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第158話

 リーンが扉を開けると、レオンはブラッドを抱き上げたまま執務室に入った。  山と積まれた机上の書類を一瞥し、レオンは来客用の長椅子に座ってブラッドを膝に乗せた。  静かに扉を閉め、執務室を出たリーンは厨房に向かった。 「あーーっ、くそったれ!!」  天井を仰いでレオンは乱暴に髪を掻き上げた。 「レオンでも、そんな言葉遣いするんだ」  くすくす笑ってブラッドはレオンの顎を擽った。尖って硬いけれど、触り心地が良いなめし革のように弾力がある。  その細い指をレオンがじっと見つめてから、パクリと喰んだ。 「ひゃっ」 「俺は、元々柄が悪いんだ」 「噛んだまま喋れるの? 器用だね」 「まぁな」  指の間をひと舐めし、爪に軽い音を立てて唇を落とした。 「むかーし、イケナイ遊び、いっぱいしたって?」 「なっ、だ、誰に聞いたっ?!」 「おばば様」 「おばばめ。…他に何か言っていたか」  首を傾げ、ブラッドは思い出すように目を眇めた。 「んーとね、沢山の大人の女の人と、いっぱい色んな事をしたから上手だよって。何が上手なの?」  レオンは言葉に詰まった。 (余計な事を吹き込みやがって……!)  脳裏のおばばに罵詈雑言を浴びせ、レオンは誤魔化すように笑いかけ、ブラッドの赤髪に指を絡ませた。 「おばばの言った事は忘れろ」 「…忘れちゃうの勿体無いな。ぼく、レオンの事はどんな小さい事でも知りたい」  可愛い事を言う。胸の奥が擽ったいが、余計な情報は消して欲しい。 「ブラッドには、俺の格好良いところだけ覚えていて欲しいからな」 「レオンは、いつでも、何処でも、何をしてても格好良いよ」 「そうか。格好良いか」 「うん」  髪を絡ませていた手を取り、ブラッドはレオンの掌に軽く口吻けをした。剣ダコのある、硬い掌だ。長く戦ってきた証で、鍛え抜かれた手だ。 「ぼくを救けてくれた、格好良い手」 「格好良いのは手だけか?」  くすりと笑ってブラッドはレオンの頬に手を当てた。 「蒼穹の瞳。高くて筋の通った鼻。広い肩に厚い胸。悪戯好きの唇。長い手足」  指でなぞりながらブラッドが歌うように呟く。 「低くて心地好い響きの声で名前を呼ばれると、胸の奥が暖かくなる。大好き」   一通り指でレオンの躰をなぞり、両腕を首に絡ませた。目線を合わせ、にっこり笑う。 「全部ぼくの、だよね?」 「ああ。全部…俺はブラッドのものだ。ブラッドは、俺のものだろう?」 「そう、ぼくの全部はレオンのもの」  唇を軽く重ね、離れた。 「だからさ」 「うん?」 「ぼく以外の人と結婚するの、禁止」  何度か瞬いて、レオンはブラッドの目を見返した。 「禁止か」 「禁止。絶対、禁止」  ブラッドはレオンの唇に噛みついた。 『わたくしとレオンハルト様との結婚は皇帝陛下のご命令です』   絶対的存在に後押しされた己は正しい、と自信に満ちた強い視線だった。  その言葉には特に動揺はしなかった。  レオンが自分以外の者に心を動かすなど無い。これは確信。    けれど……。 『伴侶の鱗をわたくしに渡して下さい』  ブラッドは自分の胸を鷲掴んだ。 (ぼくの心臓はレオンの鱗で出来ている)  レオンが命懸けで作ってくれた心臓だ。   それを渡すという事は、自分の死を意味する。 (ぼくが死んだら、レオンは悲しむだろうな…。でも、長い時間をかけて、それに慣れたら……ぼくを忘れちゃう……? 新しい人を愛するのかな……?)  それは無い。  自分を忘れて新しい愛を得るなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。そうであって欲しい。  最高権力者の命令だとしても、レオンが自分以外の誰かを愛するなど嫌だ。  絶対、絶対、絶ーーーーっ対、嫌だ。 (ぼくじゃない誰かの手を取って、抱き締めて、愛するなんて赦さない)  レオンの唇に歯を立て、吸い上げ、舌を這わせた。レオンもブラッドの甘い唇を存分に味わい、吸って、舌を絡ませた。  指先が白くなる程胸を鷲掴噛んでいるブラッドの手を、レオンがそっと外した。そんなに力を入れたら、柔らかな白い肌に、掴んだ指の痕が出来ている筈だ。  無意識なのだろうが、それだけで、ブラッドがエヴァンジェリンに何を言われたのか分かる。  ブラッドとレオンの伴侶の鱗の交換は、文字通り互いの命の交換でもある。レオンが死ねばブラッドも死ぬ。ブラッドが死ねばレオンの心が死ぬ。  そして、レオンはブラッドが死んだ後、一呼吸の時間も生きているつもりはない。 (ブラッド以外と結婚しろだと? 俺が? 戯けめ!)  珍しく嫉妬をあらわにしているのが可愛くて、愛おしい。  命の色の赤髪を宥めるように撫で、優しく、優しく、舌を絡ませて吸う。 (ふざけた命令を出しやがって)  竜人族にとっての伴侶の鱗の意味が、長い時の末、随分と軽いものとなったらしい。  平民は竜身となれぬ代わりに互いの魔力を込めた魔石を交換し合って愛を誓う。   竜身となれる膨大な魔力を保有する貴族は、自身の心臓を護る唯一の鱗を交換する。互いの命を護り合う事で愛を誓うのだ。  古来より一夫一婦が基本だったが、政治的配慮により、当主が愛妾を持つ事が増えた。家同士の繋がり。皇家への忠誠の証、または人質として。  そうなると鱗の交換の意味が変わってくる。  他家を、相手を従わせる為の道具であり餌となる。  特に皇家とその親族の当主の鱗の価値は強大だ。  そして、全ての竜人族を統べる竜皇帝。  唯一無二の鱗を求めて高位貴族家は牽制しあい、または手を組み、後宮に美姫を送り込む。中位、下位貴族は士官して出世を望み、娘達は後宮に女官として仕えながら皇帝の眼にとまるよう足の引っ張り合いだ。    幼い頃から皇城に出入りしていたレオンは、そんな膿んだ宮廷に嫌気を差し、離れた。  今更、関わる気などひと欠片もない。  それなのに、今になって向こうから関わりに来るとは。それも最悪の遣り方で。 「んっ……、ふぅ…あ、んん…」  薄く開けた翠緑の瞳が自分を映していた。  必死に口吻けに応え、うっとりと吐息を洩らす。レオンの首に回した両腕に必死に力を込めて、縋りつく。  可愛い。  愛おしい。  渡してなるものか。  口吻けを解くと、熱い吐息を吐いて、くったりとレオンの胸に力の抜けた躰を預けきった頃、台車に茶器を乗せたリーンが扉を叩いた。  顔を真っ赤にして恥ずかしそうに紅茶を飲んでいるブラッドを眺めていると、再び扉が叩かれた。  入って来たのはゲオルグだった。 「先程、バッハシュタイン侯爵が到着され、家宰殿がお相手しております」  勅使が置いていった勅令書を机に広げた。文字を指でなぞり、途中で止まった。 「皇帝陛下の署名ですね」 「…勅令だからな」 「勅令で結婚ですか。不粋ですね」  冷ややかな視線の中に怒りがあった。青灰色の瞳に、それよりも濃い青の焔が揺れていた。  結婚に異議を唱え、あろうことか奥方を召し上げ、主に小娘を宛てがうとは。  己の従姉だが、主の相手としては不足も不足。  その上、主の隣に立つ事を当然とした傲慢な態度。不遜な顔。  同じ血筋としてゲオルグは己を消したい程恥じた。  今頃は家宰、父により侯爵父娘は心胆を寒からしめられているだろう。  ゲオルグの誤算は、竜皇帝の後押しがあるとエヴァンジェリンが気負っている事だった。    

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