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第156話
悪意に鈍くとも、自分に向けられてる視線の意味くらい分かる。そうでなくては、海千山千の商人を相手に仕事など出来ない。
リリエンタール城に滞在し、程なくして自分を取り巻く雰囲気が変化した事には気づいていた。
騎士らの、主君の伴侶への敬意の視線は変わらない。対して、一向に自分らを支配しようとしないブラッドを一部の使用人が軽く見始めた。
奥向き、伴侶付きの若い女使用人達はレオンの容貌に浮き立っていた。お手付きの期待の熱い視線。
ブラッドは高位貴族の館や城の内側をよく知っていた。フェリクスやローザリンデが管理する城に滞在していた期間があるからだ。特に王領の城内の身分の上下関係は厳しかった。
公爵家の教育の行き届いた使用人では有り得ない。
仕える主に対して、あからさまに侮る態度など懲罰ものである。馘首が生温いと感じられる罰が待っている。
それなのに厳格な家宰が黙っている。
レオンもだ。
愛する伴侶を軽く扱われているのに、だ。
城に暫く滞在すると告げられた時、奥向きの差配のような些末な事はしなくて良いと言われた。好きな事をして、自由に過ごして構わないと。
だからブラッドは薬草を育てて様々な比率でお茶を淹れたり、レオンの執務を手伝ったりして過ごしていた。
天気の良い日は花壇の薬草の手入れをしたり、広い庭園を散歩した。躰を動かすのは好きだ。
最初こそ、女使用人達はブラッドを甲斐甲斐しく世話をした。今では付き従うのはリーンと護衛騎士だけだ。
このような緩んだ空気を主と家宰が赦している。
異常事態である。
「ふるい、でしょ」
蒼穹の瞳を見つめてブラッドは続けた。
「ぼく、役に立った?」
「…ああ。凄く。助かった」
満面の笑みでブラッドはレオンの首に腕を回した。
長期間、主が不在だった城内の空気はどこか緩みがちになる。
忠誠を誓い、支配される事で能力を発揮する使用人達は、主の不在に少しずつ慣れていった。家宰がどんなに眼を光らせて指導をしても、心の緩みは止められない。
だが、それは言い訳にならない。
高位貴族、それも公爵位に仕える者にその甘えは赦されない。
しかし、厳しく指導し、リリエンタール家への忠誠の態度を示したとしても、彼らへの信頼は崩れたままだ。
緩みは何れ穴となり仇となる。
エヴァンジェリンを奥まで通す事を黙認したのは、ブラッドの側にリーンがいるからだ。
護衛騎士では身分上、エヴァンジェリンに強く出られないかもしれない。
しかし、リーンはリリエンタール家ではなくレオン個人に忠誠を誓っている。そして、レオンからブラッドを何からも護るよう厳命されている。
少しでもブラッドに対して敵意を向けた者には容赦するなと。
相手が皇帝だろうとリーンは戦う。ブラッドの最終防衛線だ。
ほんの数瞬の抵抗の隙に、レオンの伴侶の鱗が防御を展開し、ブラッドの安全は確保される。そう、ブラッドだけの安全は。
だが、それをブラッド本人は良しとしないだろう。自分だけの安全など拒否しかねない。
だから、ブラッドを取り巻く環境から危険因子を全て取り除く事にした。
城内の人間全てをふるいにかけ、危険をもたらしそうな人物を炙り出す。
当初、レオンは全員を抹殺するつもりでいた。それを馘首で済ませてやろうとしたのだ。
しかし、ブラッドの心にほんの少しでも翳りを残したくない。自分の安全の為だけに命を奪ったと知ると悲しむだろう。
仕方ないな。
「炙り出した事で満足するか」
柔らかな口調に変わったレオンに、ブラッドが満面の笑みで首に回した腕に力を込めた。
「ありがとう。レオン、大好き。でも、罰は必要だよね?」
意外な言葉に、レオンは瞼を瞬いてブラッドを見た。ブラッドから罰と言う言葉が出るとは思わなかった。
エヴァンジェリンとロッテは顔を強張らせて息を飲んだ。
擦り寄る温もりに満足し、レオンは微笑んでいた口元が引き締めた。ブラッドの頭を胸に寄せ、再び氷の光が瞳に宿った。
「馘首は無しだ。ブラッドに感謝するんだな。だが、罰は罰」
いつの間にか、四阿周囲に控えていた使用人全てが、蒼白な顔でロッテと一緒に跪いて頭を垂れていた。
「お前達が俺をリリエンタール公爵の繋ぎだと侮っていたのは知っている」
使用人達の躰が強張った。
主君が長く不在の屋敷ではままある事だ。張り詰めていた気が緩み、使われている立場の自分達に自由があると勘違いをする。
だが、分を超えた途端、命は無い。
皆、竜人族といえど、貴族と彼らとでは命の重さが天と地ほど違う。
竜の血が濃い貴族家出身や、相手の強さを皮膚で感じ取れる騎士は、レオンに対し絶対服従の姿勢を崩さない。そもそも本能的に崩せない。
感じ取れない者ほど眠れる獅子を仔猫と勘違いし、侮る。
自分が軽く見られたくらいでレオンは爪の先程も怒りを感じない。彼らとは生きる世界が違うからだ。
当初、一部の使用人がブラッドを軽んじ始めたのを知った時、レオンは烈火のごとく激怒した。骨すら残さず消滅させるつもりだった。
奥向きの差配をブラッドにさせなかったのは、眠り続けた十年の間に落ちた筋力や体力の回復に専念させる為だ。
それを使用人に説明する気は無い。
察しろとも思わない。
城で働く者を含め、リリエンタールの領民は全て自分の保護下だと自認している。しかし、それは領主に対し絶対服従の姿勢を示すならば、だ。
何もしなくていい。
好きな事をして過ごすといい。
長い眠りから目醒めた時から、ブラッドはレオンの優しい魔力に包まれていた。伴侶の鱗の護りは金剛石の鎧。レオンの魔力の護りは春の陽光。
柔らかな芝生の上で、陽だまりに微睡む猫のように丸まっていたくなる。
屋敷では剣の稽古で躰の動かし方を思い出し、体力の回復に特化した食事を取り、新しい知識を覚えた。
全てが、何れ、旅に出る為の準備だ。
精力的に執務をこなし、領地を視察し、魔獣の討伐の繰り返す多忙の日々のレオン。
全部、ぼくの為。
ぼくとの約束の為。
嬉しい。
始めの歓迎的な熱い空気が徐々に冷め、侍る使用人が減った。若く魅力的な女使用人がレオンが通る度に、熱い、媚びた視線を向け始めた。
その様子に胸の奥がもやもやした。
何となく気分が落ち込んだ。
苛々した。
それが独占欲だと自覚の無いまま、ブラッドはレオンの役に立ちたいと強く思った。
ぼくだって、レオンに何かしてあげたい。
何をしたら喜んでもらえる?
何が出来る?
焦りながらも周囲に目を向け、人の動きをじっと見ていて気がついた。
レオンとヴォルフガングが一部の使用人に向ける冷めた視線。
更に、主への媚びた態度やブラッドを軽んじる行為にも注意しない不自然さ。
そこで二人の目的が分かった。
だから、殊更ブラッドは好きな事だけして過した。二人の目的が果たされるように。
役に立てて良かった。
満足気に微笑んで、ブラッドはレオンの胸に顔を埋めた。
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