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第157話

 神殿育ちのブラッドには『規則を破った者には罰を』が普通だった。  悪戯をしたり、仕事をサボったりしたら神官から説教をされ、ゲンコツを貰ってから罰を受ける。  鞭打ちや食事抜きなどの罰は、クレーメンスが赴任した時に禁止された。成長期の躰によろしくないからと。  罰は、治療院の手伝いや孤児院の子守りの当番を増やしたり、街のドブ浚いなどだ。勿論、無料で。    ブラッドの考えている『罰』と、レオンとヴォルフガングが考えている『罰』とは重さが違う。  健全なブラッドが思いも寄らない厳しいものだ。  愛らしい笑顔を曇らせたくなくて、レオンは眼でヴォルフガングに合図し、ブラッドを抱き上げたまま四阿を出た。   レオンの背中に声をかけようとしたエヴァンジェリンの前に、ヴォルフガングが遮るように立った。  今までにない、伯父の冷ややかな視線にエヴァンジェリンは心の奥が冷え、思わず息を飲んだ。いつも微笑を浮かべていた穏やかな印象しかなかったエヴァンジェリンには、見知らぬ伯父が恐ろしかった。  ヴォルフガングに向けられた眼は、姪ではなく路傍の石でも見るように無機質だった。肉親の愛情の欠片さえ感じられない。 「命拾いしましたね。お方様に感謝しなさい」  跪いたままの使用人達の背筋が凍った。 「お方様はあの通り鷹揚な方ですが、あなた方の失態には気づいておりますよ。ご自身に危険があったと言うのに、お方様はあなた方の命は奪わないで欲しいと仰せだ」  抑揚は無い口調だが、鋭い刃が込められていた。 「ですが、お館様はお赦しになっておられません。あなた方は、お館様のご伴侶様を蔑ろにし、あまつさえ命の危機に晒した。そもそも、公爵閣下のご伴侶様とお前らとでは、命の重さが違うのだぞ」  鋭さと冷たさが増した。殺気さえ籠もっている。 「ロッテ。貴女は子爵子女ですが、ここでは身分など関係ありません。奥向きを担当していても、貴女は女主人ではない。思い上がりも甚だしい」  路傍の石どころか、踏み潰された虫けら程の価値もない。  ヴォルフガングの瞳はますます冷ややかさを増した。怒りは、深くなれば深くなる程、腹の底が冷える。  長く主が不在だったとはいえ、何と言う体たらくか。 「お前達、城に上がる前に署名した誓約書を覚えているか」  使用人達が、ハッとして顔を上げた。  頬が強張り、顔色は青を通り越して白くなっていた。  そうだ。  何故、忘れていたのだろう。  自分達は確かに署名した。 『…リリエンタール公爵閣下の不利となる行為を犯した場合、命を以て償います』  そう、命を以て……。 「誓約不履行が認められた」  いつの間にかヴォルフガングの背後に一人の青年が羊皮紙の束を持って控えていた。ヴォルフガングによく似た秀麗な顔立ちに、藍色に誓い黒髪に青灰色の瞳。  「燃やしますか?」  青年が訊いた。   「お方様は望んでおらん」 「お優しい方だ」  青年は…ゲオルグは残念そうに呟いた。うっとりした表情で、愛しげに羊皮紙を撫でた。 「気持ち悪い顔をするな」 「お方様はさすが白竜です。あの方の魔力は、お側にいるだけで心地好くてクセになりますよ父上」 「職場では家宰と呼びなさい。…さて、この誓約書は誓約違反が発覚したら問答無用で燃やす規則になっています」  ロッテをはじめとした使用人達の背中に冷たい汗が流れた。  自らの手で署名した誓約書とは呪力で結ばれる。命に等しい誓約書だ。  それを燃やされたら……。 「本当は、お前らなど灰すら残さず燃やし尽くすのが正解なのだがな」 「珍しくお怒りのようですね、家宰様」  冷静沈着であり、滅多に感情を揺らさない父親を見て育ったゲオルグは、弛みそうになる口元を引き締めた。短い時間でブラッドの為人に当てられたらしい。  通常であれば、どんなに主が望もうともお家存続を優先し、違反者はことごとく処断する筈だ。 「再教育として、皆、黒の館送りにします」  皆の顔色が白から土気色になった。 「エヴァンジェリン」 「はっ、はいっ」 「弟に、侯爵に使いを出しました。彼が到着するまで西の客間にいなさい」 「はい…。あの、家宰様」  エヴァンジェリンは深々と頭を下げた。 「お館様には失礼をしてしまい、大変申し訳ありませんでした」  謝罪すると、エヴァンジェリンは侍女を引き連れて四阿を出た。あくまでブラッドには謝罪をしない姿勢は崩さないらしい。  その後ろ姿を見送りながらゲオルグは鼻を鳴らした。 「困ったお嬢さんだ」  台車に茶器を片づけながらゲオルグが面白くなさそうに言った。 「高位貴族の腐臭が鼻につく。お方様のお側に近づけるのではなかった」  腹立たしくても、繊細な茶器に当たるような事はしない。白磁に淡紅色の野薔薇が描かれた茶器をブラッドが褒めていたからだ。 『可愛い。綺麗』  微笑んで、野薔薇を指でなぞっていた。 「侯爵家の家庭教師は、父上が選んだのではありませんでしたか?」 「家宰と呼びない。…私が選んだのは継嗣の家庭教師だ。淑女教育は当主の奥方の管轄だ」 「あー、あの、雌狸か」  ゲオルグは鼻に皺を寄せた。  高価な乳香をたっぷり焚きしめ、白粉を小皺が見えなくなるまで塗りたくった小太りの女性を思い出した。侯爵夫人である自分を最高の女性であると勘違いしていた。 「侯爵も夫人共々、黒の館で再教育した方がいいんじゃないですか?」  ヴォルフガングは答えなかったが、冷めた眼が雄弁に語っていた。 「…でもさ、問題は一つも解決していないんだよな…」  ゲオルグの呟きに、ヴォルフガングは軽く肩を竦めた。

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