資格は、妻であるわたくしにあるのです」
先触れも無く訪れた皇帝の使者と対峙したレオンは、眉間の皺を深くした。
長々と竜皇帝を称える言葉を連ねた後、遠回しの美辞麗句に彩られた長々とした令書を読み上げた。
曰く、
『バッハシュタイン侯爵令嬢エヴァンジェリンとの婚姻を命じる』
そして、
『公が所有している白竜を召し上げる』
豪奢な応接間で皇帝の使者を無言で見つめるレオンの顔から一切の表情が抜け落ちていた。
傍らに控えていたヴォルフガングは、主の膨れ上がった殺気で背中を冷や汗が流れた。
殺気が刃となり、切先を喉元突きつけられていながら隙だらけの使者が信じられない。
否。
皇帝の使者は皇帝と同等と見做すのが慣例。
故に、どんなに高位貴族であろうとも自分を傷つけられる者はいない。
その考えが使者を増長させ、尊大な態度を取らせているようだ。
ヴォルフガングは主が爪で使者を引き裂かない事を祈った。
竜人族の伴侶は特別だ。
命と同等の、互いの命を護る鱗を交換した最愛の人。
「……皇帝陛下は、余程、人のものがお好きらしい」
「なっ…、無礼な!」
使者が居丈高に胸を張った。
「リリエンタール公爵閣下には、現在、唯一の白竜を独占しており、皇帝陛下への叛意ありと疑われております。身の潔白を証明するには、白竜を差し出すしか…」
「使者殿」
ヴォルフガングが前に出た。
「食事の用意が整ったようです。部屋へ案内いたしましょう」
皇帝の使者は、通常の使者とは対応が異なる。通常は口上を終えたら使者は返す。しかし、皇帝の使者は皇帝に準ずる扱いをし、豪華な食事を供して持て成してから返すのが慣例だ。
若く綺麗な使用人に案内され、使者は上機嫌でついて行った。視線は娘の白い項に固定されていた。
「皇城の人材の資質も落ちたものです」
「…ブラッドは何処だ」
「この時間は西の四阿にてお茶の時間です。今日は料理人と一緒に作った茶菓子を楽しんでおいでかと」
「そうか」
レオンは大股で応接間を出た。
四阿ではブラッドが見慣れぬ娘と茶を飲んでいた。
皇帝の使者の対応に追われていた隙に入り込んだのか。
レオンの瞳の金環が深くなった。
「誰の許可を得て城に入った」
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