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第155話
唐突に陽光が翳った。
(違う)
周囲の気温が下がった。
飲みかけの熱い紅茶が冷えた。
ブラッドはレオンを見上げると、茶器を卓に置いて立ち上がった。
初めて見る、怒りに満ちた金環の蒼穹の瞳。いつもより濃く、蒼く、金環は凍えた光を放っていた。
(凄く怒ってる。どうしたのかな?)
全くの無表情だが、無言でエヴァンジェリンを睨めつける半眼の蒼穹は、氷河よりも蒼く冷えていた。
怒りの熱量は高くなればなる程、燃えれば燃える程、焔は蒼く、冷え冷えとした色となる。
「誰だ」
レオンの冷ややかな視線にエヴァンジェリンは一瞬躰を硬くしたが、ブラッドに遅れて立ち上がった。慌ててはいるものの、努めて優雅にお辞儀をした。
「ご無沙汰しております。バッハシュタイン侯爵が長女エヴァンジェリンです」
「バッハシュタイン…エヴァンジェリン? エヴァか?」
「はい。幼い頃に、父に連れられ城に上がらせて頂いたおり、お兄様…レオンハルト様には良くして頂きましたわ」
華やかに微笑み、エヴァンジェリンは胸に手を当てて瞳を潤ませた。久し振りに会う線の細かった公子は、想像以上に整った容貌の貴公子に成長していた。胸の鼓動が早くなり、自然と頬が熱くなった。
「リリエンタール公爵家の家門筆頭であるバッハシュタイン侯爵の令嬢と言えど、当主の許可無く城内に入り込むとは頂けませんな。不法侵入として正式にバッハシュタイン侯爵に抗議をいたします」
レオンの後ろに控えていたヴォルフガングが前に出た。
「伯父様…」
常に無い伯父の厳しい表情に、エヴァンジェリンは顔を強張らせた。熱くなっていた心が一瞬で冷えた。
しかし、自分には正当な理由がある。部外者ではない。皇帝の勅令なのだ。
エヴァンジェリンは姿勢を正した。
「わたくしは皇帝陛下の勅令を受けて参りました」
レオンは眼を眇めた。
「皇帝陛下の御使者は先程帰りましたよ。貴女がわざわざ来る理由にはなりません。勅令を盾に、このような私的な奥にまで入り込む行為は、ただの蛮行です」
ヴォルフガングは四阿の隅に控えていた使用人を見やった。
「ロッテ。貴女がエヴァンジェリン嬢を案内したのですね」
「…はい」
家宰の鋭い視線を受けて、彼女は目を伏せた。
レオンがリリエンタール公爵を継ぐ以前から、ロッテは公爵家の奥向きを担当していた。
リリエンタール公爵家の家門である子爵家の三女であったロッテは、成人前から城に行儀見習いとして上がっていた。
仕える女主人が不在の中、長く勤めたロッテはいつしか奥向きを差配する地位に上り詰めていた。
レオンが公爵家を継ぎ、ヴォルフガングの姪であるエヴァンジェリンが、父親のバッハシュタイン侯爵について城に出入りするようになった。侯爵が領地の報告をしている間、彼女の世話はロッテが一手に担っていた。
愛らしい貴族令嬢そのもののエヴァンジェリンは、将来の公爵夫人となるのではと使用人の間で噂になった。
ロッテもそのつもりで世話をしていた。
侯爵も少しでもレオンに娘を印象づけようとしている節があったからだ。
長く領地を不在していたレオンが帰還した。
いよいよ主とエヴァンジェリンとの結婚ではと、皆、歓喜した。
ところが、レオンは伴侶を伴っていた。
しかも伝説級の白竜だ。
いかに侯爵家の令嬢と言えど、白竜には太刀打ち出来ない。
ロッテは短い期間だがブラッドに接し、彼の人となりを見極めた。不遜な事ではあるが…。
突然現れた主の伴侶は、元は平民の孤児だったらしい。平民とは違う豪奢な世界に舞い上がったりせず、使用人に居丈高な態度で無茶振りもしなかった。
時々、書斎で書類仕事を手伝ったり、花壇で薬草を育てたりして過ごしていた。家宰が断らないところを見ると、事務能力はそれなりに高いらしい。
何よりも、ブラッドの魔力は完全に主と重なり合っている。それは二人の魂の繋がりが強固である事の明確な証。
エヴァンジェリンでは到底敵わない。
気落ちしていたところに、彼女が皇帝の勅命を受けて訪れた。
ロッテは歓喜し、深く考えずにエヴァンジェリンを望まれるまま奥に通してしまった。
明らかに公爵家の使用人として失格である。
護衛騎士も蒼白で項垂れていた。主君の許可の無い人物をブラッドに近づけてしまったからだ。
「伯父様。ロッテは悪くありません。わたくしの我儘をきいてくれただけですわ」
「お嬢様……」
「ロッテ、貴女は何処に仕えているのですか」
「…リリエンタール公爵家です」
「それなのに他家の令嬢を優先させたのですか」
「申し訳ございません…」
ロッテは唇を噛んで俯いた。
「ヴォルフ、無能者を全員馘首しろ」
レオンの言葉にエヴァンジェリンとロッテは息を飲んだ。
「畏まりました」
胸に手を当てヴォルフガングは礼を取り、そのままの姿勢で躰を硬直させている護衛騎士に視線を向けた。
「彼はいかがいたしましょう。一応は止めたようです」
「…護衛から外せ」
「鍛え直しましょう」
護衛騎士は膝を着いて深々と頭を下げた。
「レオンハルト様……、ロッテは悪くないのです。わたくしがっ…」
「俺から話は無い。帰れ」
「わたくしは、皇帝陛下の…」
エヴァンジェリンに背を向け、レオンは所在なげに立っていたブラッドを抱き上げた。
「俺に命令出来る者はいない」
「皇帝陛下の勅命ですっ…」
「俺に命令出来るのは、ブラッドだけだ」
「ぼくっ?! ぼくはレオンに命令なんかしないよっ?!」
腕の中でブラッドが慌てた。
「俺の身も心も命も、全てブラッドのものだ」
レオンはブラッドの耳に甘い声で囁いた。
ブラッドは熱い息に擽ったげに首を竦めた。
「ふふっ。…うん。ぼくも同じだよ。大好き」
レオンの首に腕を回し、ブラッドがしがみついて頬に口吻けした。その可愛い仕草に、レオンは緩みそうになった口元を引き締めた。
「人前でそのような…、はしたない…」
思わず言葉が溢れたのだろう。ハッとしてロッテが口を手で覆った。
「やはり、教育が足りてないようだな」
感情の無い冷ややかな口調に、ロッテは青ざめて膝から崩れ落ちた。
「お…お館様、お赦し下さいっ」
ロッテは手を組んでレオンを仰ぎ見た。
長年勤めた末の解雇となれば、実家の子爵家の名誉に関わる。ロッテは必死に懇願した。
「お前は一度ならず二度もブラッドを貶めた」
「ひっ……」
「お前達奥付きは、ブラッドを軽く扱っていたな」
蒼穹の瞳が、怒りで殺気という名の光を放っていた。その鋭い光の刃で、自分の首が落とされる姿が想像され、ロッテの唇が震えた。
通常の女主人は、夫に色目を使わせないよう女使用人達に牽制をする。夫にもそれとなく釘を刺す。奥の乱れは家の乱れだ。
奥を担当する女使用人達は、牽制をしないブラッドをいつしか見下していた。
女性でないから、何処か引け目を感じているのではないか。それとも、ただ呑気なだけなのか。
それならば、自分達にお声が掛かる機会があるかもしれない。
その気持ちが、ブラッドへの世話が手抜きとなっていったのをレオンは見逃さなかった。
「待って、レオン」
「…お前の慈悲は通じんぞ」
「慈悲? 何を言ってるのか分からないけど…怖いレオンは格好良いけど、冷たいレオンは嫌い」
「き、嫌…い?!」
情けなくも声がひっくり返った。
四阿の隅に控えていたリーンは、思わずレオンを見た。初対面での強く完璧な公爵閣下との印象が崩れた。
白い頬を膨らませ、ブラッドが唇を尖らせた。その愛らしさにリーンの心臓が思わず跳ねた。
「奥方様、これは危機管理の問題なのです。簡単に城に入り込められるのは保安上の…」
「何が問題なの?」
「ブラッド?」
「それは危機管理の問題じゃなくて、危機管理の抜け穴があるって事だよね? 責任者は誰? その人を任命して許可したのは誰? この四阿までどれだけの人がいたと思うの?」
「お方様…」
「誰もいなくなっちゃうよ? あとね、レオンがしようとしてる事、ぼく分かってるよ」
レオンの両頬に手を当てて目線を合わせた。
「レオン。ぼくを利用したよね? ううん。レオンとヴォルフガングさん二人ので」
「ブラッド…」
「お方様…」
「ぼくねぇ、怒ってるんだよ?」
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